金曜日:事実と誤解と
家に帰って一息ついたルーファウスは、ふと目をやったスマホの中に不思議な着信履歴を見た。
「何だこれ?」
何故か父親から30件以上も着信がある。が、サイレントにしていたため全く気付かなかった。
一体何の用だろう、そう思ったがかけ直すのも面倒だったので放っておく。なにしろそんなことよりも事実解明が先である。
とはいっても…事実はツォンがいなければ始まらない。
しかしツォンと顔を合わせようものなら、怒ったらいいのか、ごめんといったらいいのか、全然さっぱり分からなくて混乱も頂点を極めることうけあいというもので…。
「だけどなあ…まず、これだよな」
事の発端となったアルバムを手にし、ルーファウスは溜息をつく。何でこんな事になったかといえば元々はこのアルバムを出来心で持ってきてしまったのが原因である。
折角ずっと待ち望んでいた「お隣さん」になって、これはもう天国かとも思ってたのに、そこから一転、地獄という具合。
「やっぱり…謝るのが先、かな…」
しかし。
「いやいや、でも待て。だからって浮気して良いってこともない。という事は、±0じゃないか?」
イコール…謝らなくても良いのか?
そう思ったがそれも何だか府に落ちない。
「待て待て…ツォンが怒ったのは…。そうそう、自分で考えろって事で、それで…」
それは、いつも疲れた顔をしてる、と口にしたルーファウスにツォンが放った言葉である。
なぜツォンの疲れた顔が嫌なのか?―――それは、その表情をを見ると何だか自分まで不安になるからだ。勿論、そのせいだけではないけれど。
では、ツォンに疲れた顔をさせなければ良いのではないか?
ということは、ツォンを幸せな気分にしておけば良い訳である。なるほど、これなら皆が幸せである。
とはいっても、どうやったらそうなるのかは分からない。
「うーん…でもここが原点だからな、ここを何とかしないと…」
考えて考えて考えてみたが、どうも良い案が浮かばない。しかしそれも深刻になってくると、とうとう思考回路がショートした。
閃きともいえる案が浮かんだのは正にそんな時で、その内容といえば少々矛盾していた。
「そうだ、ツォンに聞いてみよう!」
ルーファウスの目は輝いていた。
お隣、ツォン宅(仮)では、花金の夜に悩む男の背中があった。
先ほどまで自宅(本物)にいたツォンは、全く元通りに戻っていた我が家に何故か焦っていた。焦る理由など、一つに決まっている。
自宅が直れば、もう此処にいる必要はないのだ。でもルーファウスとこのままの状態でここを去るのはどうかとも思う。
ルーファウスはといえば、この状況(ツォンが隣に住んでいる事)にかなり喜んでいたのだ。
それなのにルーファウスが喜びそうなこと一つできず、わざわざ発注までしたハート柄も着ず(抵抗は拭えないとはいえ)、このままというのは―――――何だか、許せない気がする。
答えは一つだと分かっているのだ。まず顔を合わせて、話をしなければ。それしかない。
しかしツォンには引っかかっている事柄があった。それは勤務中ルーファウスの元に向かった理由でもある、昨晩の出来事である。
家まで上がりこんだのだからそこそこに仲が良いのだろうその取引先の男を、ツォンは殴ったのだ。それは立場上、ルーファウスの方に危害がいくに違いなかった。
それはいかにも、ヤバイ。でも許すまじ、優男!…とも思う。
「ああー…どうしたら」
それにしても…ルーファウスをあの男が…?
そう思い、ツォンの頭の中で悪魔のような想像が悶々と巡った。それはこんな具合だった。
『う、ん~…もう駄目、酔いが…』
『ふふ、それこそが私の狙いだったんですよ、ルーファウスさん』
『え…なに?…』
『ほ~ら、此処をこうすると…』
『あっ、な、何す…ああっ』
『ふふふ。たっぷり私を教え込ませないといけませんねえ』
『あ、あああぁ~!!!』
そこまで考えてツォンは頭を抱えた。
「優男め、何と鬼畜な!」
誰かさんの想像の方がよほど鬼畜である。
しかしそう思えば思うほど、やはり許せない。という事は謝らなくても良いのではないか、とも思う。それは…そう。天誅だ、天誅!
しかしそんなツォンの危険妄想を飛ばすかのように、呑気な音が部屋に響き渡った。
ピンポーン
「…え」
インターフォンである。
しかし此処を知るものは少ない。となれば相手は勿論…。
「ルーファウス様…?」
呟きながら玄関までを辿り、ドアをそっと開く。今さっきの鬼畜妄想からすれば、それは何だかちょっと切ない訪問であった。
ドアの向こうにいたのは、勿論ルーファウスである。
「久し振りだな、ツォン」
「あ…はい。そうですね」
「今日はどうやら天気も良い。月も綺麗だ」
「…曇ってますけど」
「じゃあ、幻覚だ」
良く分からない世間話をした後、ツォンは取り敢えずルーファウスを中に通した。久々の会話だというのに、何だかそれは妙な感じである。
ソファを勧められたルーファウスは、珍しく謙虚な態度で座ると、じっとツォンを見つめる。それから少しして、ツォンに向かってこう言った。
「……怒ってないのか?」
「え…。いや、別に」
今は、と付け加えようと思ったが、それは敢えてやめておいた。話がこじれるのは、いかにもよろしく無い。
そうか、と少しホッとしたルーファウスは、次にはとうとうこの言葉を口にする。
「ところで聞きたいんだが、お前は何をしたら幸せになるんだ?」
「――――は?」
何だそれは。
今までの悶々が一気に消えたのはいうまでもない。
全くいつも突飛なんだからな、と思ってツォンは溜息をつきそうになったが、それを寸でのところで止めると、はっ、とした。
何だか、妙にこの雰囲気は安心する。
これはどうしたことか。
溜息をつきそうなのに安心するだなんてオカシイに決まっている。けれどこれは何だかいつも通りという感じである。
少しは我侭も直して欲しいと思っていたけれど、もしかするとそれが安心できる「普通」だということなのだろうか。
「おい、ツォン。どうなんだ?」
そこが分からないと始まらないじゃないか、と思っていたルーファウスは、口を尖らせて答えの催促をする。しかし、いきなりやってきてそんな訳の分からないことを聞かれても困る。
…けれど。
もしかしたら…我侭に振り回されるあの溜息三昧の日々が、実は幸せというものなのではないかとも、思う。…あんまり認めたくはないが。
「…問題なく、過ごせることじゃないですか」
結局そんなふうに答えたツォンに、ルーファウスは「え」と、いかにも困ったような顔をする。問題なく、とはどういう意味か。
「それはつまり、アレか。俺が嘘臭いほど謙虚で、別人のように静かで…」
「誰もそんなこと言ってません」
「じゃあ何だよ、問題無くって!」
「いや、だから…アレです。…というかですね、私もルーファウス様にお聞きしたいことがあるんですが」
「何だよ」
ツォンは、チラッとルーファウスを見遣った後、コホン、などと咳払いをしてこう切り出した。
「昨日…の話、なんですが」
そう言った途端、ルーファウスは蒼褪めた。
そうだ、昨日の話があった。それも問題だった。しかしこの話をするとなると、ルーファウスは怒らなければならなかった。
そんな訳で。
「そうだ、昨日だ!お前…なんて酷いことをしてくれたんだ!酷いじゃないか!」
「えっ!や、やはり話がこじれてしまったのですね!?」
嗚呼、やはり理性を保つべきだったか。ツォンは頭を抱える。
「俺がどんな気持ちで今日を生きてきたか…うう…。でもまさか…無理矢理なんて…」
「む…無理矢理!…あの優男め…くそ、謝罪などするものか…」
「ツォンのあほーっ!!」
「ええっ!?やっぱり謝罪すべきですか!?」
――――――会話は混乱を極めていた。
「鬼畜な奴なんか嫌いだーっ!!」
「私も嫌いですっ!!」
――――――更に混乱。
「どうせそうなるなら、もっとちゃんとした形の方が良かったのにっ」
泣く泣くそう言ったルーファウスに、ツォンは驚いて声を上げた。
「ちゃんとした形!?…それはどういう意味です、私というものがありながら!」
「何言ってるんだ、お前なんかイリーナとよろしくやってたくせに!」
「な、イリーナ…!?…レノだな…っ」
どうしてこうありもしない事実を、とツォンは心の中で舌打ちしたものだが、そう解釈されてしまったものは仕方無い。修正するしかない。
「むかつく…っ、浮気なんかしやがって…っ」
頑なにそう信じているらしいルーファウスの肩をガッツリ掴んだツォンは、真面目な顔でこう言った。言い聞かせるように。
「そんなことは、してません」
「嘘だ」
「何故そう思うんです」
「だってレノがそう言ったんだぞ!?」
その言葉に、ツォンは少しばかりカチン、ときた。少し怒ったような表情になると、
「……貴方は私の言葉よりレノの言葉を信じるんですか!」
そうピシャリと言う。
それは尤もな言葉であったが、その日ツォンが帰ってこなかったという事実は、やはり猜疑を裏付ける。
そこで、とうとうこの冷戦についての平和会議が開始されたのだ。
意地をはってばかりでは何一つ解決しないのは当然で、面倒とはいえ、やはり一つづつ事実を並べていくしかないのである。お互いの知る事実を一つづつ、である。
平和会議開始のゴングが鳴ったのは、ツォンが几帳面にもアツアツ珈琲を2つ用意した後のことだった。