最悪だった。
多分その日は、俺が知る中で一番最悪な日だった。
起きると既に昼過ぎで、頭がガンガンして、胃もムカムカするわ体はダルいわで俺は最悪のコンディションだった。何だかぼーっとする。それに加えてどうだ、この時間は。完璧遅刻じゃんか!
慌てて起き上がろうとするけど体がダルすぎてどうにもできなくて、俺は取り合えずなんとかキッチンまでよろよろと歩いた。せめて水を飲もうと思ったからだ。
と、キッチンテーブルの上に置手紙があった。アカネからだ。
「”連絡しといたから寝てろ!”…?」
…って、おい。
これはつまり……ちょい待て待て待て!
まさかアカネが俺の職場に電話したってことかよ!?園部は二日酔いだから休みます、って?ええええええ!?マジにかーーー!?
俺はあんまり気が動転したんで、水を飲もうとしてたのに何故か真新しいフライパンを手にしていた。違ーう!これじゃないっ!
「待て…落ち着け、落ち着けよ俺…!」
この場合問題なのは何かっていうと、俺が当日欠席したのもさる事ながら、アカネが電話をしたってことだろう。何故本人が電話してこないのかって絶対思われてる。あの電話の男は何者なんだ、と。いや、待て。それだけじゃないぞ。問題は…そうだ、問題は!
「何で起こしてくれなかったんだよ、アカネのあほー!!」
これだろ!!!
俺の空しい雄たけびは、一人きりの空間に響き渡って寂しく消え行くはずだった。その予定だった。だけど、その予定は意外や意外に裏切られ、暢気な…といったら悪いけど、俺の起こしてくれなかった恨めしいアカネの声が響いてくる。
「おいおい、何起きてんのお前。ほら早く寝た寝た!」
「ちょ!アカネ!何で起こしてくれなかったんだよっ」
「だってお前めちゃくちゃ熱あるぞ。そんなんで仕事できるわけねーだろ」
「熱…?」
がーーーーん!!!
俺、熱あんのか!知らなかった!というか、どうりでフラフラしてるわけだ。今俺は物凄く納得してしまった。畜生、アカネに抗議してやるつもりだったのに何もいえなくなっちゃったじゃないか。
俺は強制的にベットの中に戻された。
あー不覚…まさか昨日のビールがこんな尾ひれをつれてくるとは…。
それにしてもアカネは何で家にいるんだろう?いつも朝早く出勤しているのにこんなジャストタイミングで家にいるなんて何だかおかしい。
俺がそのあたりを聞いてみると、なんということか、アカネはさらっと「休んだ」と言った。
「だってさー、ほっとけないでしょ。熱39度近くあんだぜ?駄目駄目、そんなの俺が気になって仕事できないっての」
アカネはそう言いながら、いつも全く手付かずになってるせいでピカピカのまま保たれてるキッチンで、何やらゴソゴソしだした。それからおもむろに携帯を取り出してピコピコ操作し出す。
「今おかゆ作ってやるからちょっと待ってろよー」
「え…ア、アカネが作んの!?」
「あれ、もしかして俺じゃ不満?」
「ち、違うけどっ!だって…その、いつも料理なんかしないじゃん。おかゆなんて作れんの?」
「いやー作ったことないけど、取り敢えずレシピ見ながら作る!白い米も調達してきたし」
どうやらアカネは、さっきコンビニに行っていたらしい。良くある真空パックの白米だ。アカネは携帯でレシピを見ながらちょっと唸ってキッチンの主になっている。
アカネのおかゆ…。
うわー…。
俺はベットの中で包まって、ただの熱のせいだけじゃなく、顔がぽわんと熱くなってた。キッチンにアカネの後姿。それが、慣れない料理なんかをしてる。しかもそれ…俺の為…ってことだよな?
うわー、うわー、うわーっ。
俺はどうしようもなくなって、アカネの後姿を見るのさえ恥ずかしくなって、毛布を思いっきり引き上げた。熱の篭った毛布の中、心臓の音がドクドク鳴ってるのが分かる。何だかおかしくなりそう…。
でも、そんな俺のドキドキなんかお構いも為しに、アカネ作のおかゆはサクッとできあがってしまった。
俺は否応なしにアカネの顔を見ざるを得なくなって、絶対赤いはずの顔をアカネの前に晒す。熱があって良かった。じゃなきゃ、カモフラージュできない。でも熱が出なかったら、こんなふうにアカネのおかゆなんか食べられなかっただろうな。俺はどっちに感謝していいのか分からなくなる。
「はい、あーんして、あーん」
「ばっ…!自分で食べれるしっ!」
「何だよー良いじゃん、やらせろよ。はい、あーん」
「あ、あーん…」
…死ぬ。
…悶絶死だ。…あ、やらしい意味じゃなくて!純粋に!
子供になったみたいにあーんって口を開けて、アカネの運んでくるおかゆを食べる。おかゆなんてただでさえ味無いのに、ドキドキしてて更に味なんて感じられない。一応、美味しいとは言ってみたものの、俺には何かが口の中にあるって感覚しか分からなかった。
アカネは、ベットの端に腰を浅くかけて、よしよし、なんて笑ってる。あああ、やめろおお…。その笑顔NG!しかも近いから!体全体近すぎですから!
俺はもっと病が重くなるんじゃなかろうかと言う中で、とりあえずおかゆを完食して、それから薬を飲んだ。あとは寝れば良い。そうすれば取敢えずこの恐ろしいほどのドキドキ感からは解放されるだろう。
と思ったけど、悪いことに、全く眠気が襲ってこない…。
「あの、さ。アカネ、ありがとう。もう俺、大丈夫だからさ。部屋戻れよ」
「は?やだよ、そんなの」
「なっ!何でだよっ」
「だってそりゃ…―――あ、ちょっと待った」
どうやら携帯が鳴ったらしく、アカネはごめんっていうジェスチャーをしながら携帯に出る。中途半端で終わってしまった会話に俺は手持ち無沙汰になったけど、元々部屋に帰れと主張してたわけだし、まあこのまま途切れた方が良いのかな、なんていう気もした。
…が。
「里美ちゃんも来るの?うわーマジかー!あーそうだよな…でも、今日だろ?ああ、ああ、うん。あー…そうなんだけどさ、今日はちょっと…」
「…」
俺はアカネの声がなるべく聞こえないように、毛布の中に包まった。
里美…って、誰だろう。
どういう話か分からないけど、とにかく途切れ途切れの言葉からすれば、アカネは今日誰かに誘われてて、その場にその里美ちゃんっていうのが来るわけだ。アカネの声のカンジからして、その里美ちゃんに会いたいっていうのが伝わってくる。でも誘われてるのは今日だから…。
つまり、俺のせいで行くのを渋ってるんだ、アカネは。
アカネは親切すぎるんだ。
俺のことなんか構わないで行けば良いのに。だってそっちの方がだいぶ重要だし、俺なんて風邪ひいたってどうってことないんだから。
俺の感情は、さっきまでとは正反対に少しづつ冷めていった。明らかに、里美という女の子の名前が効いてるんだ。
アカネが近づいてきたらドキドキしっぱなしでそんなに近づくななんて思うくせに、いざ離れそうになると心細くなる。俺は、そんな俺の身勝手さがどうしようもなく嫌だと思った。
俺は、意気地なしだ。
結局ユリちゃんとの約束も守れてないし、アカネに気持ちを打ち明けることも怖くて出来ない。それどころかアカネがこの家から出ていってしまったらどうしようって、それすら怖がってる。
アカネ曰く39度近くも熱がある俺は、病気の時特有のアレかもしれないけど、どんどん意気消沈していった。病気の時って、何だか弱気になるもんだけど、今の俺はそれにプラスして今までの言動が拍車をかけてる。最悪だ。何が最悪って、俺自身が最悪なんだ。
俺がもし可愛い女の子だったら…いや、そこまで望まない。せめて普通に女の子だって分かるくらいの外見だったらこんなふうに悩まなかったのかな。そうしたら、アカネに好きだって言えてたかな。
いや…違うか。
外見のせいにして逃げてるけど、結局俺は、心が弱いってことなんだろう。どうせ選ばれることなんて無いって思ってるんなら、外見なんて関係ないはずだもんな。当たって砕けろだもんな。俺はそれすら出来てない。
俺は熱の篭る毛布の中でそんなことをずっと考えてた。頭はぼーっとしているはずなのに、悲観的な考えばっかりが急激に頭の中を旋回した。
「ああ、じゃあな。…おい、ジュン?」
電話が終わったのか、アカネがそんなふうに声をかけてくる。
俺は寝たふりをして、毛布の中に包まってた。今アカネの顔を見たら何だか…何だか、俺…。
でも…そうだ、これだって逃げてるんだよな。俺は、俺の気持ちから逃げてるんだ。
「アカネ…」
俺は、おもむろに毛布から顔を出した。
意気消沈してた気持ちがグルグルしてたせいか、俺の表情は病人そのものみたいになってたんだろう。アカネが心配そうな顔をして俺を覗き込んでくる。
ベットにつかれたアカネの腕を、俺は、ギュッと掴んだ。
「アカネ、俺…」
「どうした?」
「俺…」
目は、逸らさなかった。
逸らせなかった。
「俺、アカネの傍にいたいよ……」
俺の視界には、何も言わないまま、少し驚いたふうに俺のことを見てるアカネの顔が映っていた。