ざまあみろ、と夕は思う。
まさかこんなドラマの中でしか見たことのないような行為を自分がするとは思ってもみなかったが、それでもそうできた後は少し、ほんの少しだけはすっきりしたように思う。
ざまあみろ、ざまあみろ、この裏切り者!
シャンパンで濡れた顔を睨みながら何度も何度もそう心の中で罵ったが、視線の先の顔があまりにも男前すぎて、好きすぎて、やっぱり最後は悲しくなった。
憎めればどんなに幸せだろうか。
きっとこの世の一番の悲劇は、愛するものを憎むことではなく、憎むことすらできずにやはり愛し続けてしまうことなのだろう。
『――さよなら、逸見』
別れの最後の瞬間。
夕は、濡れた逸見の顔にそっとキスをした。
それが、最後だった。
家に帰ると、あのジャンボな穴は応急処置を施したままの状態でしっかりと存在していた。時間が経ったら消えていた、なんていう奇跡を少し期待していたが、勿論そんなことはなかったらしい。
そういえば管理人が見積もりを取ってくれると言っていたがそれはどうなったのか。そう思い管理人を訪ねてみたが、電気がすっかりと消えており、とても起こして話を聞くような様子ではなかった。
仕方なく家に戻った夕は、その途端にバタン、と体を床に放り出す。肉体的にはそれほど疲れることはしていないのに、妙にぐったりとした疲労感がある。心労が体にでもきたのだろうか。
「あーあ……――長かったよな……」
何の変哲もない天井を眺めながら、夕は逸見と過ごしてきた月日を思い返した。
夕が考えるところの友情は小学校の頃から始まっており、また夕が考えるところの恋愛は中学三年から始まっている。
そう考えると、人生の半分以上は逸見と共に過ごしているといっても過言ではないのである。
長い。
あまりにも長かった。
それをたった一瞬で消してしまうだなんて、どうして世の中はこんな魔法のようなことが可能なのだろうか。
まだ実感が無い。
あと数日もすれば逸見に呼び出されタクシーに乗って六本木だか銀座だかに出向くのじゃないかと思ってしまう。けれどこれは現実で、もう逸見とは会うどころか話すら禁止されてしまったのだ。
「ドラマみてー……」
夕はぼんやりと天井を見遣りながら呟く。
まるでドラマみたいな話。そうじゃなければ友達の友達辺りの経験談とか、そんな遠い話だろう。どちらか一方が社会的地位を確立して、今まで上手い具合に保たれてきたはずのバランスがガラガラと崩れていく。そうして長らく付き合ってきた相手に捨てられて人生は終わる。
捨てられて?―――ああ、そうだ。俺は“捨てられた”んだ。
そのフレーズに行き当たり夕は愕然としたが、それでもすぐに納得したものである。愕然とするよりも断然、落胆のほうが勝っていたからだ。
「――…くしょ…お」
つう、と、何かの感覚が伝う。
まさか涙を流すことになるなんて、そんなことは考えもしなかった。だってこんな別れがくるとは考えていなかったから。
それでも逸見は分かっていたのだろう。彼は言ったのだ、別れの無い出会いは無いのだと。
だとすれば彼は確信犯で、今流しているこの涙はもう数年も前から流れることが決まっていた涙ということだ。こんな馬鹿な話があるだろうか。
「…っく…う、っ…」
女々しい。男らしくない。こんなのは自分じゃない。夕はそう自分を罵りながらも、涙を流さずにはいられなかった。
涙で濡れた頬に、すうっと風が当たる。
あのドデカイ穴だ。
応急処置しかしていないあの穴の隙間から流れ込んでくる風が、慰めているのか冷やかしているのか、ともかく夕の頬を撫でていく。
切なかった。
その風すら、その穴すら、この冷たさすら、もう既に決まっていたことだと思うと。
――死にたい。
一瞬、夕はそう思った。
が、そう思った丁度その時、突如不思議な音が耳に入ってきた。
風の音ではない。
いや、音ではなく…声。
「え…?」
夕はその微かな声に、思わずむくりと起き上がった。どこから聞こえてくるのかと部屋の中を見回すと、どうやら例の穴の方向から聞こえてくる。
近づいていくと、やはりそれは音ではなく声のようだった。呟きのような声である。
「おい…ちょっと待てよ…」
まさか、やっぱり曰く付きだったなんてことはないだろうな?
夕は一瞬そんなことを思ったが、このまま放置していても状況は変わらないのだからと、ビリッと一気に応急処置用の不透明ビニールを引き剥がした。
その瞬間。
「うわあああっ!」
夕は絶叫すると、青ざめた顔で後ろに飛び去った。
手だ。
手が見えたのだ。
生白い手が、くたびれた壁にひっついている。
――ど、どうしよう!?
こんな状況になど陥ったことがなかったから、夕はどうしていいか分からなかった。しかしともかくその手が部屋の中に入ってきてはいけないのだと直感的に感じ、破り去った不透明ビニールを元のように張ろうと試みた。…がしかし。
「ぎゃああああああ!!!」
次の瞬間。
穴の向こうに見えたものに、夕は絶叫して意識を失った。