真実の選択肢:23
とうとうドラッグの話に戻ったルヴィは、ザックスに渡したあの薬が、かつての実験の時とは違い、今回の実験用に新しく作られたものであるということを口にした。
但し、今ルヴィが話した一年前の実験の時とは違い、それは安全に違いないという。
何故なら、今回の実験で異常をきたしている人間は、0だから。
「何といっても悪徳な実験だ。マトモな女にとっては、知りもしない男とヤるなんて身の毛もよだつ話だろう。なかには辛気臭い男だっている、まず生理的に受け付けないだろう」
そこで、そのドラッグが登場したのだ。
クイ、と首を上げながら、そいつはな、とドラッグを示しながらルヴィは言う。
「そいつはな、幻覚作用がある。自分も相手も拒否することがないようにっていうのが前提の幻覚だ、勿論“良い方向”の幻覚になるな。それに加えて、生殖器に何かしらの働きかけがあるらしい。前回の実験では精神に異常がきたした…それを改善させるとなると、反対は正常だろう?だからさ、お前にそれを渡したのは」
「そんな…だからってそれ、何か保証でもあるのかよ」
「さあ。この知識も受け売りだ。同じ組織の奴で、実験助手って役に回された奴がいてな、そいつからの情報なんだ」
まさか、そんな理由で渡されただなんて。
実験での被害が無いというのは確かに安全の証拠となるかもしれないが、それにしたって得体の知れない物体である。それを勧めてくるだなんて軽率な気がしてしまう。
勿論、異常という異常はない。ザックスは健康そのものだったし、クラウドはそもそも異常な状態だからそれ以上の悪化など死しかありえないだろう。尤も、クラウドの場合は直接的にそれを含んではいないのだが。
ザックスは一つ溜息を吐くと、単純すぎる、などと文句を言った。
「これでもし俺がオカシクなったらどうしてくれるんだよ?こんな得体の知れないドラッグ…」
「でも役には立っただろう?」
確信を持ってそう言うルヴィに、ザックスは何も答えられないでいる。
役には…立ったかもしれないが、それでもそれは所詮薬の作用でしかない。
あのクラウドと会う時、それはいつでも「偽者」なのだとわかっていたが、こうして言葉で説明されてしまうと何だか妙にその現実が重くのしかかる気がした。
でも――――その薬を捨てられなかったのは事実で。
「もしお前がクラウドを抱いたら…幻覚だけじゃなく、クラウドの症状も改善されるんじゃないかと思ったんだ」
ルヴィは遠まわしにそう言って、ザックスをチラと見遣った。
それに対してザックスは、反対に目を反らしたりする。何となくバツが悪い。
ルヴィの言わんとしていることは大体分かっている。
生殖器に働きかける薬…それがもし異常を回避し正常を意図するものだとすれば、素人考えとはいえ、ザックスがクラウドを抱いた際に、局部から何らかの効果を流し込めるのではないかという事なのだろう。勿論その為には、クラウドの中に射精しなければならないのだが。
ザックスは、その辺りの事に関しては口には出さなかった。
その代わりに、別の話題を振る。
「こう色んな事が明るみに出たからには、この先の事を考えなきゃならないな。ルヴィは俺達に協力してくれるって言ったけど、神羅がこんなに近くにいるとなれば問題が大きすぎる。―――すぐにも、離れた方が良い」
ザックスはそう言い切ると、真っ直ぐにルヴィを見据えた。
その瞳は真剣で、それを見たルヴィは酷く満足そうに笑う。
がしかし、その満足そうな笑みは徐々に翳っていき、やがて最後には消沈した。
「――――ザク。何で俺を神羅だと思った?」
消沈の中で漏れたその質問に、ザックスは理由を説明する。
それはある日の明け方、丘の上から見た景色のこと。そこから意外と近くにあった例の神羅の建物は、ザックスの目にルヴィの姿を届けてしまった。
見てしまったのだ、あの時。
それを簡潔に説明すると、ルヴィは「そうか」と言って納得する。そしてその後に、いま消沈しているその表情の理由を口にし始めた。
残念なことに、それは良い話ではない。
それは……。
「重大な話をする、良く聞いてくれ。実は――――俺はある事を見落としてた」
その告白は、言葉の通り“重大”だった。
今までに出たどの内容よりも、あるいは重大なことだったかもしれない。
これからどうするか、その話をするとなれば自ずと語らねばならない話がそれだったのである。
「人員募集100名、50組。それはまさに実験体に等しい。だがさっきも言ったように、俺には“脱走者の追跡”という仕事も与えられた。…この意味が分かるか?」
「そりゃ、だから―――って。…おい。まさか…それ!」
「気付いたか?そうだ、人員など所詮は捨て駒なんだ」
皮肉に笑ったルヴィを見て、ザックスは愕然とした。
どういう意味か分かるかと問われて、初めてそこに行きついたという具合だったが、考えてみれば最初からおかしかったのである。
100名50組、それはいかにも実験台として集められた数である。そうでなければ、そのようにキリが良い数字で上手く組が出来るはずが無い。
しかしそれが人員募集の理由だとすれば、その人員達に「脱走者の追跡」などという任務が与えられるのはおかしい。目的は実験台なのだから他の任務を与えても意味はないし、そもそも実験経過を見る上で邪魔になってしまう。
つまりそれは、表向きの任務なのだ。
実験台と豪語して募ったのでは人は来ない、それは当然である。だからこそ、表向きの任務としてそれを与え、裏で元来の目的である実験を行っているのだ。
ルヴィの言ったように、それは“捨て駒”でしかない。いつ死んでも良い、いざとなれば消せば良い、そういう“捨て駒”。だから神羅は、民間からその募集をしたのだろう。
人が足りないのではなく、死んでも良い人間が足りなかったのだ。
「表向きの役割なんて、遂行しようがどうしようが奴等には構わないということだ。だから俺に与えられた“脱走者の追跡”も、期待などされていない…最初からな」
しかしそこが問題だった、そこを見逃していた、そうルヴィは続ける。
「では何が問題か?―――そうだ、つまり“脱走者の追跡”という役割は、予め違う人間に割り当てられているという部分だ」
「――――」
「…そして。俺が手に入れた情報によれば、それには協力者がいた」
そこまでを口にしたルヴィは、一旦言葉を切ると、じっとザックスを見遣った。
何か辛そうな表情を見せながら暫くそうして黙り込んでいたルヴィだったが、溜息をついたのを機に、その続きを重々しい口から放つ。
「協力者…それは――――お前が住んでいた家の初老の男だ」
ドクン、心臓が鳴った。
一瞬、呼吸が詰りそうになって、胸をおさえる。
「ま…さか。そんな馬鹿なことってあるか…?だって、そんな…」
瓶底オヤジが、自分たちを貶めた?
まさかそんなこと、あるはずが無い。
だって瓶底オヤジは言ったのだ、孫のようだと、家族のようだと。
ザックスに世間話をし、たまにはキツイ言葉を向け、それでも優しく教えてくれた。継がないかとすら言ってくれたのだ。ただの他人である、居候でしかないザックスに。
それに、今日もさっきまで話をしていた。
今日はパアっとやれば良いとギルまで持たせて―――――…
「…ちょ…っと待て!」
はっ、とある事を思いついて、ザックスはポケットの中をゴソゴソと探った。
そしてそこから瓶底オヤジの持たせてくれたギルの包みを出すと、焦ったようにその包みを剥がす。
急いだせいで数枚の紙幣がパラリと落ちたが、それが視界の端で床に落ちた時にはもう、ザックスの動作は止まっていた。
「う…そ、だろ…?」
ザックスの眼前にあったのは、恐ろしいほどの大金。
しかもその紙幣は二つの纏まりに分かれていて、一つはゴムで纏まっており、もう一つはバラバラに重ねられていただけだった。
その違いは、すぐに分かる。
だって、ゴムで纏められていたのは――――瓶底オヤジに預けていたギルだ。
いつか自分が死んだ時には頼むと、そういうつもりでザックスが預けておいた大量のギル。それを預かっていた瓶底オヤジは、大切なものだからといってゴムで纏めて管理していたのだろう。
もう一つのバラバラに重ねられた紙幣は、どれも皺が入っていて結構に流通してきた紙幣のようだったがこれもかなりの額だった。
これは――――瓶底オヤジからの餞別に違いない。
キュキュ、キュキュ…朝も昼も夜もそんな音を響かせながら、そうして稼いだギル。それを瓶底オヤジは、ザックスに手渡したのである。
たった一夜のハメ外しの資金としては、絶対におかしいくらいの大金を。
「嘘だ…そんな、嘘だよな…?…」
愕然としながら呻くように放出されたザックスの言葉は、ルヴィの耳にしっかりと入り込んでいた。その言葉があまりにも辛くて、ルヴィは思わず俯いてしまう。
ルヴィとしても、こんなことは言いたくはなかったのだ。
でも、言わなければいけなかった。
そうじゃなければ、失われるかもしれない命がある。
それを守るためには、例えそこにどんな辛い現実があろうとも、例えどんな悲しい裏切りがあろうとも、しっかりと伝えねばならない。
だからルヴィは、気が重いのを耐えながらもザックスにこう告げた。
「詳細は分からない…でも彼は、神羅と取引をしたということだ。ある事を条件に、お前とクラウドを引き渡す手筈だったようだ」
「“だった”、って何だよ…なあ、ルヴィ…?」
未だ愕然とギルを見詰めたまま、ザックスはそんなことを口にする。
だからルヴィは、一番気が重い言葉を口にしなければならなくなってしまった。
それは、スローモーションのようにゆっくりとザックスの耳に入り込んでいく。
あまりに重いその言葉は。
「――――引き渡すはず“だった”んだ、“今夜”」
『どうだ、たまにはゆっくりと話でもしてみんか』
―――――何で仕事を止めてまであんな話を…?
『時にはそりゃあ目を背けたくなることだってわんさかあるだろうよ』
―――――本当にそうだ、今だって目を背けたい。それが許されるなら。
『もし何かあったなら…本当に今それを捨てて良いのかどうかを見極めなけりゃ』
―――――捨てるべきものって、何だ?
『お前さんが今捨てようとしているものは、まだ取り返しのつくもんだ』
―――――取り返しのつくものって、何だ?
『なあに、たまにはパアッとやってこい!』
―――――でも…でも瓶底オヤジ…
『たまにはクラウドも外に出してやると良い。たまには良いもんだよ』
―――――クラウドも一緒に…?でも、瓶底オヤジ…それじゃあ…
『返ってこないものは、沢山あるんだ』
―――――もう、瓶底オヤジは返ってこないじゃないか。
衝動を止めることができないまま、クラウドの手を引きながらザックスは走った。
酷く心配したルヴィがそれを追ってきており、もう姿を晒すのは危ない、と必死に訴えていたが、それでもザックスは構わずに走っていく。
どのくらい走ったのだか分からない。
道も分からないまま走ったものだから、多分かなりの遠回りをしたのだと思う。
しかしそれでも見知った道に辿り着き、やがて見慣れた瓶底オヤジの家に辿り着いた時、ザックスはその変わり果てた姿に思わずガクン、と膝を落とした。
地べたに座り込み、呆然とする。
―――――――何でだ…?
分からない、どうしてこうなってしまうのだか分からない。
ザックスの眼前に聳え立つものは、今や骨と灰だけとなった家だった。
すっかり燃え果てた後のその家は、最早どんな内装をしていたのかとか、どういう構造になっていたのかとか、そういった事すらも分からない状態である。
それでも申し訳程度に残っていたのは、瓶底オヤジがいつも仕事に使っていた靴磨きの機械だった。鉄で出来たその機械は、頑丈な作りをしていたのだか、煤けてはいたが原型が崩れるというところまではいかなかったらしい。
それが、丁度作業をしていた部分にぽつんと取り残されている。
その少し先には、何か黒い塊のようなものが横たわっていたが、今更それを確認する必要などありはしなかった。
―――――――何でこうなってしまうんだ…?
そう思ったけれど、追いついたルヴィの口から漏れ出た言葉を聞いてしまった後では、それも愚問と化してしまう。
仕方無い事だと割り切るにはあまりにも生々しくて、近すぎた。
だけれど、もう居ないから。
“取り返しのつかないもの”だから“後悔はしない”。
でも―――――…出来ることなら。
土産を持って、「ただいま」と言いたかった。
今夜、引き渡す手筈だった。
その刻限、そこには引き渡すはずの当人がおらず、神羅はそれを契約違反と見なした。
契約違反は重罪である。それは瓶底オヤジも分かっていたはずだ。
最後、彼は何を思っただろうか。
それは今はもう誰も知らないことだけれど、彼がこの契約の条件としたものと、そしてザックスに対して起した行動を思えば、それは何となく計り知れる。
“養子となった孫の、戸籍を戻す”
――――――それが、彼が神羅と契約をした際の条件だった。
彼の孫とは、勿論、彼の娘が生前に産んだ子供のことである。
その孫の父親、つまり娘の夫に当る男性は、身体的な病を患っている病人だった。しかもそれは奇しくも、一年前の神羅の人員募集によって実験体にされた男性の一人だったのである。
その男を愛し、子供を産んで死んでいった娘。
神羅さえいなければ、彼女は不幸になどならなかったろうに。
きっと、瓶底オヤジは神羅を憎んでいただろう。そして、元神羅のソルジャーだと打ち明けたザックスにも、良い印象など持ってはいなかったろう。
けれど彼は選んだのだ、最後の最期に。
血の繋がりも何もない、それでもそこに帰ってくる「孫」を。