69:格好悪いくらいが丁度良い
カラン、そう音が鳴ってグラスが揺れる。
謹慎処分なんて餓鬼じゃあるまいし―――――、
そう思いながらグラスを揺らすその姿は、その店にとって相当久しぶりのもので、本人ではなく店主が喜んでいるほどだ。
もうずっと来ていなかった行きつけのバー。
そこにようやく足を運んだレノは、長らく続けていた禁酒をとうとう解禁した。
なみなみ注がれたウイスキーは店主からのプレゼントで、ざっと見て通常の二倍は入っている。それに礼を言って笑ったレノだが、心中は少し複雑だった。
数日前のパーティで、囮でしかなかった男を散々追い詰めたレノは、結局最後の最後の大事な場面でルーファウスを守ることができなかった。
中庭で金髪の男を追い詰めたまでは良かったが、そこで彼が囮だということが発覚し、だからといって彼を野放しにすることもできず、結果レノは彼を捉えることしかできなかったのである。
その間ルーファウスの身の上が気になって仕方なかったのだが、終わってから聞いたところによれば、マリアがルーファウスを救ったのだという。
それを聞いて、レノはほとほと自分に呆れてしまった。
よりによってマリアだなんて―――――不甲斐なさで押しつぶされそうになる。
詳しい話は知らないものの、マリアの身からは子供が“居なくなってしまった”のだという。
その上マリアは行方知れずになってしまったらしく、連絡が取れないのだそうだ。
そうとなればツォンはもう自由の身だし、パーティ直前の様子からしてもルーファウスは気持ちを逆行させたようだし、これはもう勝敗はついたようなものだとレノは思っていた。
「―――回答求む…ってもな」
苦笑いをしながらウイスキーを口にしたレノは、久方ぶりに顔を合わせるマスターに、なあ、と軽い調子で話しかける。
そして、こんなことを言った。
「あのさー、自分からフラれに行く時ってどうしたら良いと思う?」
「何だそりゃ?フラれたのか?」
「いや、まだこれから。ま、結果スケスケなんだよな。だから潔くフラれてみる方が良いかなーと」
「ははーん…なるほど」
マスターはグラスをキュキュ、と拭きながら、ニヤニヤしながらそんなふうに言う。
決して笑えるような話ではないのに、そのラフな雰囲気はレノの心を段々と緩和させていく。
「あのな、レノ。俺の経験上、フラれるってのには二種類あるんだよ」
「へー、初耳」
おどけてそう言うレノに、マスターはその二種類とやらをせつせつと説明し始めた。
余程フラれた経験が多いのか、マスターのその言い草は堂に入っており、レノは思わず笑ってしまったものである。
しかし、その内容は至って真面目なものだった。
「まず一つ目は、相手からフラれること。それからもう一つは自分にフラれること。レノ、今お前言ったよな、結果が分かってるって。けどそれってのは、相手からじゃなくて自分で自分をフッてるんだよ。そういうのは何も得るもんが無いんだからやめとけ。自分で自分フるのはいつでも出来るんだから」
相手に振られるならまだ得るものはあるんだ、とマスターは言う。
失恋という言葉は“恋を失う”と書くものの実際には大切なものを得ていて、それは恋ではなく愛に似ているのだとそう言う。
恋を失っても愛が残るならそれは立派なことじゃないか、そう口にするマスターにレノは曖昧な返事しか返せなかったが、そんなマスターの口ぶりは嫌いじゃないと思った。
確かに得るものがあるとすれば、失恋もまた意味のあることに違いない。
「自分で自分をフると失うものが無い代わりに得るものもない。俺もそういう時代があったけど、ありゃ良いもんじゃなかったな」
「例えば?」
「うーん、そうだな…例えば、俺なんか駄目だからとか、俺には出来ないとか…そういうふうに思うことってあるだろう?それだよ、それ」
「あー…」
―――――まさにビンゴ。
そう思ってレノは思わずそう口にする。
あのパーティで上手く護衛が出来なかったのはやはり自分に問題があるのだろうと思っていたところだったから、マスターの言うそれは正にタイムリーな話だったろう。
「駄目だったら駄目で良いんだよ。出来ないなら出来ないで良い。そういう自分を知りながら素直になれる奴が、成長できるし、最後には幸せになるんだよ」
「でもそーいうのって格好悪いじゃん」
「何言ってんだ、格好悪いくらいが丁度良いんだよ」
そう言いながら、いつの間に空いていたグラスにマスターはなみなみとウイスキーを注ぐ。
溢れんばかりの液体はグラスの中で揺らめき、徐々に波を小さくし、やがてはしんと静まっていく。
その動作を見詰めながら、レノは少し笑った。
“これから先は怖いことなんて無いようにしよう”
“嘘なんて言いっこナシだ”
“俺は、そう決めた”
―――――そんなふうに言ったのは、どこのどいつだよ?
そうだ、嘘は言わない約束だった。
任務失敗したから自分は駄目な奴だとか、どうせフラれるんだとか、そういう気持ちも含めて嘘は言わない約束だったのだ。
それを口にしたのは他でもない自分で、もしそれを破るならばそれは自分に嘘をついていることになってしまう。
“怖いことなんて何も無いし、あるとすればそりゃ自分を裏切り続けることだ”
自分に嘘を吐くなといったのは、自分自身じゃないか。
怖いことはそれなのだと、そう言ったのは自分自身じゃないか。
「…そっか、俺――――」
何となくルーファウスに連絡が出来なかったのは、怖かったからなのだろう。レノは今更ながらにその事に気づく。
その怖いという気持ちは要するに、自分に嘘を吐く羽目になることへの怖さだったのだ。
まるでルーファウスに嫌われることを恐れているかのように思えていたけれど、本当はそうじゃなくて…自分自身に対するものだったのである。
レノはズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、そのディスプレイをじっと見遣った。
そうして徐にルーファウスの番号を引き出すと、少し間を置いた後に思い切った様子で通話ボタンを押す。
プルルル…
そう呼び出し音が鳴る中で、レノはふいにマスターを見遣り、ニッと笑いながらぴんと親指を立てる。
それを見て、マスターも同じように親指をぴんと立てて笑った。
幸せというものは、どこから作られて、どこまで続くのだろう。
それは目に見えなくて、気付かないうちに指の先から零れ落ちてしまう。
誰か―――――教えて。
求めれば求めるほど遠ざかっていく、そんな“幸せ”が、未来永劫続く方法を。
そう―――――思ってきたけれど。
でも、やっと気づいた。
気付かないうちに指の先から零れ落ちてしまうなら、気づいた時に拾い上げれば良い。
未来永劫続く方法が無いなら、未来永劫その方法を求めれば良い。
そうする間に幸せは作られて、どこまでも続いていくのだろう。
それは誰も教えてはくれない。
だって―――――自分にしか分からない幸せだから。
彼女はほがらかに笑っていた。
自分の元に届いた一通の手紙を見て、それを大切そうに手にして。
狭い家の狭いキッチンで読み上げるには、その手紙はあまりにも綺麗すぎて申し訳ないような気分になる。
しかし、それは紛れもなく彼女に贈られたプレゼントだった。
「マリアー、ちょっと手伝ってくれるー?」
柔らかい花の咲く狭い庭から響いてきた声に、彼女はふいと顔を上げる。
そして、手にしていた手紙を大事そうにエプロンのポケットに仕舞い込むと、
「うん、今行くねー、お母さん!」
笑顔でそう答えた。
“色々とすまなかった。そして、本当にありがとう。
―――――お前のくれた言葉は、きっと一生、忘れないだろう。“
とても雰囲気の良いそのレストランは、もう何ヶ月も足を運んでいない客の顔をまだ覚えているらしかった。
数ヶ月ぶりだったものだから何となく余所余所しくなってしまったのを笑顔で迎えてくれると、今日は窓際の席が空いておりますので、と一際景色の良い席を用意してくれる。
彼らにとっては、初めて訪れたあの頃からずっと変わらない大切な客という意識なのだろう。
行けないと思って足が遠のいていたのに、いざ来てみると快く迎え入れてくれる。
それはつまり、ただ自分が足踏みしていただけだったことを痛感させた。
本当はいつだって許されているものだったはずなのに、それを無理だと決め込んでいたのは単に自分の心だったのである。
おかしな話だ。
ルーファウスは景色の良い窓際の席に腰を落ち着かせ、窓の外を眺めながらそんなことを思う。
店内には雰囲気の良いリスニングミュージックが流れており、それが妙に心を落ち着かせていた。
いや、それだけではないのかもしれない。
こうして此処に来れたことが、此処に来れるような心境になれたこと自体が、既に心を落ち着かせていたのかもしれない。
「お待たせしました」
暫くして、入ってすぐに注文しておいたアルコールが運ばれてきた。
ウェイターは綺麗な輝きを見せる背の高いグラスをルーファウスの前に置くと、その正面の席に同じように背の高いグラスをそっと置く。そして律儀に礼をすると、やがて去っていった。
それから数分した頃だろうか、ルーファウスの目前の席にすっと人影がやってくる。
その人影にルーファウスは顔を上げると、何も言わずにすっと笑った。
「遅くなってすみません」
そう声を発したのはツォンで、彼は携帯電話を携えながら席に腰をおとす。そして、落ち着いた後に携帯電話を内ポケットに仕舞い込んだ。
「どうだった?」
ルーファウスがそう聞くと、ツォンは、
「ええ、元気そうでした。今は母親と一緒に住んでいるそうです。手紙も無事届いているようですよ。ありがとうと言っていました」
と、そんなことを口にした。
それを聞き頷いたルーファウスは、そうか、良かった、と言って笑顔を滲ませる。
何故こんなことに必死になったのか、そう思わないでもない。
しかしあのパーティ後からルーファウスはマリアの居所を必死に探し、手紙を出し、そして最近になってようやく彼女の家の電話番号に行き当たったのである。
本当は自ら電話をするのが良かったのだろうが、一度手紙を出しているし、ツォンはあの後からマリアと連絡を取っていないし、どうせだったらとツォンから連絡するようにと頼み込んだのだ。
ツォンの話によれば、マリアは今、母親と共に暮らしているらしい。
以前のような仕事には就いておらず、親子二人で近場の食料品店で働いているのだという。
前から比べれば実に質素な生活だったが、それでも彼女はそれに満足しており、今はそんな生活が幸せだと語ったのだそうだ。
それを聞いてルーファウスは思っていた、彼女はとうとう手にいれたのだと。
彼女が求めて止まなかった愛情―――――母親からのそれを、やっと。
ツォンからマリアの事情を聞いたルーファウスにとって、今のその状況はとても微笑ましいものである。
同じように満たされない愛情を何かで埋めようとしていたルーファウスにしてみれば、そういうふうに彼女が再生してくれたことは何か明るいものを示しているかのように思えて仕方ない。
一度は憎しみを覚えた相手なのに、こんなふうに思うのはおかしいかもしれない。
しかし今のルーファウスにとって、それは本当に素直な感想だった。
“どんなに優しくてもどんなに傍にいてくれても、やっぱり他の人じゃ駄目なんだよね”
“これで良いとか、これで満足できるとか、そんなの嘘なんだよね”
そう言っていた彼女を、ふと思い出す。
そしてルーファウスは、目前のツォンをじっと見遣った。
「―――――レノは…普通通りに仕事をしているか?」
「レノ…ですか」
ツォンは問われたそれを反芻すると、そうですね、と一言置いてからこう答える。