火曜日:置去りハート
果たして自宅といえるかどうか疑わしいその住まいにツォンが戻ったのは、午後九時頃の話だった。帰りも勿論、気を遣わなくてはならない。いつどこでルーファウスが見ているか分からないからである。
…つかまったら終わりだ!
何がどう終わりなのかわからないが何故かそう思ったツォンは、巧みにいつもとは違う道を通って帰った。
何とか一人のままで辿り着き、借りている鍵を鍵穴に差し込んで家に入る。此処でやっと一息がつけるという具合である。
ルーファウスから借りた(正しくは借りさせられた)この部屋は、さすがに広々としていた。作り的にはルーファウスの住まいと変わりは無い。一人でこんなスペースを使う必要もないだろうとは思うが、確かに狭いよりかは快適かもしれない。
とはいっても実際にはルーファウスクラスの人間ならもっと豪華な暮らしをしていても良いはずなので、そこから考えれば少し親近感も沸くかもしれない。
…あくまで“少し”で、“かもしれない”、だが。
とにかくスーツから普段着に着替えると、ツォンは運び込まれたものの位置を確認し始めた。本来なら昨日の時点でやっておくべき事だったが、そういう訳にもいかなかった。
結局昨日はそのまま帰宅して寝に入ってしまったので、常日頃から使うような簡単なものの位置しか確認できていない。
一週間という短い期間だしそうそう考え込まずとも良いところだったが、何となく気になる。ダンボール積みで汚いならまだしも、こうもぴっちりと配置されると、返って気になるのである。
「とはいっても…一体何があったか…」
物はそんなに多いほうでは無い。だからさしてその作業は難しくないはずである。しかし逐一確認するのは、それでもやはり面倒といえば面倒だった。
「それにしてもこんなに几帳面に並べなくても…」
どうせ一週間しかいない部屋である。それなのに、異様なほど綺麗に配置されている。勿論ルーファウス自身がやったわけではないだろうが、それでもそれなりの指示はしたはずだ。
今日は結局、社内でルーファウスと顔を合わすことは無かった。朝から避けていたのは自分のほうだったが、不思議なことに今になって何となく気になってくる。なんだかんだ言っていつも口出ししてくるような人だから、何も無い方がおかしい気がしてしまうのだ。
昨日、とても嬉しそうだったルーファウスの顔が思い出される。そんなに嬉しいことなんだろうか…ふと、そんなふうに思う。
確かに近くにいるのは嬉しいことだが、会える時間はそれなりにあるのだから、それだけでも良いように思う。
そこまで考えてふと、そういえば、と思い出した事実があった。
「ええと…前回一緒に過ごしたのは…」
頭の中でスケジュールを思い返し、そういえばかなり“それなりの時間”を過ごしていないことに気付く。
まさかそれが原因なのか?
まずかったか?―――何だか色々と思いが巡る。
あまりにも普段のルーファウスが煩わしいことをしてくるものだから、そんな気が起こらなかったというのが一番の原因だったが、それを除くとそういう関係としてどうなのだろうか?
「……」
ひょっとすると…もう少しくらい、我侭に付き合った方が良いのかもしれない。
―――――好都合なことに、相手の自宅はすぐ隣である。
出向いてみようか…、そんな事を考えながらも迷って、結局ツォンは家具全般の位置の確認を続行していた。
何せ、昨日までの態度を一転していきなりというのは何だか変である。どうしたら緩やかにそれらしい雰囲気に持っていけるのだろうか…そんな悩みを抱いていた、その時。
ドアの外で何やら声が響いた。
しかも、荷物が運び込まれたようなガサガサという音までする。
首を傾げながら恐る恐るドアを開けると、そこには予想通り、荷物を運び込む男の姿があった。…しかもその横にはルーファウスの姿もある。
「あー、ちょっと待て!擦るなよ、ドアに!」
「いや~そう言われましても!サイズがデカすぎるんすよ、お客さん」
「ったく…。何であそこはすぐに配送料をけちるんだか…」
フーファウスはぶつぶつ呟きながらも自宅に荷物を運び込むのを手伝っていた。それを目にしたツォンが、声をかける。
「ルーファウス様」
ツォンが顔を出していることに全く気付いていない様子だったルーファウスは、その声に驚いて振り返った。
「何だ、ツォン。帰ってたのか?」
「ええ、まあ…。あの、手伝いましょうか?」
「ああ、頼む」
その荷物はそれほど重さはなかったが、それにしてもサイズが大きかった。人間の身長ほどはある。
運送屋はツォンが手伝うといったことで嬉々として帰っていった。ルーファウスの身分などはこれっぽっちも知らない様子である。
とにもかくにも荷物を部屋に運び込むと、ルーファウスは早速それを開け始めた。そうしながらもツォンをチラッと見てニヤリとする。
…嫌な予感…!
本当なら先程までのちょっとした反省の元に、このままルーファウス宅に留まろうかとも考えていたツォンだが、その途端に帰りたくなった。また何かを企んでいるに違いない。
しかしそれはルーファウスの一言によって遮られた。
「お前にも関係のあることなんだ。帰るなよ、絶対」
関係あるから帰りたい、とは口が裂けても言えない。
「どれどれ…っと。ちゃんと言った通りに作っただろうな?」
箱の中に、箱。その中にも更に箱。
かなり厳重になっている。
一体何だろうとツォンは首を傾げながらその動作を見守っていたが、確かなのはそれがオーダーメイドだということだった。値段は破格に決まっている。
「何なんです、一体?」
「何だと思う?」
「見当もつきません」
そう答えながらルーファウスは三重になった箱を取り払い、やっと姿を現したその中身を手に取った。それはやはり人間の身長ほどあり、厚紙のようなものでがっちりとガードされている。
その厚紙のようなものを丁寧に引き剥がすと――――――。
「…うっ!」
その内容が分かってしまったツォンは、思わずよろめいた。目に眩しい、予想数万ギルはするその物体―――――しかし、見るからにヤバイ予感。
「ふふ…良い出来だ」
「あ、あの…ルーファウス様…それは、まさか…」
蒼褪めた顔でそう聞いたツォンに、ルーファウスはにっこりと笑ってこう答えた。
「うん、ペアパジャマ」
「あああぁぁぁぁ~~!!!」
ツォンは倒れそうになった。生地やデザインの高級感は認めないわけにはいかなかったが、それにしても何故そうなる…!?というか恥ずかしくないのか…!?
そもそもペアというからにはやはり自分にも着ろという発想だろう。しかしどうだ。その高級パジャマの色、そして柄。大の大人、しかも男が着て良いのか?
いや、着て悪いという法律はどこにもない。どこにもないが、否応無しに着せられるだろう自分はどうなのだ。
「ちょ!ちょっと待って下さいっ!そ、それはちょっと…」
「何だ、文句あるのか」
途端に不満そうな顔をするルーファウスに、ツォンはそれでも食ってかかった。
「な、何故その柄なんですっ!しかも何故、ピンクなんですっ!?」
―――――柄はハートだった……。
「いや、何かこういうのもたまには良いかなあって思って。そうだろう?」
「…いや…私はどうかと思いますけど…」
「――――嫌だっていうのか?」
「はっ!い、いや。そんなことは断じて!」
「だよな」
ルーファウスはにっこりと笑うと、その一つを手にとってツォンに近付いた。どうやら今すぐに着ろということらしい。
そのあまりの恐ろしさにツォンは思わず一歩下がる。しかし昨日のようなテーブル周回というふうにはいかなかった。さすがにオーダーメイド品のせいか思い入れも強いらしく、ルーファウスはいつもに増して強引だった。
「逃げるな、ツォン。今着るんだ、今」
「ま…まだ寝るには早いかと…」
そう言ってみたものの、ルーファウスは返って嬉しそうにこう返す。
「俺はいつでも良いぞ?」
「そーいう意味ではないですっ!」
そうこう言いながらも結局は部屋の隅まで追いやられ、そこでツォンはルーファウスの野望に負けることになった。嬉々としてツォンの服に手をかけるルーファウスは、昨日に増して嬉しそうである。…余程嬉しいらしい。
自分の服のボタンを一つづつ外していくルーファウスを見下ろしながら、ツォンは心の中で泣いていた。
ハート柄のピンクのパジャマ……しかもペア……。
プライベートだからまだ良いものの、まさか誰もこんな姿は想像したこともないだろう。それが今から現実になると思うと少し悲しい…悲しいというより、切ない……。
とはいえ此処まできてしまったのだから一回くらい袖を通しても良いか…そんなふうにツォンが諦めムードを漂わせて天井を見上げたときだった。
ルーファウスの手が、ふと動きを止める。
その次に、外気に晒された肌に温かい感触。
「……?」
ふっと視線を下に下ろすと。
「……」
そこには、ハート柄を腕に抱きしめたまま、目を閉じてツォンの胸に寄り添うルーファウスの姿があった。いつもの感じが一切拭い去られた、純粋な態度。そういえば最近はこういう感じも無かった気がする。
静まり返った部屋の中で、少しだけ鼓動が早くなる。
何でこうも都合が良い状況が生まれるのだろうか。そんな不思議な感覚に包まれながら、ツォンはそっとルーファウスの身体に手を回した。
あまりに久々な感じがして、らしくもなくドキリとする。
「……どうしました、着たいんでしょう?」
「……うん」
そう言った途端に、高級パジャマははらりと床に落ちた。その代わり、ルーファウスの腕がするりと身体に巻きつく。
何で今日はそんなに素直なんですか、と心の中でそっと問いかける。いつもこんなだったらきっと円滑なんだろうが…そう思ったが、もしかするとたまにこんなふうになるほうが効果的なのかもしれない。
抱きしめあって、それからごく自然にキスをする。
色素の薄い髪に触れて、綺麗な輪郭をなぞり描いて、白い首筋に口付けて、それから――――――。
「…場所、移りましょうか」
「…うん」
そう言ったものの、何となく離れがたくてそのままの状態が続く。場所を移動しようといったのは勿論そういう意味だったけれど、こんなふうにいるのも悪くはない気がする。
目を閉じたらそのまま寝入ってしまいそうだと思うくらい、それは妙に温かい。
「……ツォン」
「ん?」
ふと呼ばれてその顔に目を移すと、ルーファウスは笑ってこう言った。
「罰金。今日、多いぞ」
「……」
ツォンは何も返せずに口をポカンとあけた。何かグッとくるような言葉でも言うのかと思いきや、どうやら全然違ったようである。そういえば罰金のことをすっかり忘れていた。それは例の昨日の約束である。
それにしても…その発言は果たして興醒めの一言なのか?
はたまたスパイスなのか?
そんなふうに疑問に思うツォンに構わず、ルーファウスは次の言葉を放った。しかしその言葉は今さっきのそれとは大分違う内容で、しかも真面目な表情でもって発せられる。
「お前は…過去の恋愛を引き摺るタイプなのか?」
唐突に放たれたその言葉に、ツォンは驚きの表情を浮かべた。
「何故そんな事を聞くんです?」
ルーファウスはその問いに答えず、巻きつけていた腕をそっと離す。それからすっと目を逸らすと、
「先に聞いたのは俺の方だ」
そんなふうに言った。
確かにその通りではあるが、今まで聞かれもしなかった内容を突如として聞かれたことにはどうにも違和感を覚える。
そもそもツォンは、己の過去の恋愛話など一回たりとも話したことがなかった。だからルーファウスがツォンの過去を知るはずは無いのだ。
「…別に、特にそういう事はありません」
「そうか?…という事は、引き摺ってはいなくても、時に過去を振り返るのは必要だってことか」
「…?」
「お前には振り返る暇があるってことだな」
「何です、いきなり」
全く意味が分からない。分からない上に、何だか責められているような気がする。
折角の良い雰囲気を台無しにしてしまうようなその会話は、結果的に2人に大きな溝を与えることになった。
それはある一つの物から。ある一言から。
「アルバム」
ルーファウスが放ったのは、その一言だけ。
しかしその一言だけで、ツォンはすべてを理解した。
「貴方って人は……」
ああ―――なるほど。
ツォンはそう納得し、それから大きな落胆を感じた。そうして試すような言葉をかけられたことにではなく、過去でもなく、今ある事実について。
ルーファウスは昨日、ツォンの荷物の中からアルバムを見つけたのだろう。そして、アルバムの中にある写真を目にしたのだ。
薄いアルバムには最高でも50枚は写真が収納できる。それでもツォンは、たった2枚しか写真を入れていなかった。
たった2枚。
その少なさが物語るのは過去へのこだわりの薄さではなく、その限られたものへの執着である。
「……悲しいですよ」
ツォンはルーファウスの身体から腕を離すと、静かにそう言って嘆息した。
試すような言葉をかけられたことではなく、過去でもない。悲しいのは、あまりにも都合の良かったこの雰囲気が、大切な気持ちからきたのではなく決められてやってきたという事実である。
そんな過去は、教えて欲しいといわれれば教えることくらい容易いことだった。それなのに、なぜそんなふうに勝手な真似をするのか。
「私は貴方に隠しごとをしようなんて思っていませんよ。何がそんなに不安なのですか?」
「だって…ツォンはいつも疲れた顔をしてるじゃないか」
そう言われ、ツォンは微笑みに近いものを浮かべた。それはルーファウスには理解しがたい、見慣れない表情である。
けれどルーファウスはその表情に対し何かを考える余裕は無かった。
――――――パシン。
少しした後、ルーファウスの頬にじんわりと痛みが走る。
「その理由は、自分で考えてください」
結局そのまま自室に戻ったツォンは、ベットにもたれながら片手で額を抑え込んだ。
「あー……何をやってるんだ……」
何ていう訳の分からない展開なんだろうか?
今まで手なんて上げたことはないし、そもそも別にそんなつもりも無かったはずなのに、何故かつい手が出てしまった。グーでなかったことだけがせめてもの救いだろう。
それでも、ルーファウスのしたことは褒められることではない。何しろ所有者のいないところで、許可もなしにプライベートのものを覗いたのだから。
「………」
ツォンの瞼の奥には、床に落ちたままだったハート柄がちらついていた。