07:ペースの乱れた夜
甘ったるい匂いが立ち込めていた。
鼻につく、やけに甘いチョコレートのような匂い。それはどこか遠い国の煙草の匂いで、吸ってしまうとそうでもないくせに、香りだけはやけに甘ったるく感じられた。
「っつ…おいおい…ちょっと、激しすぎだって…」
ダブルベットほどの大きさのベットがぎしぎしと揺れる。
その動作はいつもより幾分か強く、平生からポーカーフェイスが得意なレノですらその動作には少しばかり顔を歪めていた。
ベットの上で抱き合うのなど慣れているし、その行為に特に何を求めるでもない。
そう思っているから別段ふかい感慨も起こらないのだし、やればやったですぐさま帰ることだって厭わないのだが、それにしたって今日この瞬間の動作には少しばかり心が動いてしまう。
その心の動きとは、愛だの恋だのという甘い感情ではなく、もっと別なものである。
「俺のペース…乱すな、って…の…っ」
「し、るか…っ、そ、そんな…のっ」
自分なりのセックスのペースを乱されるのは真っ平御免、これがレノのベット上の考え。
自分なりのペース配分で絶頂までをコントロールすることは当然で、だから相手の動きを理解した上でその配分とやらを決定付けていく。
何度か寝た相手であれば動きは充分理解しているから、ペース配分も大体いつも同じになる。
ルーファウスが相手の場合は正にこれに属するわけだが、どうやらこの日だけはそのペース配分が完璧に乱されてしまったらしい。
ルーファウスはいつも、さほどやる気ではない。
しかし今日は何故だか自ら腰を振り、想像できなかったほどの快感をレノに与えてくる。
そのせいでレノは、いつもであればまだまだ保てるはずの絶頂への間隔を大幅に短縮させられそうになっていた。
「ちょ、待て待て…このままじゃも、イくって…」
片目を瞑りながらも少々不満を込めてそう言ったレノは、何とかペースを戻そうと動きを緩めたりする。がしかし、相手がそれを許さない。
「ほんっ…と…も、駄目だ…」
まるで緩まないルーファウスの腰の動きに、レノは結局、いつもより大分早く絶頂に達するハメになった。
いつもはルーファウスが口うるさく言うせいもあって体外射精をするレノだったが、この日はどうにもペースが狂ってそれすら配慮できずじまいである。
達した瞬間、それは挿れたままの状態だった。
一息ついたその後にやっとその状況を把握したレノは、一気に後悔したように重いため息を吐く。
「悪い、中で出しちゃった…」
「別に良い」
「別に良い、って…オイオイ、前まであんなに嫌がってたじゃん」
少しばかり驚いてそう言うレノに、ルーファウスは「良いんだ」と言った。
それはルーファウスにとってはいつもの調子で放たれた言葉だったが、レノにとっては明らかに普通と異なっていたものである。様子もそうだし、言葉の内容もそう。どう考えてもおかしい。
そもそも今日は、全てがおかしい。
「…なあ。何かあったわけ?」
「別に」
「別にってことは無いだろ。悪くすりゃ腹下すぞ。俺は良いけど困るのは副社長の方じゃん」
「だから別に良いって言ってるだろ」
呆気ない一言で一蹴されてしまったことに、レノは怪訝な顔をする。
がしかし、すぐにニヤと笑うと、突然グイとルーファウスの腕を引き寄せた。そうしてベットの中でお互い向き合うような体勢になる。
第三者が見たら確実に恋人同士だと思うようなその状態で、レノはルーファウスをじっと見やっていた。
「それって、要するにツォンさんと何かあったってことだろ」
「……」
答えないルーファウスに、レノは少々真面目な顔つきになる。
「もしかして、別れたとか」
「そんなわけじゃ…」
「へえ。その割にはちょっとオカシイんじゃない、今日?」
レノはまるで反応しない人形のようなルーファウスの体を抱き寄せ、ギュッと抱きしめた。
先ほどまで散々抱きしめあっていた肌と肌が、再び重なり合う。けれどそれは、先ほどまでとは確実に違う熱を帯びていた。
それは―――――いつか感じたあの熱に似ている…。
そう…
あの日は雨で、この部屋は雨の匂いが充満していた。
その中で…
―――――その中で、あの人がくれた熱が…思い出される。
「…何で」
ルーファウスはレノの胸の中でそっと目を細めると、ぽつりとそんな言葉を口にした。その言葉と共に吐かれた息は顕著にレノへと伝わっていく。
「何で大切なものはいつも、手に入らないんだろう」
たった一つの大切なものでさえ、手にいれるのはとても難しい。難しいからこそ、どうにかして手にいれようともがき、手を伸ばす。
けれど、手を伸ばせば伸ばすほど煩わしいなにかが目に入り、それらに傷つき、誰かをも傷つける。本当はとても単純なことなのに、どうしてそんなふうに絡まってしまうのだろう。
空しい心の叫びを堰き止める為に、誰かの優しさが欲しかった。
その優しさとは、きっと誰が与えてくれるものでも良かったのだろうが、ルーファウスにとって初めてそれを感じた相手がツォンだった為に、ツォンの優しさがどうしても必要だと思ったのである。
しかし、優しさなどというものは心の余裕の別称に他ならない。
だから欲していたのだ、その心の余裕というものを。
どうすればそれが手に入るかなどまるで知らなかったが、それでもそばにいる内に何となく理解できたのは、“心の余裕”と“愛情の確立”が類似しているということだった。
もし愛情が完璧なものになれば、そこには信頼が出来、大したことには動じなくなる。それは勿論“心の余裕”そのものとは別個のものだったが、それでも確固たる自信としての愛情があれば、笑えるくらいの“余裕”はあるのだと知った。
だから欲していたのだ、その人の心そのものを。
しかしそれは、空しい心の叫びを堰き止めたいと思い続けていたルーファウスには、考える以上に難しいことだった。
どんなに愛していても、信じ切れない何かがある。
愛していると囁き続けるその脇で、いつもさまざまな事柄が入り込んできて、それらが必ず自分の愛情を崩そうとする。それはまるで自分を試しているかのようで、耐え切れなくなった心がズキズキと痛む。
時間が邪魔をして、会えなくなる。
誰かが邪魔をして、信じられなくなる。
気持ちが邪魔をして、素直になれなくなる。
そんなふうに上手くいかなくなっていくことに寂しさを覚え、勝手に自分自身が傷ついていく。
そうしてやがて――――他の誰かをも、傷つけていく。
例えばそう、こうして胸を貸してくれるレノも、傷つけた人間の一人なのだろう。