Seventh bridge -すてられたものがたり-
「――――飲みなおそうぜ、ルード」
レノはルードから体を離すと、テーブルの足を進ませ、そうしてルードのグラスを手にする。そこになみなみと原液のアルコールを注ぎ、飲めよ、とルードに差し出した。
「乾杯しよう」
「何に?」
「うん…まあ、そうだな。…じゃあ―――――――新生活に」
「レノ…」
レノは己のグラスにもなみなみとアルコールを注ぎ足すと、それを高らかに天へと掲げる。そうして、彼らしい笑みを零しながら、
「乾杯」
そう言った。
チャリン、とグラスの鳴る音が響き二人のグラスは僅かに揺れる。波を起こした水面がやがて静かになるころには、その液体自体がそこから消えていた。
その後、何度かそんなふうにグラスを開けることがあった。
その都度そこにアルコールを継ぎ足し、それに応じて外れた理性をそのままに、声高らかに話に花を咲かせていく。しかしそれはもう、先ほどまでのような深刻な会話ではなかった。かつてそうしていたように、下らない何でもない話、ちょっとした笑い話、どうでも良い話などを思いつくままに繰り広げていく。
昔、誰が誰を好きだったとか。
昔、誰がどういう失敗をやらかしたとか。
昔、本当はこんなことを思っていたとか。
懐かしい、楽しい、屈託ない、そんな話が溢れている。
そういう話をして、レノは楽しそうに笑った。それだからルードも一緒になってそれを楽しんだ。
…………そうそう、そういえばさ…。
…………お前、知ってたか?あれ、実はさ…。
そういう話は無難に楽しめて、特に悩む必要もなく、とにかく楽だった。多少は酔っているだろうレノがそこまで考えているのかどうかは分からないが、多分レノはそれなりに、そういう話題を選んでいるのだろう。
ルードはそれらの楽しい話題に心を躍らせたものだが、しかしその心の隅の方では、このままこの時間が流れてしまうことに切なさを覚えていた。口には出さなかったし、心の中でもそれほど深刻に考える余裕はなかったが、それでもルードは気づいてはいたのである。それらの気楽な話は全て“過去”であり、これからという“未来”に関するものは一切ないのだということに。
この現状を考えれば当然かもしれない。
だって、未来を語るとき、それはただ笑って過ごすわけにはいかぬ問題なのだ。過ぎ去った過去は修正がきかないかわりに、深刻な事実を消し去って楽しいものだけを抜き出すことができる。編集ができる過去と、覗いても見えない未来とでは大違いなのだ。
談笑の最中、ルードはふと窓の外に目を遣る。
その向こうには聳え立つような工場群があり、それは今、夜の闇へと同化していた。権威の象徴の一つがこの平和な夜の中でひっそりと息を潜めて眠っていることは、まるで嵐の前の静けさのようで何だか嫌な気もする。しかし、そういう、どこからか湧き上がってくる畏怖の念には囚われたくなかった。
だから、笑った。
きっとこの先には喜びが沢山あるのだと信じて。
その夜―――――二人の腕は一つに括られた。
眠る間際、何を思ったのか、ルードがお互いの腕を一つに縛ったのである。部屋の中にあった紐状のものを使って力の限りに硬く結ぶと、レノの右手とルードの左手はもう離れることができなくなった。
「おやすみ、また明日」
そう口にして一つのベッドの中で眠る。
しかしお互いになかなか寝付けなかった。先ほどまで酒を煽っていたにもかかわらず、何故か妙に目が冴えていた。
その中で、ルードの空いた方の腕がレノの体を引き寄せる。
月明かりだけが頼りの暗いその部屋の中で、二人は一つの固体になったかのようにくっ付いて、抱きしめあった。そこは妙に暖かい。
ぴたりと抱きしめあって、何度かキスをする。
そうしていると不思議と安心した。
いつまででもそうしていられるような、そんな気持ちになった。
そうしていると段々と眠気がやってきて、二人はようやく寝息を立てることになったものである。片方の手はお互いに縛られており、もう片方の手はお互いに相手を抱きしめている。キスもしたけれど、それ以上のことはしないまま、ただただ寄り添う。
ああ――――いまだかつてこんな気分になったことがあったろうか?
悲しい。ただひたすらに、悲しい。
心のそこから湧き上がるような悲しさと切なさが、胸をいっぱいに占めていた。
溢れそうな涙をどうして堪えたら良いんだろう?
声を出したらいけないと思い口を押さえた。
しかし嗚咽は、必死で感情を抑えるその肩をふるふると震わせた。
上を向こう、上を。
涙が流れたりしないように。
ねえ旅立ちの時が来たわ これは最後の晩餐ね
今夜だけは素直に言わせて 貴方が好きなのだと
幸せはあの丘の向こう側にあるの
そこに辿り着く頃 私は大切な場所を失うでしょう
――――――――この信念の先にあるのは、幸せなのか?
それは分からないけれど。
いつか貴方との思い出は消えていくわ
だから今夜このグラスに閉じ込めるの 大切な言葉たちを
『私は貴方を愛しているわ』
――――――――ただ、感謝したい。
傍にいてくれてありがとう。大切な人よ。
貴方がいつか私を思い出したらその時はこう言って
『彼女はきっと幸せに暮らしてる、幸せに暮らしてる』
悲しいけれどサヨナラ 私が愛した大切な貴方
――――――――自分のことなど忘れてくれても構わない。
もしいつか、ふと思い出してくれたとしたら…その時は頼みがある。
その時は、こう言ってほしい。
“あいつは幸せだった”、と。
お前と出会えたことに、感謝したい。
ただそれだけで、この人生には意味があった。
窓から陽が差し、その明るさのためにルードは目を覚ました。
環境問題が起こったとは思えないほどに空気がすがすがしく感じるのは、昨夜のアルコールが抜けていないせいだろうか。
そんなことを思いながら頭を動かし隣を見やる。確か昨日はレノの腕と自分の腕を縛り、取れないようにして眠ったのだ。それはルードにとってとても意味のある行動だったのだが、どうやらそれは残念な結果に終わったらしい。
「――――レノ……」
ルードは静かにそう呟くと、相棒を失った自身の左腕をぼんやりと見遣った。
昨日確かに縛ったはずのそこには、レノの腕がない。勿論、隣に眠っているはずのレノの姿もない。
「…やはりな」
ルードは力なくそう呟くと、昨日抱きしめた相棒の温もりを探すかのように、両の手をじっと見つめた。今迄何事にも頑張って奔走してきたつもりだったが、とうとうこのときになって、この手は取り返しのつかないことをしでかしたらしい。
その無力な両手を見つめながら、ルードは思う。
もしかすると――――――――この手はいつもあの相棒を追いかけていて、昨日はついにそれを手にいれたのかもしれない。ところがこの手は、ようやく手にいれた相棒をまた逃がしてしまった。がしかしそれは、思えば元々無理なことだったのかもしれない。
無理を承知で、昨日という日、強引に手にいれただけだったとしたら。
「運命…かもしれないな」
そういうふうに、できているのかもしれない。
いや、そう考えなければ遣り切れないのだ。この心は。
しかしルードは、そんなことを考えながらも、レノを逃がしてしまったことについての重要な事実もそれなりには理解していたのである。
何となく、分かってはいたのだ。
レノが此処から消えてしまうだろうことは…この世界で元のような真っ当な生活をしていくという“未来”からは逃げてしまうと、何となくルードには分かっていたのである。それは昨夜の会話で十分証明されていたし、途中からレノが過去の笑い話ばかりして深刻な話を避けたのはそういう本心を隠すためだったのだろう。
それが分かっていたから、レノにどこにも行ってほしくなくて、ルードは腕を一つに縛ったのである。縛っていれば、動いたときに気づくだろうと思ったから。
でも、気づけなかった。
…いや、違う。
本当は違うのだ。
本当は、気づかないように抜け出せるように、その程度のやり方で紐を結んでいたのだ、ルードは。
紐は力の限り硬く結ばれてはいたが、元タークスであるレノからすれば、どんなに硬く結ばれた紐であってもある一定の法則で結ばれた紐などはすぐに解けることが分かっていただろう。ルードはそれを知っていて、わざとその結び方で結んだのだ。
自分は馬鹿だ。
ルードはそう思い、自分を詰った。
レノをどこにも行かせたくないと思っていたのに、心のどこかではそうしてレノを縛り付けることに疑問を感じてもいたのだ。それはかつて同じ道を、同じ光を見ていたものとして、その志に待ったをかけたくなかったという気持ちが動いていたからである。勿論それは、昨日のルードの発言とは正反対の考え方だ。むしろレノの考え方だろう。
ルードとて、レノの考え方が分からないでもないのだ。嫌いではないのだ。逆に、レノの気持ちも考え方も分かるからこそ、無難な道を提案してしまうのである。だってレノの考え方を実行すればそれは、とても険しい道でしかないと分かっていたから。それに、その先にあるのが平安だとは言い切れなかったから。
そういう気持ちの揺れの中、ルードは少し期待をしていたのだ。
解こうと思えば簡単に解けるこの紐を、レノが解かずにいてくれたら…と。
それはつまり、レノがレノの信念を捨て、ルードの提案する未来に同意するということである。そういう選択肢もあるのだとレノが承諾してくれたら、そういう未来を望む自分と一緒に生きていくことにレノが賛同してくれたら…そう思っていた。
――――――――でも、無理だった。
レノは、己の道を、己の光を、己の信念を選んだのである。
「分かっていたことだ…何を今更…」
悲しむことなどあるまいに。
そう思いながらもルードは、悲しみに膨らむ心を必死に押さえつけた。
こんな長閑な陽の差す午前に、どうしてこんな悲しい気持ちにならねばならぬのか。ただ人が一人いないというそれだけで、どうして人はこれほど悲しくなれるものか。
ただただ切ない。
「…滑稽だな。お前と最後に話したのは…夜の挨拶か」
“おやすみ、また明日”
それが最後の会話だった。
また明日と言ったのに、明日はやってこなかった。
それが、この長く連れ添った道での別れの言葉であり、最後の言葉である。そんな普通の何でもない言葉が。
「…長いと思ってきたが存外呆気なかったな、レノ…」
ただただ切ない。
過去も、今も、そして未来も。