44:ツォンが欲したもの [3]
「おい、大丈夫か」
「…誰、あんた…放っておいてよ、私のことなんか…」
「そうは言っても――――」
面倒ごとは確かに遠慮したいが、放っておいてと言われて放っておくわけにもいかない。この有様では、このまま死んでもおかしくないほどである。
女性はゆるゆると腕を持ち上げると、手の平にしっかりと握っていたものをすっと口の中に放り込んだ。僅か見えた様子だとそれはどうやら錠剤らしく、白い色をしている。
その瞬間、ツォンはそれが悪い薬なのだと理解した。
「おい…!何をやってるんだ、出せ!」
これでは自殺行為ではないか。
そう思って強制的に口を開かせようとすると、途端に女性は力の限りに暴れだした。最早手のつけようが無いほどおかしい状態に陥っている。明らかな薬物中毒だ。
「触んないで!放っておいてよ!」
ふらふらと立ち上がった女性はそう叫びながら走り出すと、並んでいた鉄塔に思い切り頭を打ちつけ始める。正気の沙汰ではない。鉄塔がカーン、と鳴り響く。
「止めろ!馬鹿かお前は!」
「煩い!どっか行け!」
「おい…!」
額から血がだらりと垂れ下がっている女性は、それでもなお鉄塔に頭を打ちつける行為を止めようとしない。
カーン、カーン、と鉄塔が鳴り響く。
ツォンはそれを力の限り引き離すと、やはり先ほどのように暴れだした女性を、仕方なく殴りつけた。不本意ではあるが、最早叩く程度では収まらない女性を何とかするにはそれしか方法が無かったのである。
殴られて地面に倒れこんだ女性は、うう、と唸りながら頭を押さえ込んだ。
ツォンが殴ったからというよりも、鉄塔に叩きつけていた箇所に今になって鈍痛が襲ってきたという感じで、女性は痛々しく汚れた顔を歪めている。
ツォンは、その女性を見下ろしていた。
憔悴しきったその女性を、見ていた。
思えばいつでもこうして、自分は決断を出来る立場にあったのだとツォンは思う。
ルーファウスと二人きりだったHOTEL VERRYの1022号室でも、ルーファウスの父親だったというあの男と二人きりだった暗殺の空間でも、そして今この瞬間でも。
救うのか、傷つけるのか―――――その判断はいつでも、委ねられていて。
「……」
ツォンは、その女性を見下ろしていた。決断は迫られていた。
放っておけばこの女性は確実に死ぬだろう。しかし抱き起こせば助かるだろう。
彼女は自分にとって守るべきものでも何でもない、見ず知らずの人間である。そこでツォンが助けるいわれなど何一つ存在していない。
彼女がこの先生きようが死のうが、実際のところツォンには何ら関わりもないのである。
しかし、彼女を救うことが出来るのは、この瞬間からすれば自分一人であることは明らかだった。
そう、あの日ルーファウスを助けたいと思ったのと同じように―――――。
「…もう、嫌…私…私は…生きてなんて…いたくない…」
「……」
ふと、途切れ途切れの言葉がツォンの耳に入り込んできた。
その言葉は弱弱しく、最早先ほどまでの凶暴性は感じられない。恐らくこれが彼女の本性なのだろう、だからこそ躍起になっていたのである。
女性は、そのうち嗚咽を漏らし始めた。
最早その顔を背けようだとかそういう体面を持っていなかったらしい彼女は、薄汚れた身なりをそのままに、目からとうとうと涙を流し、顔をぐしゃぐしゃに歪めている。
その間、女性はやはり、嫌だ、嫌だ、嫌だ、と喚いていた。
「…!」
その時ふと、ポケットの中の携帯電話が振動し始める。
ツォンは思わずそれに出ようとして携帯電話を取り出したが、サブディスプレイに映し出された文字を読み取ると、途端に顔を歪めた。そうして、電話に出ずにそっとそれを元のようにポケットに戻す。
何をやっているんだ、見なくても分かっていたのに。
相手は―――――ルーファウスだ。
着信を告げる振動はその後何度も続いたが、ツォンはそれに出ることはしなかった。というより出られなかったのである。
ルーファウスはもう、真実を知ってしまっただろうか。
いや、きっと知ってしまっただろう。
自分が彼の父親を殺し、主任という立場を手にいれたことを―――――きっと、知ってしまったのに違いない。
そう思うと、ツォンは急激に悔しくなった。
何をやっているのだろう、自分は。ルーファウスを救いたいだのと大それたことを考えながらも、まるで違うことをしているではないか。
安心材料を得ることで少しでも自分を大きく見せて、そうすることで別の安心を得ようともがいていた。けれどそれは単なる自己満足で、実際には何ら出来ていないのではないか。
だって、本当の自分はこんなにもどうしようもない。
電話にも出る勇気が無く、ルーファウスとの約束すら破って―――――今に至っては目前の女性すら救うことを躊躇っている。
ちっぽけで、臆病で、いざという時に何も出来ない。まるで何も出来ていない。
ルーファウス…
ルーファウスを―――――助けたいと思っているのに。
「……私は」
ツォンはふっと、しゃがみ込んだ。そして、嗚咽を漏らす女性のその手を取ると、じっとそこに焦点を当てる。
多分、交錯していた。
歪んだ心の中で、何もかもがぐちゃぐちゃになっていた。
空しいと言った、悲しいと言った、不安そうな顔を、掴んだ手の中に思い起こしていた。それを助けたいと、守りたいと、そんな気持ちが螺旋階段のようにグルグルと頭を回った。
そしてそれはやがて、その気持ちだけをツォンの脳裏にこびりつかせたのである。
―――――貴方を、助けなければ。私は。
「…大丈夫です、安心して下さい。私は…」
ルーファウス様、私は。
「貴方を助けたいんです―――――」
そう言うのと、手に力がこもるのとは同時だった。
その手に加えられた力は女性に伝わり、そしてツォンの放った言葉もやはり女性の耳に届いていた。
それでも女性は嗚咽を止めなかったが、その瞬間、その場に、間違った共通意識が生まれたことだけは確かだったのである。
まるで知らない他人同士、別段何も思いはしないし求めもしないけれど、そこには代償とするだけのものが用意されていたのだ。
それは、とても皮肉にピタリと嵌ってしまったのである。
救われたい人間と、救いたい人間。
ただその図式だけがそこには存在しており、個人を特定する情報などはどうでも良かった。その図式だけが共通意識だった。
電話は…ずっと、鳴り止まなかった。