ソファに腰を下ろしながらも上体は真横に反らされている―――その状態で、ツォンはルーファウスの要望に応える如く、口づけを繰り返していた。
とても不思議な関係だと思う。
だがそう思う反面、この日にこうして二人でいられる事は幸運だ、とツォンは思っていた。
明日はルーファウスの言った通り、古代種の神殿に向かう事になる。
今まで、セフィロスを追う事は神羅の更なる展望へのステップという概念があり、それは当然のように遂行されるべき事柄だった。
けれど―――何故かその場所を察知した後から、ツォンは嫌な予感がしていた。
未だかつて感じたことの無い、予感である。
それが何を意味しているかは定かでは無い。だが、多分良くない事だ、と思っていた。
もしかしたら自分は……そんな不安もある。何故だかは分からない。
その予感はどうにも消えず、もし最悪の事態が訪れるならば心残りが多すぎる、と思った。その最大の心残りは、この目前の社長である事は確かで。
もし最悪の事態が起こってしまったら――――この人はどうなるのだろうか?
そう考えると、とてもじゃないが遣り切れなかった。
冷徹そうに見える表情の裏に、ちょっとした衝撃で崩れてしまう脆さを隠し持っていることを、誰も知りはしないだろう。
多分、それを知っているのはツォンだけだった。
素を見せるだけの安らぎはルーファウスの周囲には無いし、神羅にも勿論ありはしない。何故ならそれは、社長としての顔でしか接しない空間だったから。
ルーファウスが一人の人間としての顔に戻るのは、ごく稀だった。
多分、ツォンがそれを知ったのも偶然だったろう。
だから―――そんなルーファウスを残しては、逝けない。
冷酷と言われ、切れ者と言われ、確かにそう言われるだけの能力を有しているこの人が、どうにかなってしまうのがとても怖い。
それは傲慢な危惧だったかもしれないが、それでも心配だった。自分の身よりも、ルーファウスの事が。
「どうした?」
ふと離れた唇に、ルーファウスは訝しげな声音でそう問う。
それはいつも通りの顔だったはずなのに、ツォンには何故か悲しげな表情に見えた。
この人は悲しむだろうか―――そんな懸念が、心を過ぎる。
「何でもありません」
そう言いながらもツォンの思案顔は崩れず、結果、ルーファウスの気分はそこで途切れてしまった。
むくりと起き上がると、少し乱れた髪を軽く直す。
それから、こう呟いた。
「―――何だか、胸騒ぎがするんだ」
「…え?」
ツォンは思わず声をあげる。
胸騒ぎ…それはツォンも感じていたが、まさかルーファウスまでそんなふうに感じていたとは意外だった。だって、命令するのはいつでもこの人なのだから。
「…明日、お前が行くのは…」
「はい」
「お前が行くのは―――何だか、嫌な気が…する」
ぽつりと呟かれたその言葉に、ツォンは何と答えて良いか分からなかった。
もしかしたら、ルーファウスも最悪の事態を想定しているのかもしれない。そうでなければ、こんな言葉は吐かないだろう。
「仕方ありません、仕事ですから」
「その采配を振るのは私だ。…やはり、お前には行って欲しくない。…何故だかそう思うんだ」
少し強くなる語調に、二人の視線は図ったかのように交わった。
ルーファウスの視線の言わんとする事が痛いほど伝わり、ツォンはどうして良いか考えあぐねる。
しかし、答えが出る前に、ルーファウスはその言葉を言い放った。
「―――――行くな」
ツォンは、恐ろしいほど冷静な頭でその言葉を反芻する。
それは与えられた命令とは逆の意味合いを持つ言葉だったが、それがルーファウスの本心なのだと理解できる。
そして、その本心が「個人としての意見」だという事も。
「そういう訳には…いきません」
「命令でも?」
「―――それは、社長としての命令ですか。それともルーファウス様の個人的な命令なのですか?」
例えばその命令を受けたとしたら、誰がこの任務を遂行するというのだろう。
それを考えれば自ずと答えは出てくるし、今更そういった事を口にするのは間違っていた。
「……個人的な、と言ったら…行くんだろうな、お前は」
少しトーンの落ちた声で、ルーファウスはつぶやく。
「そうです。私は…貴方の前では、タークスのツォンですから」
ツォンは、なるべく感情を出さぬようにしてそう答えた。
その言葉は、ルーファウスに少なからず衝撃を与える。そして、ルーファウスの感情に杭を打つ言葉でもあった。
「……嫌な奴」
「そうですね」
はあ、と溜息をついた後、ルーファウスはソファの背にもたれかかった。それから少し目を細めながら、遠くの一点を見つめる。
「不安だ。お前が…どうにかなってしまうような気がする…。どうしたら良いんだ?」
憂いを帯びたその横顔を見ながら、ツォンは考えていた。
とてもじゃないが、自分の口からは言えない。
まさか自分自身もそんな予感を抱いていることなど―――。
もしそう口にしたなら、もはや反論の余地もなくルーファウスは「行くな」と言い張るだろう。けれどそれは、ツォンにとっては言って欲しく無い言葉だった。
自制心が負ければ、その言葉を飲み込んでしまうだろう。
しかし、タークスや神羅の社員としては飲み込んではならない事にちがいない。
だからツォンは、ルーファウスに反論せねばならない。それが彼にとって正しいことで、会社にとってもルーファウスにとっても正しいことだからである。
けれど本当は――――、
本当は、不安そうにするその顔の側にいたい。
それだけが真実なのだ。
「……ルーファウス様。私は、神羅でどういう立場ですか?」
おもむろにツォンの口からそんな言葉が漏れる。それはとても緩やかな表情を伴って伝えられた。
「―――タークス主任、だな」
「では、貴方の“何”ですか?」
「…何って…。―――部下、だろうな」
それがどうかしたのかと、訳が分からないといったふうに聞くルーファウスの顔が悲しい。はっきりとそう答えた事が、全てを証明している事に気付いていない…その顔が。
ルーファウスは自ら口にしたのだ。
上司と、部下だと。
その間柄では、個人的な感情の介入など許されようはずもない。
だから―――――決断を。
悲しい、不安そうな顔などは全て消して。
ツォンはゆるやかに笑むと、ゆっくりと口を動かした。
「ええ、その通りです。だから…私に下さい」
「何を?」
たった一つの言葉で、この心も身体も全てが、捧げられる。…だから。
「―――――命令を」
揺らいでしまった心の軌道を戻す為に、ツォンはその言葉をはっきりとした口調で伝えた。
その言葉が何かを崩してしまう事は分かっていたが、それは仕方ないと思う。
こうでもしなければ、ルーファウスはきっと不安な気持ちを振り払えないだろう。そして多分、ツォン自身も後ろ髪を引かれながらセフィロスに立ち向かう事になってしまう。
どう考えても、それはいけない。
だから必要なのだ――――命令が。
「ツォン…」
ルーファウスは告げられたその言葉に、少し驚いたような顔をしていた。まさか、そんな言葉をかけられるとは思ってもみなかったのだろう。
ルーファウスは普段からツォンのことを堅いと表現していたが、一度その堅い殻を脱げば、心から自分を守ってくれる人物だという事を熟知していた。
だからその言葉は、どちらかといえばルーファウスにとって嫌な言葉であったのである。
「…命令が、必要か?」
ツォンは黙ってその言葉に頷く。
「…そうか。それが正しいと、そう思うんだな。お前は…さっきの言葉を消したいんだろう?」
“行くな”という、あの言葉を―――。
ツォンは、肯定するかわりに微笑みを浮かべた。
――――ああ、そうだ。消さなければならない。
それはツォン自身の為にも、そして何よりルーファウスの為に。
強まる不安を押し殺しながら、ルーファウスは目を閉じて言葉の続きを口にした。それは、ツォンに誘導された、まるで本心ではない言葉だった。
「―――明日は、宜しく頼むぞ」