11:自己嫌悪の朝
“ねえ。どうして人はいつも、間違ったものを選んじゃうんだろうね”
“何で大切なものはいつも、手に入らないんだろう”
―――――答えなんて既に出ている。
大切なものが”手に入らない”から、“間違ったものを選ぶ”。
せめてもの安心と存在証明の為に。
ふと目が覚めるとそこに見えたのは質素なホテルの天井で、それを把握した瞬間にツォンは言い知れない自己嫌悪と不安に襲われた。
隣を見れば、思った通りマリアがいる。
マリアは無垢な表情で眠っており、その顔は安心しきっていた。その表情がツォンには心苦しく、また恨めしくもある。
まさかマリアを憎んでいるわけではないが、それでもそんな無防備な表情を自分に向けるのは間違いでしかない。
もしこれが他の男だったら、ただ優越感を覚えるだけで済んだだろう。
何せマリアはCLUB ROSEの一番人気だし、そうでなくても美人な女性である。支配欲をかきたてられるその身体を抱けるなら、陳腐な勲章を得たも同じといえよう。
男である以上ツォンにもその気持ちが分からないでもなかったが、それだけに留まらなかったのは、男である以前にツォンという名を持つ一個人だったからである。
「…馬鹿だな」
――――――またこうして、過ちを犯してしまった。
酔いとセンチメンタルが手伝って、絶対に駄目だと思っていたことすら忘れてマリアを抱いてしまったそれを、過ちと言わずして何と言おうか。
豊満な胸と華奢な腰。
吸い付くような膣の温かさは確かに男性器を刺激し、ツォンを興奮させた。
しかしそれはその場限りの興奮でしかなく、こうして最後には自己嫌悪に陥るのである。
自分が自分でなかったならば、どんなに楽だったろうか。
こんなふうに自己嫌悪に陥ることもなく、恐らくは満たされた性欲のためにスッキリしていただろう。男としての自尊も満たされ、後腐れも無く彼女を振り切ることすら可能だったに違いない。
支配が可能だと知った女など、抱いてしまった後には意味もない。既に手に入れたものを以降も大切にするのは、性欲優位である場合には煩わしいだけである。
でも―――――そういうふうには、片付けられない。
それはツォンがツォンであるが故に起こる悲劇で、あの出来事があったからこそ起こる悲劇でもある。もしそれが無かったら、もう少しくらい傍若無人になれたかもしれない。
でも。
「……」
“希望なんて持ちたくもなかったのに、ツォンが持たせたんじゃない”
“生きてなんていたくなかったのにツォンが生かしたんじゃない”
――――――だから。
“それなのにどうしてそんなふうに見捨てるの?”
“貴方が…貴方が私の人生に入り込んできたんじゃない!”
――――――だから、そういうふうには、出来ない。
ツォンはふと、マリアが口にしていたある言葉を思い出した。それは、男など皆同じだという言葉で、ツォンも所詮同じではないかという批判めいた叫びだった。
それを思い出し、ツォンは疲れ果てたような顔で笑う。
一体自分のどこがどう他の男と同じだというのだろうか。もしも他の男と同等なら、そんな言葉に揺れもせずにマリアを振り切っていたはずではないか。
別段、他の人間と同等レベルだと思われるのに嫌悪感を抱いているとか、自尊心が傷ついたとか、そういうわけではない。
ただ、マリアはツォンの事情を知っているのだから、そのような言葉で駆け引きをするのは少々狡いと思うだけである。
だってそう、他の男と同じにならざるを得ない事情があったのだから。
意味が無いから振り払おうというのではなく、意味があってはならないから振り払いたかったのである。
でも、結果的にそれは出来なくて。
「見捨てようとなんて思っていないんだ…」
そう呟いたツォンは、そっとマリアのブロンドの髪に指を滑らせた。それはサラサラとしていていかにも美しい。けれど何かを思い出させる分、残酷としか思えない。
それを感じながら、ツォンはやはり自己嫌悪に陥った。
何故なら、呟いたその言葉は確実におかしかったから。
“見捨てようとなんて思っていないんだ”
その言葉は、ルーファウスに向けるべき言葉であるはずなのに。
何となく胃がムカムカする。
これが胃もたれだとかそういう理由だったらまだ良かったが、残念ながらそれは違うとレノは分かっていた。きっとこれはストレス性胃炎に近いもので、心理的な要因が胃に直撃しているのである。
そのムカムカが発症したのは、ある日の仕事の打ち合わせの時だった。
いつものようにきっちりと整えられたストレートの黒髪を見たとき、いかにも理路整然として無駄のない言葉遣いを聞いたとき、冷静そのもので問題など何も無いとでも言いたげなその表情を見たとき、レノの胃はキリキリと軋み出したのである。
指令はいつものように携帯で投げる。
午前中は司令室からの無線で指示するが、午後は私も現場に赴く。
だからその後は私の携帯から指示を――――…、
そんな言葉の羅列を繰り出すツォンは、レノにとってどう足掻こうとも反転しない名実共の上司である。だからこそその人から送られる指示は絶対だし、悔しいことには仕事が完璧なものだから見習うべき相手でもあった。
がしかし、どうしてだろうか。
何故だかレノは、そのツォンの指示に従いたくない心持になっていた。たとえ仕事であっても、どうしても払拭できない反骨精神が燻って仕方が無い。
そのせいかレノの顔つきは険しく、自分でも気付いてはいなかったが、どうやらツォンをじっと睨みつけていたらしい。それに気付いたのはツォンの方だった。
「どうした、レノ?」
「は?」
「は?、じゃない。妙に険しい表情をしているが何かあったのか。それともこの指示に不服でもあるのか。だったらそう言ってくれ」
「あー…いや、別に」
指摘され、特に慌てるでもなくそう切り替えしたレノは、冷めやらない反発心をどうにか隠すべくツォンから顔を逸らす。こんな“いかにもな態度”は自分には似つかわしくないと思うが、どうもその日は制御不可能だった。
ツォンはそんなレノの態度を不審に思いつつも説明を続け、では散ってくれ、と最終的な合図を出す。
それを受けてレノは、心の中で毒づいた。言われなくても“散って”やるよ、と。
こんな居心地悪い場所など真っ平御免だ。