目が覚めたのは、たっぷり八時間眠った後のことだった。
目覚めてすぐに気づいたのは、そこが自分の家だということ。視界にはあの天井があり、ふと右に視線を遣ると例の穴が――。
「あ…れ?」
夕はぼやけた思考の中で疑問符を浮かべた。
無い。無いのだ。
あの穴が。
確か昨夜――死にたいだなんて馬鹿なことを考えた瞬間、穴の方向から何か声が聞こえたのである。そしてその穴に近づくとそこに手が見えて……そして。
「……顔、見えたよな?」
確かに人間の顔だった。
あれはやはり―――霊だったのだろうか。
今迄の人生、夕は霊と遭遇した試しがない。ということはこれが初体験ということか。そんな馬鹿なことを考えつつも、眉間に皺を寄せながら首を傾げる。
「でもな……霊もあれだけど、問題はあの穴だろ。確かにあったはずなのに何でこんな何でもない感じになっちゃってんだよ……?」
ぽっかり大きな穴が開いていたはずの壁を、夕はさすさすと撫でてみた。どう考えてもマトモな壁である。つぎはぎした様子もない。いかにも壁ですといってのっぺりと胸を張っている。
「どーいうことだよ?」
まさかそんなことはない。見間違いであるはずがない。それが証拠に管理人だってその穴を目撃しているのである。それにその穴の修繕で見積もりだって出す手はずなのだ。
「そうだ…管理人さん!」
夕はすくっ、と立ち上がると、一階の管理人の部屋までダッシュした。きっと管理人であればあのぽっかり空いた大きな穴の存在を覚えていることだろう。そう思って向かった夕だったが、何と言うことかその期待はサクッと裏切られた。
「穴?何のこと?」
管理人が口にした一言はそれである。
まさか―――こんなことってあるだろうか?
確かに見たはずなのに。
自分で修繕するようにと死の宣告までしてきたというのに。しかしどれだけ食い下がっても管理人は首を傾げるだけで、穴の存在についてはまるで知らないようだった。
何だか釈然としない。
そう思いながら夕が自宅に戻ると、
「……あれ?」
どうやら訪問者らしい。
ドアの前に何者かが立っている。
しかしどうやらその姿には見覚えがある――……。
「よう」
「…って。モアイじゃん!」
「はぁ?何だよそのモアイって」
「あっ!あ~いやいや、こっちの話…」
そこにいたのは、モアイこと安岡だった。
安岡はいつも通りの伊達眼鏡でキリッと決めている。が、いかんせん顔がモアイなものだからイケメンとは言い難い。それなのにインテリぶりを発揮しているものだから、その手にはスターバックスの紙袋と、マックブックプロの入ったPCケースが下げられていた。
「っていうか何でここにいんだよ、安岡?」
約束なんかしてないはずだけど。
そう思いながら夕が聞くと、モアイはまあまあ良いじゃないか、と適当な言葉を口にして夕の開けたドアから部屋の中へ、するりと侵入した。そして、六畳一間のオンボロアパートの一室である夕宅を見て一言、狭い、と言う。
「うっせえ!良いだろ別に!つーか何でお前来たんだよ!会う約束とかしてねーじゃん」
「良いだろ別に。何か問題でもあったか?」
「いや、無いけどさ………あ」
――そうだ!
その瞬間、夕はひらめいた。
そう、そういえば突然のモアイの登場で忘れかけていたが、今の自分はあのジャンボな穴について真相を暴こうとしているのだった。管理人はあの通り残念な結果に終わったが、思えばそう、この安岡だって壁の穴の存在を知っているではないか。
安岡は穴そのものを見てはいないが、夕がそれを愚痴ったことで、存在そのものだけは知っている状態である。そのはずである。
もし安岡があの穴の話を覚えていたら、やはりあの穴は実際に存在していたということにはならないだろうか。いや、そうだ。絶対そうなるはずだ。そうじゃないと困る。
「な、なあ!安岡…!」
夕は、ああでもないこうでもないと部屋の中をぐるりと観察している安岡の背中に声をかけた。
「あのさ、俺の部屋にでっかい穴が開いたって話、お前覚えてるよな!?」
「は?」
「は?、じゃなくて!ほら、池袋のカフェでさ、話しただろ?俺ん家の壁にさ、でっかい穴が開いて!で、何で開いたかは分からない、って…!」
そこまで話して、夕はハッ、とした。
そうだ、分からないといえば、あにジャンボな穴がいつ開いたのか、それも分からないのだった。というか、記憶がない。
「はぁ?何の話だよ」
「えぇ!?安岡も覚えてないのかよ!?」
「覚えてないも何もそんな話聞いたことないぞ。それに穴なんかどこにもないじゃないかよ」
「違うんだよ!消えたの!穴が!ぜーったいあったんだって!俺、見たし!管理人さんにも安岡にも話したのに何で二人とも覚えてねーんだよ!?」
ありえない。
まさかモアイも覚えていないなんて。
このままではあのジャンボな穴は元々無かった、という事に落ち着いてしまうではないか。即ち、全て夕の勘違いだったということだ。いや、勘違いというのもおかしいのかもしれない。夢だった、とでも言うべきか。
「夢……?」
その一言に辿りつき、夕は愕然とした。
夢だったと言われれば、確かにそれで解決してしまう。そんなはずがないと思う反面、そう思わなければつじつまが合わないとも思っている。あのジャンボな穴が開いた理由も覚えていないのだ、夢だったと解決すれば一番スッキリするだろう。
「おい、夕。お前、やっぱり頭おかしくなったんだろう?池袋で話してた時、何となく普通と違ってたもんな」
「は…。ああ、そう…だった?」
―――池袋のカフェで話したことは、現実なのか。
だけれどジャンボな穴のことは現実ではない?
そんなふうに混乱する夕の前で、安岡はガサゴソとスターバックスの紙袋を開けた。そして、その中からトールサイズのコーヒーを取り出すと、はい、と夕に手渡す。
「お前の分。とりあえずそれ飲みながら俺に話せよ。あの時お前さ、何か言おうとして止めただろ。どうせそれが原因なんだろ?」
「は?それって…」
それは、逸見とのことだ。
あの時夕は、逸見との一部始終をモアイに話そうかと思ったのである。
逸見が男であることだとか、話す上で理解してもらえるかどうか危ぶまれる部分はいろいろとあるわけだが、こと安岡に関してはそういう部分も安心できるような気がしていた。