トゥルルル…!
「?」
と、その時。
地面に落ちたままの携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
気力の全てを一気に失ったかのような状態だったルーファウスは、それが社用携帯であることも忘れ、つまり仕事の用件かもしれないということすら忘れ、その着信を不思議そうに眺める。
見ると、ディスプレイには「公衆着信」という文字が表示されていた。
―――――…こんな時に悪戯電話か。
苦笑する気力もなくて、もうどうでも良いと思いながらルーファウスは暫くその着信の音だけを聞いていたものだが、その着信は随分と長く、まるで切れる様子が無い。
「…こんな時に」
面倒だ。
正直そう思った。
しかしそれがずっと鳴り響いているのも嫌だったから、ルーファウスは携帯電話を拾い上げると、すぐさま指を「切」へと動かす。そうして、躊躇い無くそれを押した。
…と。
『ルーファウス様!』
ボタンを押したその一瞬の隙に、その声はルーファウスの耳へと入り込んだ。
そう、「切」を長押しして電源を切ってしまえば良いと思っていたのに、その押しが甘かったせいで、ただ単に通話を了承した状態になってしまったのである。
けれどその声には聞き覚えがあって、ルーファウスは返って電源を切ることも出来なくなってしまった。
だってそれは、ツォンの声だったから。
「…ツォン…?」
唖然としながら、ゆっくりと携帯電話を耳まで動かす。すると電話の向こう側からは、先ほどまで聞いていたのと同じツォンの声が、少し焦ったふうに響いてきた。
『ルーファウス様!?…良かった、やっと繋がった。ああ、切ったら駄目ですよ』
「…な、何で…?だって、公衆着信…」
確かに公衆着信だったはずなのに。
そう思ったルーファウスに返されたのは、はっとするような言葉だった。
『私の携帯ですよ。登録、まだなんでしょう?』
「え…」
『これで着信履歴に出ますから、今度は忘れずに登録しておいて下さいね。これで、いつでもかけられるでしょう?』
そう言ったツォンの口調は、まるで責めるふうではない。むしろ優しくて、ルーファウスは返ってそれが悲しくなってしまったものである。
きっと怒って電話を切ったのだと思っていたのに、ツォンはただこの着信履歴を残すために掛けなおしたというのだ。失くしてしまったのは自分のせいなのに、それを攻めることなど一切なく。
そう思ったら、電話が突然切れてしまった時よりもずっと深く、心の底から何かがこみ上げてくるような気がした。
今度は手に力が入りすぎて痛い。どんなに力を込めて握り締めても落ちてしまうのじゃないかと不安で不安で、更に力が篭る。
こんなものはただの機械でしかないのに、それでもこの機械は気持ちを繋げてくれているのだ。そこにその人はいないというのに。
繋がってしまうのは、怖い。
けれど、それでもやはり繋がって欲しい。
「……」
『ルーファウス様、どうかしましたか?』
「……」
『ルーファウス様?』
だって―――――気持ちを繋げていたいから。
「―――…好きなんだ」
その言葉が出たのは、突然のことだった。
言おうと思って口にしたのではないと思うが、それはルーファウス自身にも良く分からなかった。ただ、気づいたときには口が勝手にその言葉を発していたのである。
いつもだったら絶対に思い付きなどしない言葉だろうし、きっとこれからも言えないのだろうとさえ思っていた、それはそんな言葉だった。
「好きなんだ、ツォン。本当に…そう思ってるんだ」
『な…ど、どうしたんですか、いきなり』
電話口の向こうのツォンは、そのルーファウスの突然の言葉に幾分か面食らっているようである。今までの落ち着いた口調が少しだけ崩れている。
「好きだから、電話…できなかった。何だか怖かったんだ。だって、何を言えば良いか分らないし、迷惑かもしれないし…でも、そんなだから番号を失くしたんだ。ごめん」
『そんな…謝ったりしなくても良いですよ。別に怒ってませんから』
「この前、出かける予定を話してる間もそんな事を考えてて…」
不思議なことに、口はすらすらと言葉を発していた。今まで散々言えなくて迷ってきたことが、まさかこんなにすらすらと口をつくとは思ってもみなかったものである。
もっと早くこうして口に出来ていたら良かったのに。そう思うと、悔しささえこみ上げてくる。
ルーファウスはコートの上からギュッと身を抱きしめると、一層縮こまった。そうして、電話の向こう側に集中するかのように目を瞑る。
「…でももう、無理だよな。別れたいと思ってるんだろう?」
『は…!?何でそういう方向に話が行くんですか!?』
「だって…この前言ってた。無理しなくても良いって。それは、もう嫌だってことなんじゃないのか?」
『…ちょっと待ってください。どこをどう間違ったらそうなるんですか?普通、別れたい相手に電話番号なんて教えないでしょう?』
「でも…」
好きだと告白した上で別れ話を持ちかけてくるなど、ツォンにとっては当然訳の分らない状態だったろう。
しかしルーファウスは真剣だった。端から見れば支離滅裂でしかないような内容でも、ルーファウスにとっては重要なものだったのである。
電話を繋げることは気持ちを繋げること。
好きという告白は気持ちを繋げることとイコールだったが、改めて電話番号を教えてもらったのはこれからもそうであるという保証とイコールとはいえなかった。そう、少なくともルーファウスの中では。
何しろ電話番号は一度失くしてしまったほどのものだし、結局かけなければ意味も持たないものなのだ。
――――――でも。
「嫌です」
「え…?」
ふと聞こえてきた言葉に、ルーファウスはそう聞き返す。
するとその言葉は、もう一度全く同じふうにリピートされた。
「聞こえなかったならもう一度言いましょうか。――――嫌です」
「嫌…って」
それはどういう意味だ。
やはりもう嫌だから別れたいという意味での“嫌”なのだろうか。
そう思いながら、ルーファウスは耳に当てたままの携帯電話を両手で包みこむ。
「別れるのは、嫌ですから。私の事が好きなら、そんな事は言わないで下さい」
「でも…。…!」
瞬間。
ひんやりとした感触が頬に当たり、ルーファウスは思わずビックリして体勢を崩した。
何だったのだろう、今のは?
そう思って慌てて顔を上げると、そこには…。
「やっぱり此処にいた」
―――――そこには、黒ずくめのツォンの姿があった。
その姿を目に映しながら、ルーファウスは暫く動けなかったものである。
先ほどまで電話を通して話していたはずのツォンが、どうして此処にいるのか。呆然として口まで開けたままの状態になってしまう。
それを見たツォンは、おかしくて仕方ないといったふうに笑った。
「そんなに驚かなくても良いじゃないですか。此処が分ったのが意外でしたか?」
「ツォン…」
「勘です。貴方はさっき告白の木の話をしたじゃないですか。だから何となく、此処にいるんじゃないかと思って」
ツォンはそう言いながら、自分の首元に巻かれていたマフラーを取り去ると、それをすっとルーファウスの首元に巻きつけた。そうしてルーファウスの髪に指を寄せると、壊れ物を扱うかのようにゆっくりとその髪を撫でる。
ルーファウスの瞳には、ツォンの切れ長の眼が映し出されていた。
「告白をしたその彼は…上手くいったのですか?」
「…分らない」
「そうですか。上手くいっていると良いですね。何せ此処は、告白の木ですからね」
ツォンはそんなことを言うと、ルーファウスの手をひいてその身を立ち上がらせる。それから徐にルーファウスの体を抱き寄せると、しっかりとその身で包んだ。
ひんやりとする。
それは自分の体が冷え切っているからなのかツォンの服が冷たかったからなのかルーファウスには良く分からなかったが、それでも嫌ではないような気がした。冷たいけれど、嫌ではない。
ツォンの肩口から見えた、帰り道を急ぐ人々。
彼らはやはり電話を手にして、電話の向こう側にいる大切な人との繋がりに顔をほころばしている。
―――――ああ、そうか。
ルーファウスは何となく納得できたような気がした。
彼らがああして幸せそうにする理由が、何となく。
「…繋がってるんだ、本当に」
こうして、温もりがあるように。
繋がっているんだろう、彼らは。あの機械の向こう側へと、本当に。
ルーファウスはそっとツォンの耳元に唇を寄せると、呟くようにこう言った。
「…好きだ」
それを聞き取っていたはずのツォンは暫く返答を返さなかったが、しかしややすると、ぽつりとこんなことを言う。少し困った調子で。
「あの…改めてそう言われると、ちょっとこう…照れてしまうんですけど」
そんなことを言うものだから、ルーファウスは思わず笑んでしまった。
そして、やはり良かったなとそう思った。
たった一押し。
それをして、本当に良かった。
END
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