このオンボロアパートにはつい最近引っ越してきた。
格安物件、っていうやつだ。
こういう格安物件というのは得てして曰くがあったりするものだが、このオンボロアパートに関してはそういうものは一切ないらしい。つまり、ただ単にオンボロというだけなのだ。
まあそれは百も承知で入居したのだから良いのだが、問題はそのオンボロが更にオンボロになったというところだろうか。
「はあ…もうマジ最悪」
目下この部屋の主として生活している亘理夕(わたりゆう)は、ガックリと肩を落とし大きなため息をついた。今、彼の眼前には大きな衝撃が広がっている。
――壁に、穴。
問題はこれだ。
壁に穴が空いたところでどうせ元々オンボロなんだから問題ないではないかと思われそうだが、実際問題そういうわけにはいかない。何せそれはゴキブリ用の穴でもなければネズミ用の穴でもないのだ。まさしく、人間が通れそうな穴なのである。
一体全体どうしたらこんな穴が空くものかと思うが、どうやら人間には隠された脅威の力が存在しているらしい。
「こりゃ派手にやっちまったねえ。ほんと、亘理君の家が端っこでよかったよ。こんな、お隣さん家とのトンネルなんか掘られちゃ困るからねえ」
「はあ、すみません…」
一応このオンボロアパートの管理人ということになっているオジサンは、丸々開いた壁の穴を見てはうんうん、と頷いている。勿論、その管理人の仕草からは、どうこうしてあげようという気概は感じられない。
「あの、俺、どうすれば…」
「いや、だから。これは亘理君の方で直してもらわないと。どうせ出ていくときだって修繕はしていってもらうことになるわけだから。今やっちゃったほうがいいでしょ。業者に連絡するから。まずは見積もってもらうよ」
「はあ…どうもすみません」
夕はひょこっと頭を垂れながらも、内心では大きなため息をついた。
――あーあ、どうしてこんなことになっちゃったんだろ…。
それは、ある晴れた日のことだった。
「穴ぁ!?」
「そうそう、穴よ穴。もうそれはデッカイ穴でさ。縮こまったら人間でも通れそうな穴なわけ」
「へえ、そんなデカイ穴がねぇ。で、何で空いたか理由は全く分からないって?」
「うん、ぜーんぜん」
大学からの帰り道、雑然とした池袋の町を歩き回っていた夕とその友人の安岡は、腰を落ち着けようと小さなカフェに入ってドリンクをすすっていた。
そのモアイのような顔からは想像できないようなインテリぶりを発揮している安岡は、蜂蜜入りクラッシュドアイスのカフェラテなどという洒落たものをオーダーしていたが、庶民の代表である夕は水出しアイスコーヒーを注文した。勿論一番小さいサイズである。
安岡はくっくっ、と笑って、伊達でかけている黒淵の眼鏡をクイ、と上げた。度も入っていないくせに仕草だけはやたらとそれっぽい。
「まあ、あれだな。どうせ空いた穴なんだからそこから出入りすればドアを開ける手間もないだろ。活用しないとな」
「馬鹿たれ!直すっての!しかも俺の自腹でな!!」
夕はやや自棄になってそう言ったが、安岡にとってはそれも笑いのネタでしかないらしく余計にくつくつと笑っている。全く、腹立たしいことこの上ない。
しかし実際、安岡が口にしたようなオチャラケがまるで無かったら、この現実はあまりに厳しくて目を背けたくなるだけだっただろう。だから夕にとって、こんなふうに茶化してくれた方が心が楽なのである。
ここでもし夕と一緒に深刻に悩む友人だったら、恐らく気持ちはずんずんと沈んでしまっていただろう。
何はともあれ、修繕である。
その費用が自分の身に降りかかることだけは避けられない現実なのだ。その金額は今のところまだ分かっていない。
先日すぐにも業者に連絡するといった管理人が、もう少し待ってくれだとか言って、まだ連絡をつけていないようなのだ。この辺りも不安の一つである。
「しかし何で空いちゃったんだろうねえ、その穴。夕、その日の記憶無いんだろ?」
「うん、まあ…」
そう――あの夜の記憶は、さっぱりと無い。
気づいたら家の中にいて、布団も敷かずに大の字になって寝転がっていたのだ。
そのときには既に朝で、日の光は窓だけではなくぽっかりと開いた穴からも入り込んでいた次第。
明るいのは嬉しいのだがいかんせんプライバシー保護に欠けるところだろう。
「目覚める前の記憶は?」
「取り敢えず飲んでたことだけは覚えてる。バイト先の近くのチェーン店の居酒屋でさ、飲み放題してて。飲みまくってたな…」
多分、軽く15杯以上は飲んでいたはずである。それほど濃いわけでもないアルコールだが、それでも量を飲めばそれなりに効果を発揮するものだ。
そもそもその日の夕は自棄酒という部分があったから、飲む酒の種類に関してもいつもより強いものを注文していたのである。
このまま飲み続けたらヤバイな、とは思っていた。
しかしそれよりもその場の雰囲気を楽しむことや、嫌なことを忘れられることのほうが大きかったのである。
一緒に飲んでいた連中もそういう夕の気持ちと同じだったのだろう、一瞬たりとも止めることなくガバガバと飲み続けていた。
まあそれも当然だろうか。
何しろその夜は―――。
「その日はさ、嫌なことを忘れよう、っていう飲み会だったんだ」
夕は、水出しコーヒーをストローでからからと回しながら、ぽつりとそう呟いた。
「高校ん時のツレとか、バイト先の人とか、もうとにかく愚痴りたいヤツ集合!ってカンジに電話しまくってさ。で、全員で愚痴り大会してたんだ」
よくよく考えれば何て破天荒なやり方だったのだろうと思う。しかしその夜の夕は、とにかくそういう気分だったのである。
深刻なことなど考えずにパーっとやりたかったし、その為には同じような気持ちを持った人間の集合が必要だったのだ。
その日、実際に集まったのは七人。
突然の誘いである上に見知らぬ人間もいる集まりだということを考えれば、それでも良く集まった方だと思う。
集まった七人は、それぞれテーマでもある愚痴を高らかに発表し、そしてお互いに慰め騒ぎあった。会の趣向としてはバッチリ正解である。
彼らの愚痴はそれぞれ違っていて、職場の上司のことだったり、家族との不和だったり、中には妻との離婚話というものまであった。正に、ピンきりである。
夕はそれらの愚痴を耳にしながら、皆がそれぞれいろんなことに頭を悩ませているのだということを実感した。
それらの問題に比べれば、あるいは自分の愚痴など大したものではないのではないかとも思えたが、しかし直面している自分の問題については、結果的にどうしても軽く考えることができなかったものである。
そう、こんなことは世間から考えれば大したことではないのだ。
大した悩みじゃない。
馬鹿らしい愚痴だ。
だってこんなのは――ただの恋愛ごとなのだから。
「あのさ」
夕は一呼吸置くと、暫く目を落としていたコーヒーから安岡に視線を移した。
安岡はいつものようにモアイ顔で夕を見ている。
夕はそのモアイを見て、こいつはきっとこの世で最も愛嬌のあるモアイだと思った。そう思った瞬間についつい笑ってしまい、何だか深刻な悩みを告白しようとしたことが馬鹿らしくなってしまったものである。
「はは、やっぱ良いや!何でもない」
「え?何だよ、気になるだろ?」
ぶーたれたモアイを前に、夕は笑った。