気が重かった。
とにかく気が重くて仕方なかった。
いっそ言ってしまえば良いじゃないかと思う。
電話番号をなくしてしまったことをツォンに告げて、電話が繋がってしまうことが怖いと思っていたから登録できなかったと告白してしまえば良いと、そう思った。
しかし、ツォンにあのようなことを言われた後にそれを告白するのは火に油を注ぐようなものでしかないし、第一分かってもらえるかどうかも怪しい内容である。
自宅までの間、ルーファウスの脳裏にはツォンの言葉がぐるぐると旋回していた。
何度も何度も反芻し、まるで自虐のように心を痛めていく。
ツォンが何を言いたいのかは分かっている。
ツォンはきっと、ルーファウスがそれほど想っていないのだと考えているのだろう。だから自分ばかりが浮かれているのではというふうに口にしたのに違いない。
それは勿論違うのだが、今まで一度も自ら好きだということを告げていなかった手前、そう思われても仕方ないことではあるだろう。ただ、あの場でそれを否定しなかったのは問題だった。
「…馬鹿だ」
――――――なんて馬鹿なんだろう。
仕事だったらどうとでもなることが、ツォンとのことになるとどうにも出来なくなる。こんなのは馬鹿じゃないかと思う。肝心なたった一言が言えなくて、簡単なたった一押しができない。
怖くて。
「…怖い?」
――――――そうだ、一体何が怖いんだ?
ルーファウスは自問してみる。
繋がってしまうのは怖いとか、見透かされてしまいそうで怖いとか、そんなことを散々思ってきたけれど、それは結局何が怖いというのだろう。
それよりも怖いのは、このまま時間が進んでツォンが離れていくことなのじゃないか。
「……」
ルーファウスはふと、ポケットの中から携帯電話を取り出した。それは社用携帯で、中にはツォンの社用携帯の電話番号が入っている。プライベートの携帯電話の番号はもう手の中にはないけれど、社用の携帯番号ならば分る。
それを見つめながら、ルーファウスは暫し考え込んだ。
そして、もう一度自問自答した。
このままだったらチャンスも無いじゃないか。
たった一押しじゃないか。
ただそれだけで、もしかすると上手くいくかもしれない。
本当は……
――――――――――繋がって欲しいんだろう?
何故此処に来たのか、それは分らない。
ただ、気づいたときには夢中で告白の木の下まで全速力で走っていた。こんなに走ったのはどれくらいぶりだろう。外は寒いし、人の目だって沢山ある。
それは分っていたけれど、気づいたときにはそうしていたのだ。
「…はあ…はあ…」
久しぶりに走ったせいで、呼吸がやけに苦しい。さすがにしんどいなと思いながら告白の木の下でしゃがみ込むと、ルーファウスはコートのポケットから携帯電話を取り出した。それは社用携帯である。
電話帳の中からツォンの電話番号を引き出すと、その表示をそのままにルーファウスはすっと上を見上げた。視界いっぱいに広がっていたのは木の枝である。そう、告白の木の。
―――――あの日、あの若い男はどうなったんだろう…。
ふと、そんなことを思った。
あの男はあの日、この場所でどれほどの決意で電話の向こうの相手と話したのだろうか。恐らく酷く緊張したのだろう。
あの時、ルーファウスは男に向かって電話をしてみれば良いじゃないかとそう言った。無意識中の言葉も同然だったが、そう口にしたのは確かである。
きっと今、その言葉は、自分に向けるべきなんだろう。
「……」
ルーファウスはすっと視線を携帯電話に落とすと、うずくまるようにしながらじっとディスプレイを見つめた。
かけなければ、駄目だ。
かけなければ。
あの番号ではないけれど、今、かけなければ。
「――っ」
ギュッ、と目を閉じる。
そうしてそれと同時に、ルーファウスはとうとう「通話」ボタンを勢いよく、押した。
トゥルルルル… トゥルルルル…
呼び出し音が耳に響く。
トゥルルルル… トゥルルルル…
呼び出し音はまだ響いている。
トゥルルルル… トゥルルルル…
三コール目には、ツォンが出なければ良いと思い始めた。
トゥルルルル… トゥルルルル…
もう切ってしまおうか、そう思う。
トゥルルルル… トゥルルルル…
でも此処で切ってしまったら、もう―――――…
『…はい、もしもし』
「…あ…」
いつでも切れるように「切」のボタンに指を添えていたルーファウスの耳に、それは突然響いてきた。
とうとう、電話が繋がったのである。
そう思ったら急激に緊張して、ルーファウスは声が出せなくなってしまった。
仕事の用件ならば難なくすらすらと口をつくのに、そうじゃないと分っているからどうにも出来ない。社用携帯であっても、結局用件が仕事でなければ緊張するのは同じことなのだということを実感する。
『ルーファウス様ですよね?どうしました?』
いつまでも黙っているルーファウスを心配してか、電話の向こうからはツォンがそんなふうに聞いてくる。
「あ…あの、ツォン…」
何か言わなければ、そう思って必死に唇を動かすと、返って気が動転してくる。
こんな時なのだから電話番号をなくしてしまったことを告白すれば良いのだろうが、なぜかその話題が頭からきれいさっぱりと消えてしまい、結局ルーファウスは全く関係のないことを口にする。
「あの、な…この前の…告白の木…」
そこまで言って、一体自分は何を言ってるんだ、とルーファウスは自分自身に怒鳴りつけたくなってしまった。全然関係がない。告白の木のことなんて関係ないのに。
『ああ、告白の木ですね。それがどうかされましたか?』
「そこで男が、若い男がいて…この前、その男が告白しようとしてて…」
支離滅裂だ、そう思う。
だけれど唇は、脈絡のない言葉を繋げ合わせようと必死だった。
『告白?…そうですか、今でもあそこで告白する人がいるんですね。だったら告白の木も嬉しいでしょう。正にその名の通りですからね』
「そう、そうだな…私もそう、思う」
そこにきて途切れてしまった言葉に、ルーファウスは暫し沈黙する。だからなのか、ツォンも暫く何も言わず黙っていた。
恐らくツォンは、ルーファウスが何か用件あって電話してきたと思ったのだろう。何しろ社用携帯にかけているのだ、そんなのは当然である。
しかし実際には何か用件があってかけているわけではないルーファウスにとって、その間というのは恐ろしいほど長い時間のように感じられた。
『―――あの、ルーファウス様』
痺れを切らしたのだか、ややした後にツォンはそう切り出してくる。
『何か仕事の用件でもおありなんですか?もし何かあるようでしたら、まだ社に近いところにいますから何なりと仰ってください』
「いや、あの…違うんだ。仕事…とかじゃなくて、ただ何ていうか…ただ、かけてみただけなんだ…だから別に…」
『?じゃあ仕事ではないのですか?でしたら私の携帯にかけて下されば』
「あ…」
そこにきて、ルーファウスはようやく電話番号を紛失したことを思い出した。
今の今まで気が動転していてすっかり頭から消え去っていた大切なことを、ツォンの言葉によって思い出したのである。
しかし、そうした瞬間にやはり気が重くなった。
こうして今ツォンと繋がってはいるものの、その告白をしたらこの電話すら切れてしまうのではないかという気がしてくる。
きっとツォンは傷つくだろう。だけれどそれを告白しないままだったら、もっともっと深い傷がお互いにつくのに違いない。
―――――言わなければ。今、ちゃんと。
「…あのな、ツォン。私は…その、謝らなければいけないことが…あって…電話…電話番号…が」
心臓が鳴っているのが分る。
ドクドクと脈打つのがはっきりと分る中で、ツォンの声が響く。
『謝らなければならないこと…?何のことですか?』
「あの…だから、実はな…番号を…ま、前に貰った番号を…なくしたんだ。だから番号が分らなくて、登録も…まだしてなかったから」
外が寒いことは十分に感じていた。しかしその外の寒さを凌ぐための防寒というには過剰なほどに、ルーファウスは己の身をギュッと抱きしめていた。
口元が震えるなんて、本当にあることだったのか。
上手く言葉が出ないなんて、これほど辛いことだったのか。
相手の気持ちが見えないことがこんなにも怖いことだったなんて、初めて実感したような気がする。
しかし思えば、無理をしなくても良いと言ったあの時のツォンも、もしかしたらこんな気持ちを抱えていたのかもしれない。
好きだなんて言ったことがなかったから、ツォンにはルーファウスの気持ちなど見えなかったに違いないのだ。
それなのに電話一本もせず話も上の空だったら、誰だってあのときのツォンのように思うのだろう。
―――――ああ、そうか…怖いというのは、これだったんだ。
自分の気持ちは迷惑なのじゃないかとか、上手い話もないのに電話などして嫌われたりしないだろうかとか、自分の方がより想っていると思われるのは恥ずかしいとか、そんなふうに勇気や自信が無いことが、怖いということの正体だったのだろう。
ルーファウスはそのことに、その時ようやく行き着いた。
「―――――ごめん」
重大な告白をした後に口をついて出たのは、そんなシンプルな言葉。
ただ、謝ることだった。
その謝りの言葉が響いてから暫くは電話の向こうが静かなままで、その状況はルーファウスを落ち込ませたものである。
ツォンからの言葉が無いということは、謝罪に対して怒っていることを示しているのだろうと思ったからだ。
そしてその落ち込みが最高潮に達したのは、他でもなく通話が突然切れたときだった。
プツッ。
そう音が響く。
「…!」
はっとした瞬間には既に通話は切れており、ルーファウスはその状況に文字通り唖然とした。耳元では空しくツーツーという音だけが響いている。
ツォンが、電話を切ったのだ。
「…切れた…」
――――――――駄目…だった。
愕然とする。
暫く携帯電話を耳元から離せなくて、空しい音を聞き続けていた。
しかしその後すぐに何かがこみ上げてきて、電話を持つ手からは急に力が抜けていく。そのせいで、電話がポトリと地面に落ちた。
「……」
視界に入るのは、幸せそうに電話を手にする人々の姿。彼らは電話の向こう側にいる大切な人と繋がりながら、足早にルーファウスの視界を過ぎ去っていく。
とても幸せそうな人々。
でも、自分は―――――…。