「あ、あのな安岡!いくら俺が男と付き合ってたからって…その、そーいう慰めとか要らないからさ。そりゃ…逸見とのことはショックだから暫く落ち込むとは思うけど…でもお前がそんなに頑張らなくたって…」
「慰めじゃないって。単に作戦だから、これ」
「…………」
俺が慰めるはずないだろう?、安岡はいけしゃあしゃあとそう言った。それを聞いて、夕の魂が抜けそうになったことは言うまでもない。
まさか、こんな展開を誰が予想していただろうか。
安岡はしめしめと思っているかもしれないが、夕にとってはあまりにも想定外で最早ついていけないレベルである。
しかしこの状況を整理すると、つまり安岡はこの機会に夕を落とそうと思っている、ということで、しかもそれは別に慰めの為でもなんでもなく単に作戦だということだ。
イコール、安岡はこの機会を狙っていたということになるわけで――つまり。
「ちょ…っと待って。安岡って……俺のこと……?」
夕は、ようやく辿りついたそこに慌てふためいた。まさかそんな事は考えてもみなかったから。
しかし目前のモアイは事もなげにその夕の予想外を肯定する。その上こんなことまで言う。
「俺は出会った時から夕を狙ってたんだけどなぁ。まあでも、今叶ったから良いか。まさかこんな形でチャンスが来るとは思わなかったけど」
「ちゃ、チャンスって…!ちょっと待てって安岡!」
「待つかよ」
「えっ!?」
瞬間、グイッ、と身体を引き寄せられ、夕はバランスを失った。
一瞬の内に危険を察知し、これは拒否をしなければならないところだと感じた夕だったが、そんな夕の予想に反し、安岡は夕の身体には触れてこなかった。
その代わり、夕の頭をくしゃくしゃと撫でる。まるで子供をあやすような仕草だ。しかしその仕草も乱雑なものだから、どうにも雰囲気に欠ける。
「辛かったなあ、夕。よしよし」
「な……っ」
バカにしてるのかよ――!
夕はそう憤りを感じたものだが、それを口に出すことはできなかった。自分の頭を撫でる安岡の顔は相変わらず愛嬌のあるモアイで、それを見たらどうにも怒る気が失せてしまったのである。
それに、そんなふうに頭を撫でられることは、意外にも嫌ではなかった。子供のようだと思ったが、何故だかどこか安心してしまう。子供の時の記憶がインプットされてでもいるのかもしれない。
「なあ、夕」
「…何だよっ」
恥ずかしくて安岡の顔が見られず、夕は下を向いている。しかしどうやら安岡はお構いなしのようだった。相変わらずの安岡節が夕の耳に入りこむ。
「抱きしめて良い?」
「は……。お、お前…なっ、そ、そーいうことはいちいち聞くなっ」
「いや、一応聞いておこうかなと思って」
安岡は何でもないといった調子でそう言うと、じゃあ、などと言って夕の身体を抱き寄せた。そうしてまた頭を撫で始める。余程それが好きなのだろうか。
夕にとってそれは、何だか恥ずかしい空間だった。
安岡とこんな妙な雰囲気になっていることも、そんな安岡をはり倒しもしないで受け入れていることも。
でも――――何でだろう。
やっぱり安心する。
単に人の体温に触れたからなのか、安岡だからなのか、それは分からない。けれど、恥ずかしさを少し上回るくらいの安心感がある。
「……あ」
安岡に抱きしめられる格好になった夕の視界には、部屋の壁があった。しかもそれはただの壁ではない。そう、あのジャンボな穴があったはずの、あの部分の壁である。
その壁は相変わらず何もなかったようにでんと構えているが、あの夢か現実が分からない時間の中で、そういえば夕は霊らしきものを発見したのだった。
霊……かどうかは分からない。何しろ穴の存在そのものが謎になってしまったのだから。
しかし、あの穴から手が見えて、そして顔が見えたことは覚えている。夕にとってその顔は長らく謎だったが、そういえばあの顔は――。
「……」
そうだ――モアイに、似ていた気がする。
はっきりとは思い出せないが、そういえば何だかそんな気がするのだ。そしてその穴からモアイが入ってきて……。
「少しは落ち着いたか、夕」
「……へ?」
不意打ちのように安岡が話しかけてきて、夕はビクリ、とした。
「どうだ、俺って実は優しいだろ?さすがのこの安岡でも、お前が心にぽっかり穴開けたみたいにしてたら優しくなるわけだな」
「あ……穴?」
――――――穴。
心に、ぽっかりとした……穴?
夕は目の前の壁を凝視した。
当然そこには穴など無い。
何しろそうだ、そこに開いたデッカイ穴からは、人の断りも無く誰かが勝手に侵入してきて、あれよという間にその穴を閉じてしまったのだから。
作戦だの何だのと雰囲気もへったくれもない訳のわからない言葉を添えて。
「安岡……」
「ん?」
ああ、そうか――安岡が、入って来たのか。
あの日、死にたいなんて思って、ぽっかりと開いたこの心の中に。
無論それは不法侵入だったけれど。
「はは…そっかー…あはは、そっかそっか」
「? 何だよ、気持ち悪い奴だなぁ」
訝しむ安岡の腕の中で、夕は笑った。
あの穴の存在が夢だったかどうか、そんなことはもうどうでも良い気がした。
何しろこの六畳一間に開いたジャンボな穴は、もう塞がってしまっていたのだから。
END