18:不義の匂いが連れてきたもの
携帯電話のディスプレイにメール着信を知らせるアイコンを見つけたとき、ルーファウスはそれがツォンだと思った。だから、最初はどうしてもそれを見る気になれなかった。
あの日以来、ツォンとは話していない。
システム回復した為に業務報告もイントラネットで飛んでくるし、特別する話もないし、当然昔のように口実を作って話に来てくれることもない。
尤も、気になるならば自分から赴けば良いのだが、どうしてもそれは躊躇われる。
分かっていることとはいえ、事実をツォンの口から聞くことが怖い。
まだあの女性と――――マリアと繋がっているのだという事実を。
もしそれを事実としてはっきり口に出されてしまったら、ただショックというだけではなく、どうして良いのか分からない。
彼女とは繋がりがありますが貴方を好きです、などと言われたとしたら、一体それをどう受け止めて良いのかが分からない。
かつて、どうしても今だけは傍に居て欲しいと思った時、ツォンはルーファウスの傍ではなくマリアの傍にいた。
“その出来事”はルーファウスにとって裏切られたと感じる行為だったし、それがあったからこそ二人は今こうしてぎこちなくなってしまったのである。
それなのに、それでもなお彼女と繋がる事の意味を考えると…そんなものは愛情しか考えられない。一体他のどんな理由があって、恋人との関係修復を差し置いて他の人間を選ぶというのだろう。
あの日の食事は、とても久々だった。
それくらい、二人は繋がっていなかった。
それでもその間、ツォンはあのマリアという女性とは繋がっていたのだろう。
「…今更、何を信じろっていうんだ」
ルーファウスは膝を抱えながら呻くようにそう呟いた。
本当は信じたい。信じたいけど信じられない。
本当は一緒にいたい。一緒にいたいけど一緒にはいられない。
このジレンマを埋められるものが―――――欲しい。
「そうだ…」
ルーファウスはふと立ち上がると、棚の中からある箱を取り出した。
それはレノの吸っている煙草で、先日ひっそりと部下に頼んで買ってきてもらったものである。珍しい銘柄だから入手するのが大変でしたよと部下は笑っていたか。なんでもカートンでしか売られていないらしい。
ルーファウスは箱の中から、小分けされた1箱を取り出す。
そしてそのまた1本を取り出すと、近くに転がっていたライターでジュッと火をつけた。
一口吸うと、もくもくと煙が上がる。
そしてあの、甘ったるい匂いが充満した。
なんとなく―――――満たされる。
「…レノ」
指に1本の煙草を挟みながら元のように膝を抱え込んだルーファウスは、そっと閉じた瞼の中にレノを思い描いた。1022号室で繰り返されるあの熱が、蘇ってくるかのような気分になる。
電気もつけずに、暗いままの自宅の自室。
此処には自分しかいないが、まるで今この瞬間にはあの暖かさがあるような気がしてならない。それはきっと、この甘ったるい匂いがそうさせるのである。
最初、この甘ったるい匂いは不義の香りだと思っていた。
甘い誘惑、その場限りの快楽、裏切り―――――そういう匂いなのだ、と。
けれどこの匂いは、今や自分を満たしてしまう。
本当はそれではいけないはずなのに、自分を満たし、更に悪いことにはこの匂いを求めるまでになってしまった。
「いつの間にこんなふうになったんだろう…」
目を開き、上り立つ煙に目を遣ったルーファウスは、少々悲しげな表情でそんなことを思う。
レノという人物は、自分が傷つけている人間の一人に過ぎない。
だから、本当はこれ以上傷つけてはいけないのだ。
いつだったかレノが言っていたように、確かに自分は狡い思考をしていると思う。
ツォンが離れていってしまったといってレノと抱き合うのはどう考えて狡いし、レノに離れないで欲しいと願うことはそれにも増して狡い思考である。そしてそれは、どんどんと自分を貶めていくに違いない。
だから、少しでもその気持ちを抑えられるように―――――そう思ってあの煙草を買ったのだ。
1022号室でレノを傷つけなくても、自分だけがこの匂いの中にいれば、あるいは気持ちが落ち着くかもしれない。
急激に襲う空しさや寂しさに電話をしなくても良くなるかもしれない。
そう思ったから、決心のつもりであの煙草を買ったのに。
しかし――――それはどうやら逆効果だったらしい。
甘ったるい匂いは確かに不義の匂いに違いなく、それは甘い誘惑もその場限りの快楽も裏切りをも示している。それに嘘は無い。
けれどその匂いはあくまで1022号室に染み付いた匂いであって、もしそれがそこで留まるなら今こうしてその匂いを感じてもそれは不義の匂いでしかないはずなのだ。
どんなに不義でも、空しさや寂しさを埋めることは可能である。
もしそれが埋められるなら、そこには満足しか残らないはずである。
でも、違う。
これは、違う。
今感じていることは―――――満足…だけではない。
「どう…しよう…どうしたら…」
甘ったるい匂いが鼻につく。
それが鼻腔から脳に伝わって、脳は満足という伝達を体中に送る。けれど脳は狡猾にも、それ以外のものまで伝達し始めている。そんなことは望んでいなかったのに、勝手に。
―――――いや、勝手なのは自分だと分かっている。
「……会いたい」
ルーファウスはそう呟いた後にギュッと唇をかみ締めると、暫く何かを我慢するように頑なに膝を抱え込んだ。煙草を灰皿に置き、顔まで埋めて、まるで何かを拒否するように縮こまる。
しかし少しして急激に体を解くと、縋る様に携帯を手繰り寄せた。
そうしてすぐにある番号を押そうと指をボタンに近づけたが、その瞬間にふと先ほどの新着メールのアイコンが目に留まり、一気に指から力が抜け落ちていく。
「……」
そうだ――――ツォンからのメールが…。
ルーファウスは俄か苦しげな表情になると、ゆっくりとそのメールを開いた。
あまり見たくない、そう思うのに携帯電話はすぐさまそのメールを表示してしまう。
少しくらい不具合でも出ればいいのに、こんな時ばかり高性能なのも考え物だと憎憎しく思ったルーファウスだが、目に飛び込んできた文字列に一気に表情を変化させた。
そこには。
“明日夜10時にHOTEL FIRST305号室で待ってるから!”
「…明日…」
ルーファウスはうわ言のようにそう口にしながらも、自分が笑んでいることに気付いた。この文面を見て喜んでいる自分の心に、嘘をつくことは出来ない。
堕ちてる。
そう思った。
でも―――――歯止めはきかなくて。
送信者であるFROM欄には、レノの名前が表示されていた。