2nd [FIND]:03
交代して店に立った彼女は、改めてツォンに向き直ると、悪かったねと言って健康的な笑いを見せた。それにつられてツォンもふっと笑う。
「こんな良い夜にまだ一人なんだね、アンタも。ほら、グラス寄越しなさいな。もっと美味しいの、作ってあげるから」
そう言うのでグラスを渡すと、まだ残っていた液体を一旦捨て、彼女は新しい酒を作りはじめた。それは先ほどとは違う種類の酒で、つまりは“いつもの”ではない。
ツォンはグラスを受け取ると一つ礼を言った。
彼女はチラッとツォンを見て、
「いつものじゃなくても、飲んでみてよ。美味しいよ」
そんなふうに言う。どうやらお見通しらしい。
一口飲んでみると、確かに味は申し分ない。いつものと違って少し甘い気がしたが、何だか後味は少し苦い気がした。
「どう、それ?」
「…ああ、少し甘いか。でも苦味もあるな」
「でしょう。ってことは、いつもアンタが飲んでる酒はね、そんなに甘くなくて、そんなに苦くもないってことなんだよ。意味、分かる?」
「え?」
「いつも同じものを飲んでるとね、慣れてしまってそれがどういう味かって分からないだろう?でもそうやって他のものを飲んでみるとさ、分かるんだ。今までの酒が、こういうものだったんだってのがさ」
比較してみなきゃ分からないでしょ、とそんなことを言いながら彼女はカウンターに肘をついて笑う。
「ねえ。さっきさ、ウチのと話してただろう?好きだとかなんだとか…そういう話さ」
「…ああ。少し、な」
「それさ、私にも言わせてくれないかな。さっき実は聞いてたんだよね。それで我慢ならなくて出てきちゃったって訳」
ツォンは首を傾げて、
「でも当番が何とかと言っていただろう?」
と質問をした。
確かにあの時、約束は守れといって彼女は怒鳴ったのだ。
しかし彼女はあっけらかんとしてこんなことを言い出した。
「あんなの嘘、嘘!っていうか嘘でもないかな。当番は本当にね、今日は私なの。でもウチのはさ、店に立つのが大好きなんだよね。それ知ってるからさ、私も普段は何も言わない。あの人がやりたいなら思い存分やりなって感じでね。でも今日はさっきの会話に参加したくてさ、ちょっとズルしてみたわけさ」
「そうだったのか」
なるほど、そう思ってツォンはもう一口を飲み込む。
どうやらこの店の二人は、とても良い関係を築いているらしい。それは夫婦だからなのか、それとも性格的なものなのか、今のツォンには計りかねたが。
彼女はさっそくというように、先ほどツォンと主人が話していた会話を引っ張り出した。同じような説明を彼女にもすると、主人の反応とは違い、彼女はちょっと楽しそうに天井を見つめて笑う。
なるほど、そういう事か、などと言いながら。
「一つさ、私の過去を話しても良いかな。昔まだこの店が始まったばかりの頃の話さ。ウチのは店に出るのが大好き、当番も忘れていっつも店に出ずっぱり。それはそれで良いんだけど、あんな具合だからお客さんと話し始めたらのんびりずっと話してるわけよ」
「目に浮かぶな」
「でしょ?でさ、ある日、早く店を閉めて二人で食事をしようって話だったのに、何だか店を閉める様子すらない。それどころか、私に手伝うように言う始末。私は我慢して手伝ってた。けどさ、一時間過ぎても二時間過ぎても、ウチのときたらずっとお客さんとオシャベリ。もう本当に頭にきたけど、お客さんの手前、怒鳴るわけにもいかなくってさ。ところがちょっとして、あの人、ぷっつりと客と話さなくなってさ。それで追い返し始めたのさ、大切なお客さんを」
「約束を思い出したから?」
「NO!あの人は最後までその約束を忘れてた。じゃあ何で突然店を閉めたと思う?聞いてビックリよ。お前が辛そうな顔をしてたから、だって!ね、驚きでしょ?」
ふふふ、と笑いながら彼女はツォンを見遣る。そうしてゆっくりとこう言った。
「アンタの愛情ってさ、別嬪さんが期待してた愛情と…違ったんじゃないの」
その言葉に、思わずツォンはグラスから手を離した。
違っていた―――とは、どういうことだろうか。
まさかそんなはずはないだろうとは思ったが、それでも離れていったルーファウスを思えば、そういうことになるのかもしれない。
「ウチのと比較して悪いんだけどさ、あの人は滅多に愛してるだとか言わないわけ。だけどそれと同じくらいのことを返してくるんだよね。アンタはどうだったの?ちゃんと別嬪さんに行動で示してたの。それとも言葉で言ってきたの」
「……どうだっただろう」
愛を囁くような、そんな言葉は口にしないほうだった。気恥ずかしい感もあるし、それ以上に言わなくても分かっているものだと思っていたから。
行動はどうだったろう。自分なりには頑張ってきたつもりだった。
仕事をしていてもルーファウスのことを考えていたし、帰ってからもそれなりに話はしてきたつもりである。後半はともかくとして、暮らし始めてからはそうしてきたつもりだった。
それは、伝わってはいなかったのだろうか。
いや、伝わっていなかったのだろう。だってルーファウスは何と言った?
“分かってない”
そう言っていたではないか。
じゃあそれは――――何を分かって欲しかったのだろうか。
あの時はそんなことよりも、その場をなだめることしか考えていなかった。話さなくなってからの期間、それなりに色々なことを考えてきたつもりだったけれど、その答えは見つからないままで。
「私ね、誰かが笑ったとき、どうして今この人は笑ったんだろうって考えたりするんだ」
「笑う理由?」
「そうそう。何かの話をしてたとしても、皆笑うポイントって違うの。一つ笑うにも、その話のどこに対して笑ったかとか、愛想笑いだったとかって、沢山違いがあるでしょ。そういうのって見分けられないことが多いんだよね。でも一緒にいて、本当に好きだったらさ、そういうのって何となく気付いちゃうんじゃないかな」
「ああ…」
「でも裏返せば、好きだからそういう事にも気付いてあげたいってことになる。100%相手を知るなんてあり得ないもんよ。だって他人だもの。何を考えてるかなんて分かれって方が無理!だけど少しでも近くにいたいって思うなら、それを分かろうって努力が必要。見抜いて、認めるくらいじゃなきゃ」
にっこりと笑ってそんなふうに言う彼女。まるで説教を受けているみたいだ、そう思うながらもツォンは笑った。
しかし、笑った裏では考えていた。あの頃のことを。
ルーファウスが何を考えていたかということよりも、ルーファウスのことを分かろうとすること。果たしてそうできていただろうか。
考えていくと、大体が自分の思考になってしまってきりがない。
あの頃、ルーファウスの体調がおかしくなってから―――何かが変わった。
それは単に、環境の変化だと思っていた。ツォンにとってはとにかく暮らしを支えることが大切だったし、そうしなければ一緒にいることもできないも同然だった。
家に帰ってルーファウスの姿を見つけると、とても安心した。ちゃんといる。側にいる。そう思えて、とても嬉しかった。
だからこそ、ルーファウスが自分に結婚などを勧めたときは本当に腹立たしかった。
ずっと一緒にいたいからこそ頑張っているつもりだったのに、それが届いていないことが悲しかった。同じように思ってくれているものだと思っていたのに、それが違ったのだ。
しかしその時点で、考えるべきだったのだろうか。
どうしてあの時、ルーファウスはあんなことを言ったのか。
何かを分かって欲しくて、でも分かってもらえなくて、だからあんなことを口にしたのだろうか。それとも本心からか?
でも――――あの表情は、到底本心とは思えない。
「…だったら、本心は」
誰かとの結婚を勧めることは、お互いが離れることに繋がる。しかも、完全に。
けれどそれを望むなら最初から側になどいなかったはずだ。神羅崩壊の時点から別々の道を歩めばよかっただけの話である。
“今…この状況で!どうやってそれを信じろというんだ!?”
何故、ルーファウスは信じられなかったのだろう?
“どうせツォンが大切に思ってるものなんて俺じゃないに決まってるだろうがっ!!”
何故、ルーファウスはそんなふうに思ったのだろう?
何かを分かって欲しくて、
でも分かってもらえなくて、
だから信じられなくなって、
大切なものは自分ではないと思ったから、
本心ではない結婚を勧めた?
「昔は…」
“信じられなくなった”ならば、それ以前は“信じていた”ということなのだろう。
信じていた頃は“分かってもらえていた”という事になる。
つまり―――以前は確実にあったものが、その時には確実に失われていたということだろう。
ツォンは感じなかったものであり、ルーファウスは感じていたもの。その頃一番変わったものが何かと問われれば、一つだけだった。
それは“環境の変化”。
ツォンは変わらなかったものであり、ルーファウスは変わったもの。
それは――――――。
「…仕…事」
そういえばあの頃、体調が芳しくないことでルーファウスには休むようずっと勧めてきた。体調が回復してきてもなお、そのままで良いと思っていた。
ルーファウスは元々神羅の幹部であり、ツォンはそれを補佐してきたのだから、そのスタンスでも別に構わなかった。というより、それがしっくりくるような気さえしていたのだ。
だってその方が、守りたいものを実感を伴って守れるから。
「ああ…そうだ、あの人は…」
言ってきたのだ、ずっと。
ルーファウスは言い続けてきたのだ。
“良いんだ、ツォン。今のままで、良い”
疲れた顔をしながら笑うルーファウスを見ているのは辛くて、何度も仕事は辞めていいと言ってきた。それに対してルーファウスは必ずそんな言葉を返した。
ツォンが晴れない顔をしていると必ずルーファウスはこう言った。
“そういうのを後遺症っていうんだろうな、ツォン”
何の後遺症か?
それは勿論―――神羅カンパニーに決まっている。
あの頃を引き摺らないことは大前提だった。それはツォンとて知っていたし、それを重視してきたつもりだ。今でさえそう思う。
お互いの時間があまりなくて、身体は疲れきっていて、心配せずにはいられない状況…その状況を、あの時のルーファウスが“今の生活”と言っていたとしたら、大きな間違いを犯してしまったのかもしれない。
一緒に暮らしていくこと自体が、ずっと“今の生活”なのだと思っていた。
だからその生活を支えるために頑張ってきた。
お互いの時間がなく、身体は疲れきり、それでも存在していたもの。
……その頃のルーファウスは疲れていても笑っていた。
ツォンが生活を支えるために頑張ってきた期間には、存在しなかったもの。
……その頃のルーファウスは笑ってくれはしても、どこか空ろだった。
疲れているのだろうと声をかけたのに対し、ルーファウスは本当にそう思っているのかと聞き返したことがあったような気がする。
「あの人は…」
あの人は疲れてなどいなくて、疲れていないのに笑うほどの元気がなくて、本当にとても空ろだった。
そんなルーファウスを、分かろうとしていただろうか?
そんなルーファウスを見抜くこともできずに、認めることもしないままに、
“お疲れなんですね”
そう――――言ってきたのではなかったか……?
疲れきったルーファウスが笑ったとき、無理をしているということがすぐに分かったように、どうしてあの頃はそれが見抜けなかったのだろうか。
疲れを感じるのは仕事のせいだと分かっているから良い。でもあの頃は休んでいたから明確な理由が見つからなかった。だからそれは体調のせいなのだと漠然と思っていたけれど…
疲れていたのではなく、空ろだった。では、空ろだった理由があるはずなのだ。
「理由……そんなものは簡単だ」
息をついて手で額を覆ったツォンは、酷く後悔をした。
理由は、自分だ。
それさえ見抜けなくなっていた、自分自身なのだろう。
だからルーファウスは“分かってない”と言ったのだ。“分かってない”人間の言葉や考えなど“知りたくない”と思うのは当然だったのだろう。
そんな自分が、どんなに「大切に思っている」と言っても、“信じられなかった”のに違いない。見抜くことすらできなくなっていた自分は、多分、理解を失ったのと同じ状況だった。それこそが“この状況”という言葉だったのではないか。
どんなに疲れていても、ルーファウスが今の生活のままで良いと言ったのは、その理解があったからだ。
側に居続けるのに一番大切だったのは、生活を守る以前に、その理解だったのだろう。ルーファウスはきっと、そう思っていたのだ。
「そうだ…貴方の言ったことの意味が分かった」
大切にしていたつもりだった。
けれどそれは、“その人自身”ではなく“その人と居続ける状態”に対してだった。
暫く考え込んでいたツォンを黙って見つめていた彼女は、そろそろとグラスを持ち去る。そしてカウンター越しに声をかけた。
「もう一杯作ってあげるよ。どっちが良い、同じやつか…それとも、いつもの?」
そう言って笑った彼女にツォンは、ゆっくりと、
「もう気付いた」
そう告げる。
すると彼女は何も答えずにグラスに液体を注ぎだした。
「いつもの」を。