その夜、ルーファウスはいつかの胸騒ぎに襲われていた。
それは徐々に強くなり、実際に胸が痛くなった。此処最近ではそれは普通に起こることだったが、それにしてもその日は本当に酷い感覚だった。
まるで――――、、
そこまで思って、それ以上を考えるのをやめる。
こんなことを思っては、また嫌な結果をうみそうで嫌だったのだ。
そうしながら、自然と足はツォンのいる空間へと向かう。
足早に社長室からその空間までを辿ると、もう誰も残ってはいないはずの神羅の中で、その場だけは明かりが灯っていた。
ツォンを診ているあの医者も、先ほど退勤したらしい。となれば、そこにいるのはとツォンだけということになる。
起きているのだろうか――――そう思い、ルーファウスは静かにドアを開けた。
その瞬間、暗い廊下に明かりが漏れ、明かりの中で宙を見つめていたその人物がこちらを向く。それは間違いなくツォンで、その眼はしっかりと開いていた。
顔は、何となく笑っているようにも見える。
「ツォン…?」
起きてたのか、そう続けながら、ルーファウスは中に入り込んだ。
それから後ろ手に静かにドアを閉めると、疲れた顔を無理に押しのけながらツォンに近付く。一歩一歩が重いのは、疲れが溜まっているせいだろう。
「ルーファウス様。まだいらしたんですか」
「悪いか」
「いいえ。分かっておりますから」
どうせまた会社に泊まるだとか言うのだろう。大体そういう事でしか生活が成り立っていないのだ。
何となく話題を変えようと、ルーファウスは「気分はどうだ」などと声をかける。それに対しては曖昧な言葉が返ってきただけで、はっきりした答えはない。
それはそれで仕方ないことだろうなどと解釈をしながら、ルーファウスは寝台横の椅子に腰をかけた。
夜の静かな部屋の中――――何だかホッとする。
「良かった…ともかくお前がこうしていてくれて」
「…そうですね」
安心しきった顔がツォンの眼に映る。それはツォンの胸を痛ませた。
そんなに無防備に安堵の顔を向けるなど、悲しすぎる。
「……死ぬかと、思っていたんだ」
そう言いながらルーファウスは俯いた。
それは時間にして、一週間。
移植前までで大まか二日間だったので、その後五日が経過していることになる。
そして、実際にツォンとルーファウスがこうして話をするようになったのは昨日からで、存在はあっても存在感を戻し始めたのはつい今しがたといっても過言ではなかった。
上半身を起こして寝台に座っているツォンは、そんなルーファウスを見ながら静かに頷く。けれど実際に心の中に渦巻いていたのは、もっともっと暗いものである。
死ぬかと思っていた―――そんなふうに言うルーファウスが出した結果が、今の自分。
死に切れなかった自分を、生かした人。
それは自身の為でもあり、ツォンの為でもあったが、結局ツォンの心の中に生まれたのは罪悪感だった。
この人の体に傷をつけ、そして奪った―――。
体だけでなく、その精神すらも。
それは、その地位に必要とされる強靭な精神を確実に破壊したのだ。こんな顔をさせるまでに。
「私は死なないと言ったじゃありませんか」
そう思いながらも、ツォンは心の内と正反対の言葉を口にした。
「そうだったな」
それに対しルーファウスもそう答え、二人は暫し無言で見つめ合う。
お互いの心の内は今や全く別の動きをしていて、どこかでは絶対に繋がっていることは分かっているのに、何かがちぐはぐだった。
それは、生かそうとする者と、死を覚悟した者との違いだったかもしれない。
ただ、その中枢にある気持ちだけは変わらなかった。
自分は目の前の人の為に、在る。
それだけが変わらない事実。
「ちゃんと、立っていてくれましたか?」
ふとそんなふうに聞いたツォンに、ルーファウスは、どうだろうか、などと言葉を濁す。
「別に約束を破るつもりはない。無いけれど…」
ツォンの言葉の逐一を反芻しながら、言葉を選ぶ。
自分がツォンの体に施した行為は、あの日ツォンが告げた言葉をどことなく裏切る行動だった。
ツォンが一番に望んだ事は、ルーファウス神羅であり続けること。
そして、2人の関係が「命令をするものとされる者」であり、それ以上の感情移入しないこと。
その大まかな二つは、どちらもルーファウスを個人的な感傷から遠ざけるもので、それはツォンという存在からの離脱を促す意味合いがあった。
でも――――できなかった。
もしそれを貫くならば、瀕死状態のツォンを見て何も思わず、そのまま死を見守れという事になる。そんな事が、ルーファウスにできるはずもなかったのである。
最初は、そういうツォンの期待通りに事を運ぶだろうと思っていた。でも、いざその場に立ち会ってみると、何も考えられない自分がいることに気付いたのだ。
まさか、これほどまでに彼の存在が大きくなっていたなんて。
「約束という訳ではありません。あれは、単に私の願いだった」
「じゃあ私は、ツォンの願いを裏切った…かもしれないな」
そう言いながらも、ルーファウスは自分の行動に後悔はしていなかった。もしツォンが死んで微動だにしなくなったら、こうして話すらできなかったのだ。
「いいえ、ルーファウス様。貴方は裏切ったりなどしない。そうでしょう?」
「…え?」
「―――裏切ったりなどしないはずです、貴方は。まだ余地はある」
「ツォン、お前……ッ」
思わず声が上ずった。
ルーファウスは一瞬にしてツォンの言わんとする事を読み取ったのだ。
余地。
その言葉が意味するものは未来。未来に裏切りなどない。
それは―――。
「どうしてそんな事を言う、ツォン!?」
立ち上がってそう言いながらツォンの腕を力任せに掴む。
目は嘘が付けないくらいに本気で、欲しい答え以外は聞きたくないとでもいうような淀んだ輝きがあった。
それでも、ツォンは冷静にこう返す。
「私に臓器提供したそうですね。どうしてそんな事をなさるのです。私はそんな事を望んだ覚えはない。以前も言った筈です、私は貴方の前ではタークスのツォンで、貴方は私の上司です。…そんな情けは、かけるべきでない」
ずきん、と痛む胸を、もう一方の手で押さえたルーファウスは、表情を崩さずにツォンを睨み付けた。
そんなことは分かっている。それはもう十分すぎるほどの真実なのだから。
それでもそうせざるをえなかった心は、やはり理解などしてもらえないのだろうか。
やはり、受け入れては貰えないのだろうか―――――。
ルーファウスは掴んだ腕を振り払うと、そうだな、と声を抑えて呟いた。それにはかなりの無理があったが、そんなことを考えている余裕は無い。
そんなルーファウスの腕を、今度はおもむろにツォンが掴んだ。それは勢いを持て余していたルーファウスの体勢を大幅に崩し、結果、寝台によろめく状態になる。
「何を…!……んっ…っ」
突如、唇が重ねられて、返す言葉は途切れた。
幾度と無く重ねた口付けが、また戻ってくる。
その感覚は懐かしくて愛しくて、とても悲しくもあった。
胸が、痛い。
少しして離された唇に、ルーファウスは小さく息を漏らしながら、それでもツォンを見られずに白いシーツの波を見つめていた。
そうする横で、ツォンの声が響く。
「―――たった…たった一度だけ。……貴方を裏切ります」
その言葉に、訝しげな顔をしてルーファウスはツォンを見た。その目線の先の口はそっと告げる。
―――裏切りの言葉を。
「貴方を、愛している」
その言葉に、ルーファウスは何も返さなかった。
ただ目線だけは外せないままで、ツォンの口を見つめている。
静まった空間はその言葉の響きを後追うだけで、まるで空気すら消えてしまったかのようだった。それでも、しっかりと耳には入っている。
その裏切りの言葉が、しっかりと。
「貴方に情けなどかけてもらうのは、間違っている。私の本心はこうして貴方を裏切り続けているのだから。タークスという部下として貴方の元にいた私が、貴方の核になるわけにはいかないのです。……ルーファウス様。貴方が、神羅なのだから」
「―――神羅、か…」
ふっと横を向いて、その言葉を反芻してみる。呪文のように頭を巡るその言葉は、今や邪魔者でしかない。
それでも、その存在の為に、そこに出会いがあった。
けれど同時に、別れもまたその存在の為にあるのだろう。
出会いが、別れの始まりの言葉であるように……。