「会社って、そんなに大変か?」
ふとそんな事を聞いたルーファウスに、男は不思議そうな表情を浮かべた。
「会社ですか。…そうですね、多分、貴方があそこに入るとなれば、それは大変でしょうね」
「どういう意味だよ?」
「貴方はそれなりのポストに就くでしょうから、そういう意味ですよ」
ああ、と頷き、ルーファウスは俯く。
確かにそうなる可能性は至極高い。自分が男というだけで、そうなってしまうだろう。
しかしルーファウスは、そうなるだろうという事実にジレンマを感じずにはおれなかった。それは、父親の姿を見ていればそうなってしまうのも頷ける話である。
仕事は大切だろうし、それはそれで理解もできる。がしかし、いつかの夜があまりにも惨すぎて、嫌だと思う部分が強かった。
父親のようになってしまうのが、とても怖い。
息子として父親に対する愛情が無いわけではなかったが、もしかするとそれは、親子愛という幻想に縋りついているだけなのかもしれないとも思う。
「大切なものって、大変な仕事には負けるもんなのかな…」
思わずそう漏らすと、近くにいた男がルーファウスに一歩近付き、少し笑って言った。
「そんなことはありませんよ」
まさか独り言に答えが返ってくるとは思わず、ルーファウスは驚いてしまう。しかもその言葉は、丁寧な音と優しい意味合いをもって返されたのだ。
「そういった気持ちを忘れなければ、負けたりしませんよ。…飲まれたら終わりですけれどね」
「飲まれるって?」
「仕事に飲まれるということです。いつも周りにある大切なものへの感謝すら…忘れてしまうほど、辛かったなら…話は別という事です」
「そうか…」
その男は、妙に自分の感情にぴたりと当てはまる言葉を吐くような気がした。家庭事情など何一つ話していないのに、まるで全て知っているかのようである。
「言葉に出せばいいのですよ」
ふと、その男は言った。
「え?」
「声に出して言えば良いんです。負けたくないと思うなら。大切だと思うものに、大切だと言ってみれば言い。言葉にしないと薄れていくでしょう?」
「そういうものかな?」
ルーファウスは首を傾げた。けれどそれは良い方法かもしれない。まるで学習のようだが、確かに復唱することで忘れないものもある。
「本当に大切ならば、ちゃんと言わないと失ってしまうんですよ」
そう言って、男は微笑んだ。
ルーファウスは頭の中でその言葉を反芻した後、無意識にその言葉をつぶやいた。
ちゃんと言わなければ失ってしまう―――――。
そうする内に、部屋の向こうから声が響いた。
「ツォン!ツォン!」
それが父親の声だと気付き、ルーファウスははっとして男を見遣る。多分、この男のことだろう。目を向けた先の男も、その声に反応して素早くルーファウスから身を遠ざけた。
それから、一つ小さく礼をして、
「またいずれ」
と口にする。
男はドアを開けると、そのままルーファウスの前から姿を消した。
その男が家に来たのは、それが最後だった。
多分、小さな食事会などの護衛をするよりも大切なポストに就いたのだろう。
その後もそういった催しは開かれてはいたが、その後に護衛という名目でやってきた男達は全く違う人間で、どこかルーファウスを見下すような目つきをする、とても好きにはなれそうもない人間ばかりだった。
ルーファウスは考えていた。
その男の言った言葉を口に出してみながら、考えていた。
ちゃんと言わなければ失ってしまう、その言葉を。
母親はいつの間にか姿を消してしまい、行方が分からなくなった。それについて父親に聞いてみても、そ知らぬ顔をされるばかりで埒が明かない。
生きているかも死んでいるかも分からないし、ちゃんとした話し合いを経て書類上の決別をしたのか、それとも全く言葉の無い別れだったのかすら、今は分からない。
ただ、思う。
あの時、秘密だと言って笑った母親の言葉を、その約束を少しばかり破って真実を告げていたら、父親はあんなふうにはならなかったのだろうか。小さな生命は失われなかったのだろうか。
あの夜、どんな場面に遭遇しようとも止めに入っていれば、やはりあの命は救われたのだろうか。
いつの間にかいなくなってしまった母親に、大切だと常に告げていたら、失ったりしなかっただろうか。
いつも言葉を制御してきたから、それは失われてしまったのだろうか。
―――どちらにしろ、後悔ばかりをしている気がする。
そうなってしまうというなら、彼が言ったように口に出してみた方がいいのかもしれないと思う。
「…“ツォン”…だったかな…」
直接名前を尋ねたことは無かったが、あの夜、父親がそんなふうに呼んでいた気がする。
あの男は、ツォンという名前なのだろう。
そんなふうに思いながら、ルーファウスはその名前を忘れないように、やはり口に出して繰り返してみた。
その男の微笑んだ顔が思い出される。
いつか母親が微笑んで秘密を打ち明けてくれたように、その男も優しい笑みを見せながら、自分に大切なことを教えてくれた。
もしいつか父親の経営する会社に身を置くことになったら、その時はその男にまた会ってみたいと思う。
そして、その時には言おうと思っていた。
いつの間にか心の中で大きな存在になっていたその男に。
今度は失わないように―――言葉にして。
世間のモラルなど問題にはならなかった。
重要なのは、大切だという事と、失いたくないという事だけだった。
さすがに再会して直ぐには口に出せなかった。
それでも必死になって言葉にした。
「おかしいと思うかもしれないけど―――ツォンの事が好きなんだ」
救ってくれた人だと、ずっと思ってた。
失いたくない、大切な人だと、ずっと思ってた。
ずっと―――出会ったときから。
白濁した体液が散らばった床に、ルーファウスは何も考えずに崩れ落ちた。さすがに逃げ場からは意識が戻り、今は現実のツォンが視界に入る。
ツォンは淡々と服を着込んでいる最中で、ルーファウスには目もくれなかった。すっかり服を着終えたツォンは、ふと視界に入った書類を手にし、それをルーファウスに手渡す。
「どうぞ」
「……」
書類を受け取りながら、ルーファウスは今度こそ本当に涙が流れた。その書類を手渡した意味は、すぐに分かる。もう用は済んだ、仕事に戻れという意味だ。
どうしてそんなふうに出来るのか、こんなふうになったのか、やはりルーファウスには理解できなかった。
自分がずっと想っていたツォンの影は、いま目前にいる男の中には微塵も無い。
自分がやっとのことで想いを口にした時まで、そんなことは考え付きもしなかった。それも当然だろう、普段のツォンが見せていたのは、正にタークスとしての、仕事上の顔だったのだから。
けれどルーファウスには信じられなかった。あの夜に見せてくれた表情や言葉は、とても表面的なものだとは思えなかったのだ。
それでも現実は酷く生々しい苦痛しか与えてはくれない。
そう思うと、こうやって抱かれる度に苦しくて悲しくて、涙が流れた。とても乾きそうにはない涙が、とめどなく溢れた。
「―――何故、泣くんです?」
ルーファウスの姿を目にしながら、ツォンはずっと思っていた疑問を口にした。毎回そうやって泣くルーファウスが理解できなかったからである。
そんなツォンに、ルーファウスは答えではなく疑問を発した。
「……覚えてないのか…昔、会ったときの事―――」
思い出してくれれば良いのに…という期待も無くはない。けれど多分、それは無理に等しいだろうとルーファウスは思っていた。
それでも、口に出してみる。
事の最中にツォンの名前を繰り返し呼ぶように。
それでも想いを口に出してきたように。
「昔?……さあ、記憶にありませんね」
忘れましたよ、そう続けながらツォンはルーファウスを見遣る。
「それが何か関係あるのですか?」
「―――――」
ルーファウスは言葉を返せなかった。
もう、あの時のツォンはどこにもいないのだと、その言葉だけで悟ったからである。ずっと想ってきたその心さえ、今は対象がいないも同然なのだ。
例え同じ名前と同じ顔と同じ声を持っていても。
ルーファウスに最後の杭を打つべく、ツォンの言葉は暗い部屋に響き渡った。
「私は、貴方などに興味は無い」
部屋の鍵が、チャリン、と音を立てて床に落ちる。ツォンの手から落ちた鍵に目を落とすこともできずに、ルーファウスはただ絶句した。
そうするルーファウスをものともせずに、ツォンは踵を返してその部屋を出て行ってしまった。そのドアが閉まる音は、酷く重い。
―――――終わったのだ。
動けないままに、ルーファウスは思った。
ずっと違うとは感じていた。その人は別人なんだと感じていた。けれど、それでも拒否だけはしなかった。
もし拒否をすれば、それだけで直ぐにツォンは自分から身を引くに決まっている。そして何も無かったように日々を送ることになるだろう。それは分かっていた。
けれどルーファウスにはそれは出来なかったのだ。
やっとのことで打ち明けた気持ちから、出来上がった関係―――、
それはこんな酷いものでしかなかったけれど、それでもその相手がツォンであれば、繋がりがあれば、それだけでも良いと言い聞かせてきた。それすらなくなってしまったなら、全てが終わってしまうような気がしていた。
だから、拒否だけはしなかった。
けれど―――望む相手は、もういないのだ。確実に。
「どうして……ツォンが教えてくれたのに……」
大切ならば言葉にして伝えろと言ったのはツォンだった。
言わなければ失うと言ったのはツォンだった。
大切だから、失いたくないから―――だから、言葉にしたのに。
それなのに。
「ツォン……」
ルーファウスは書類を握り締めながら、目を瞑った。
失うくらいなら、口になど出さなければ良かったのだろうか。
「ツォン…愛してる…」
もう意味はなさないだろう言葉を、それでもルーファウスは呟いた。
なぜならそれは―――大切な人が教えてくれたことだったから。
背中に手を這わせる。
そういえばルーファウスの立てた爪が、肌を存分に抉っていたことを思い出して、ツォンは顔を歪ませた。
傷は、残るだろう。
今や大きく晴れ上がっている肌。
それをさすりながらツォンは思い返していた。ルーファウスの言葉を、である。
「昔―――か」
口に出してから、ツォンはふっと笑った。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
昔などとうに忘れたのは本当のことだった。ルーファウスに放った言葉に何一つ偽りは無い。過去に自分がルーファウスと会ったという記憶すらハッキリはしなかった。
当然だ、とツォンは思う。
なにしろ、神羅に入ってツォンが得たものは、滅私奉公でしかなかったのだから。最初はそれこそ希望とやらがあったかもしれないが、そんなものはとうの昔に消えてしまった。
大切だったろう何かも、ツォンは忘れてしまったのだ。
この場所には、そういうものを保有しておく余地は一切無い。
それは単なる綺麗事でしかない。
そうして自分を追い込んだのは神羅に他ならなかった。そして、その神羅というものの象徴は、プレジデント神羅であり、ルーファウス神羅でもあった。
ツォンの忘れてしまった過去に縋るルーファウスを思い返して、ツォンは口の端を上げる。
「私は―――間違っても愛したりなんか、しない」
背中の傷が疼く。
それはルーファウスの想いの重さを表すかのように、大きく腫れ上がって。
忘れるのは許さない、とでもいうように、深く刻まれるのだろう。
きっとこの傷は消えない。
この、爪痕は。
END