07:WISH 空虚な切望
固く瞑られた目に、ツォンは上げたままの状態の手を静かに下ろした。
感情に囚われて主人を殴ったのは、正に不覚である。が、それを後悔してはいなかった。そのくらいの制裁が一体何だというのだろうか。
何しろこの人は、それ以上に心を抉るのだから―――。
止まった手に、ルーファウスの瞼は少しずつ開き始めた。その中にある蒼い眼球が、静かにツォンを見ている。それは責めるように、そして挑発するかのように、ツォンには映った。
その目に対し、恐ろしいほど優しい声が響く。
それは緩やかに、そして絡みつくように。
「そろそろ教えて下さい。どうして私を選んだか、を」
問いに答えは無い。それは、分かっていた事でもある。今までの様子からすればきっと、ルーファウスは答えなど口にしないだろう。それは分かっていたが、それでもツォンは言葉を続けた。
「本当は後ろめたいのでしょう?私とこうする事も、全部。それでも貴方は此処に来たんですよ。その意味が、ちゃんと分かってますよね」
「……俺、はっ」
「望んだのは、貴方の方だ」
ツォンが突きつけた言葉は、ルーファウスの心の奥に深く突き刺さった。拒否する事無く、いつも選んできた、この結果。そして、この部屋に来た時には否定した、それは言葉だった。
違う、そう言いたかったが、目前のツォンはそれを許さなかった。
もう偽りは許さない―――そう、目が語っている。
「理由など必要ない、貴方はそう言った筈です。…でも、本当は理由が存在している」
「…!」
誘導されるように、ルーファウスの眼が揺れる。
ほら、貴方はやはり隠せないではないですか。
ツォンはゆっくりと上体を傾けていった。それはルーファウスの上半身とスレスレの状態で平行線を保ち、それから顔を寄せて、その耳元にこう囁く。
「特定の誰かの事かどうか聞いた時―――貴方は否定していた。でも、違う」
ゾクリ、という感覚がルーファウスの身体を震わせた。自分が今まで隠してきた全てが、どういう訳かツォンに見透かされているような気がする。それはルーファウスが望み、作り上げたこの関係に於いてはタブーそのものであった。
ツォンの右手がルーファウスの髪を丁寧に撫でる。
左手は、スルリと緩やかに股間を下降する。
「全てを服従させたい?…そんなのは違う。貴方はたった一人、服従できればそれで良かったんでしょう?」
下降した左手は、肌に隠された奥の部分をこじ開ける。乾いた狭い入口は、ツォンの指を頑なに拒否していたが、それでも多少強引に押し入れると、擦れるように受け入れを始めた。
「うっ…っ」
突如与えられた感覚に、不意打ちをくらったようにルーファウスは声を漏らした。それはいつもの行為と全く同じで、慣れている筈の事だった。だが、妙な痛みが走る。
その様子を目に、ツォンは顔を寄せたままの状態で耳に舌を這わせた。
「二本くらい、どうって事も無いでしょうね。もう随分と慣れてるのだから、貴方の此処は」
「あ、っ…や、やめ…」
飲み込まれた二本の指は、体内の粘液で徐々に動きを潤滑にさせていく。奥深くまで押し入れられては引き抜かれるそれが、今まで守ろうとしてきた心を打ち砕くように快感を与えていた。
「誰に慣らされたんですか?」
無意識に口端が歪む。
「誰に挿れられて、こんなになってしまったのでしょうねえ?」
動きは激しくなり、その動きと同じように身体が揺れる。それがルーファウスの髪を崩し、溶けそうになる顔にかかった。
「不服ですか、ルーファウス様。貴方の身体をこうしたのは、貴方の部下である、この私なのですよ。そう、他の誰でも無い――」
「や、や…ツォ…あっ」
ツォンの耳元にかかるその声は、徐々に明確さを失っていく。それはまるでツォンの思惑通りに事を運んでいる証拠のようで、合図のようでもあった。
頑なに守られていた心を切り崩すならば、こういう時が良いだろう。
理性が無くなる時、それが良い。この心は、操られ、踏みにじられたのだから。
そうして誰かを犠牲にしてまで守ろうとした―――その相手が、許せない。
それ以上に、その相手に囚われたルーファウスが、ツォンは許せなかった。
従順な部下は掃いて捨てるほどいる。その中にツォンは位置しており、それは常に破られる事は無かったはずだ。それなのに、敢えてその蚊帳の外にいる者に心奪われ、その心を求めた主人は、大きな罪を犯した。
―――その罪は、貴方だけじゃなく、私をも狂わせたのですよ。
ゆっくりと、その言葉は呟かれた。
「本当は誰にこうして欲しかったのですか?」
弄ぶ指先が身体の奥を抉り、言葉は心を抉る。そのどちらからも追い詰められたように、ルーファウスは顔を歪ませた。
「誰にその表情を見せたかったのですか、言ってごらんなさい」
「や、めろ…」
ルーファウスの眼は、また固く瞑られる。本当なら、全てを隠すが如くに顔を手で覆いたかった。けれど、手は縛られたままで自由が利かない。
ツォンの言葉の誘導により、ルーファウスの心の中にある人物が姿を現す。それは、自分を救った、そしてその心を捉えて離さなかった、人。
助けて欲しい―――そう思うのも、無理は無い話だったかもしれない。
「その男の名前を…言いなさい!」
ツォンは咄嗟に上体を上げると、白い首筋を右手で覆った。
「い、嫌だっ!」
息が詰まるような感じにルーファウスは声を荒げたが、それでもその手は力を増すばかりで逃れようが無い。まだ、下半身から体内に突き刺さる感覚もある。
それらはぐちゃぐちゃになり、ルーファウスを支配していた。
「助けでも何でも求めれば良い、その男に!」
「う、っ…ツォ…」
息苦しい―――。
ルーファウスの閉じかけの眼から、ふいに涙が流れた。
目を開ければ、そこにはツォンの姿があるはずだ。そのツォンの手は、自分の首を絞めている。このままでは、息が途絶え、自分は死んでしまうだろう。
それは自分が犯した過ちの為。
だから―――仕方無い事、なのかもしれない。
ツォンが怒るのも無理は無い、そう思う。
いつも自分に忠実だったツォンの、その態度を利用して始めた、罪。
ルーファウスは、途切れそうな意識の中で思っていた。
―――もう、楽になりたい。
―――ツォン。お前はこんな私を、我侭だと言うだろうな。
分かっていた。切望する相手は、どんな手を尽くした所で手に入りはしないと。
本当は分かっていたけれど、それでも認めたくなかった。
だから…。
「…俺を…こ、ろ…せ」
掠れた声は、涙と共に零れ落ちた。
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