「うん…まあ…じゃあ」
「じゃあって何だ、じゃあって。この安岡が来てやってるというのに」
「モアイのくせに」
「あぁ?」
ジャンボな穴のことは気になるが、とりあえず今は安岡の好意を無碍にしないようにしようと、夕は心の中で一人頷く。
どことなく真面目さに欠ける気がする安岡だが、こんなふうに手土産を持ってここにやってきたのは、安岡なりに夕を励ますためなのだろうから。
安岡は、あのジャンボな穴があった部分を背に、胡坐をかいて座った。夕はその目の前に腰をおろし、そのオンボロ六畳一間の中でぼそぼそと逸見との全てを語っていく。
約八時間前、逸見とのことで、思わず涙がこぼれた。
悔しくて、悲しくて、切なくて。
死にたい――そうとすら思っていた。
だけれどもう二度と逸見と会うことはないのだから、この現実を受け入れるしかない。向きあうしかないのだ。
ただ、あまりにも長い時間だったから……その長い時間、ずっと一緒にいた相手だったから、こんなふうに突然失ってしまったことがあまりにも大きくて。
「俺、逸見に捨てられたんだ……」
バカみたいだろ?――全てを話し終えた後、夕はぽつりとそう言った。
安岡が珍しく真面目に話を聞いてくれていることが分かったせいか、思わず夕もしんみりとしてしまう。
いつもの安岡だったらモアイ顔でちょっとシニカルにオチャラけてくるのに、それだからこそ夕も救われていたというのに、その時の安岡はあまりにもいつもと違ったいて夕は何だか顔を上げることができなかった。
「まあ…さ。元々あっちには奥さんもいるし、俺なんて結局いつかこうなるって決まってたんだよな。俺さあ、そんなこと全然考えてこなかった。…はは、ばっかみてえ」
空になったコーヒーのカップを手で弄りながら、でも長かったんだ、と夕は付け加える。
今こうして逸見と別れたことが辛いのは、逸見を好きだったという気持ちのせいもあるが、逸見と過ごしてきた時間があまりにも長かったから、この別れが今迄の月日を否定してしまうようで、それが辛いという事実も含まれているのだ。
「小学生の頃からなんだもんな、長いよなあ……」
はあ、と大きな溜息をついた夕の目の前で、安岡がクイッ、と眼鏡を上げる。ずっとずっと沈黙を守ってきた安岡は、そこにきてようやく口を開いた。
そして。
「―――そんなもん、大したことないだろ」
「は…?」
その一言を聞き、夕は呆気にとられた。
人生の半分以上を占める逸見との過去を聞いて、出てきた言葉がそれだというのか。別に慰めてもらいたいと思っていたわけではなかったが、それにしてもその言葉はあんまりだと思う。
そう思ったら、夕は段々と腹立たしくなってきたものである。
「…っだよ!お前なっ、人が傷ついてる時にそーいう言い方って…!」
「たかだか十三年やそこらなんだろ。大したことないだろうが。まあお前が今日明日にでも天国行くってんなら同意してやっても構わんが」
「は…はぁ!?」
なんなんだ、このクソモアイ!!!
夕は突発的に込み上げた怒りに、弄っていたコーヒーカップを思い切り安岡に投げつけた。かかりの至近距離で投げたものだから、それは安岡の顔面にクリーンヒットする。そのせいで、伊達眼鏡ががっくりと肩を落としたように傾いた。
安岡はそれを直しながら、
「……俺ら、出会って三年くらいだよな?」
そんなことを言う。
唐突に何を言うのだろうか、安岡は?
まったく繋ぎの分からないその話題に夕はまたしても呆気にとられる。
以前からちょっと変わった奴だとは思っていたが、やはり本当に変わっているらしい。
「その逸見って奴と十三年くらい一緒にいたっていうなら、俺とだってあと十年くらい一緒にいれば同じことになるんだろ」
「……って。は?安岡、お前、何言ってんの。そりゃ年月的に言えばそーだろうけど、逸見とお前とじゃ根本的に違うっていうか…」
「何が違うんだよ」
「な、何がってそりゃ…」
逸見はあくまで恋人だったのだ。最初は友情だけだったかもしれない。けれどキスやそれ以上のことをする関係になって、夕の中ではあくまで恋人という立場の人間だったのだ。まあ肝心の逸見は友情でしかないと断言していたが。
そんな逸見と、目前のモアイを、同じ天秤になどかけられるはずがない。
「逸見は俺の中で恋人…だった、から。お前は普通の友達じゃん」
「普通の友達ねぇ…」
目前の安岡は、憮然とした表情をしている。どういう意味合いでその表情が出てきたのか、夕にはさっぱり分からない。しかしそれは、安岡の口から次々に発せられる言葉で明らかになっていく。
「なあ、夕。失恋した相手の相談に乗るとうまい具合に落ちるって話、聞いたことあるだろ?俺さ、丁度良い機会だから、今それやろうかなと思ってるんだよ」
「……はい?」
夕は目が点になった。
「そうすると漏れなくコロッと夕が落ちる手筈なんだよ。俺って策士だろ?そういうわけだから、逸見とかいうやつのことは忘れて、お前はこの安岡と付き合えばいい」
「は……はああぁ!?」
な――何を言ってるんだ、安岡は!?
夕は心の中で絶叫した。
意味が分からない。分からなすぎる。
何しろ安岡とは大学に入学した時からずっと友達で、確かに仲は良かったし信頼もしていたけれど、かといってそんな恋愛云々という気配などまるでなかったのだ。
それが何故突然そんなことを言いだすのだろうか。それともこれも慰めの一環だというのか。
だけれど、予想だにしなかった言葉を聞いて、夕の心臓はドクドクと高鳴っている。