真実の選択肢:18
手の中にあるドラッグを見詰める。
残りは、僅か。
このドラッグを勧めてきたあの男のことを考えると、沸騰するような怒りが沸き出てきて、思わずそのドラッグを粉々に砕いてしまおうかと思った。
でも、できなかった。
だって、これが無かったら―――――クラウドと会えなくなってしまう。
どうしても足を運ぶ気持ちになれずに例の酒場を避けていたザックスは、仕事上がりに真っ直ぐ瓶底オヤジの家に帰る生活をし始めていた。
もうこれで何日目だろうか、数えていないから分からない。
けれど、仕事帰りにフラリと酒場に寄っていた毎日からすれば、比べ物にならないほど健康的な毎日といえるだろう。だからなのか最近は体が軽い気がする。
しかしそれとは逆に、心持はそれほど軽くはなかった。
状況からしてもそれは当然だったが、こうして毎日真っ直ぐ家に帰ることはクラウドとの時間が増えることにも繋がる。
クラウドは俄然自我をなくした状態で、まるで話もできないし、そういうクラウドの隣で増えた時間を費やすことは、無意識ながらザックスに疲労を与えていた。
だからなのだろうか、最近では瓶底オヤジの手伝いが増えている。
以前の話は無かったことになったから、それは本当に手伝いといった具合で、未来を想定するものではない。
それでもザックスは、せめて此処にいる間は家族であろうと必死に手伝いをしていた。何しろこの一時的な家族はいつ失われるとも限らないのだ。
そう思うと、いつか…あまり考えたくはないが、いつか自分がクラウドの側にいられなくなってしまうときが来るまでは、せめて瓶底オヤジのくれた家族という言葉で繋がっていたいと思う。
そういうふうにザックスが手伝いをしてくれることは、瓶底オヤジにとって本当にありがたいことだった。
瓶底オヤジの労働力はいまや厳しいものとなりつつある。それでも積年の経験がものを言う商売だから、見よう見まねの手伝いだけで事を済ませているザックスと比べれば、さすがに仕事の丁寧さや慎重さで劣ることはない。
「お前さん、最近は真面目だな」
手伝いの最中、瓶底オヤジはそうして良くザックスに話しかけてきた。
それは本当に世間話程度で、時には笑って終わる時もある。以前のように真面目な話が出てくることはなく、そんな軽い会話はザックスの疲労を緩和させたものだ。
だからその日も、ザックスは軽い話題に終始笑顔で対応していた。
「まったまた!最近はじゃなくて、いつもの間違いだろ?」
「はっは、良く言いおるわ。夜も遅くに帰ってくる飲んだ暮れだったくせになあ」
「アイタタ…それ言うかよ」
わざと苦笑の顔を作ってそう言ったザックスは、仕事の手を休めないままに、でも最近はもうやめたんだ、などと言う。その理由としてザックスがあげたのは、手伝いをしたいから、という一言だった。
瓶底オヤジはそのザックスの言葉に一つ礼を言うと、トレードマークでもある瓶底眼鏡をすいと外す。そうして仕事の手をすっかり休めると、珍しくザックスの方に歩み寄った。
その足音に気づいて手を止めたザックスは、あれ、という顔をして瓶底オヤジを見遣る。その顔は今までの軽い会話からは見て取れぬほど真面目で、ザックスは自然と顔を引き締めねばならなかった。
だって、これはもう軽い会話の延長ではないと思ったから。
「――――ザックスよ」
瓶底オヤジは、眼鏡を取り払った顔で真剣にその名を呼んだ。
その口元は深い皺に覆われていて、良く見れば顔全体に同じくらいの深さの皺が刻まれている。今迄こんなふうにマトモに見詰めた事が無かったから気付かなかったけれど、どうやら瓶底オヤジは思ったよりもずっと歳がいっているらしい。
それを知ってザックスが思ったことは、ただ一つ、切なさだった。
別段年齢云々ということではなく、そういう瓶底オヤジにクラウドのこれからを頼もうと思っている自分が悲しいと思ったのだ。
店の未来すらザックスに託そうとしたくらいの瓶底オヤジに、ザックスはもっと大掛かりなことを託そうとしている。
勿論それは最初から都合が良いことだと分かっていたが、それでも今こうしてその深い皺を見てしまうと、それが更に都合の良すぎることのような気がしてしまう。
何だか、胸が痛い。
「どうだろうかの、たまにはゆっくりと話でもしてみんかね」
「ゆっくり、って…仕事は良いのか?」
「ああ、たまにだからな。それに、お前さんには話したいこともたんとある。どうだろうか」
そう問われても、ザックスには選択肢などなかった。
頷かないわけにはいかない。
「…ああ、そうだな。分かった」
ザックスは少しだけ笑うと、頷いてそう言った。
仕事を休んでまで話すこととはどんなことなのか、ザックスには想像がつかなかった。
以前と同じ話ではないことは分かっているが、それだとすれば更に想像がつかない。まさか店を辞めるなんて話ではないだろうし、一体瓶底オヤジが自分に話したいことというのがどんなものなのか、ザックスには全く分からなかった。
しかしそれでも思うのは、仕事を休んでまでする話なのだから軽い話ではないだろう、ということである。
そういう事も含め真面目な顔つきでいたザックスは、店内の小さな椅子を勧められ、言われるままにそこに腰をかけた。
瓶底オヤジはその小さな椅子の丁度真向かい側にある木製の箱に腰を下ろすと、やれやれ、などと口にしながら眼鏡を折りたたんでいる。その木製の箱というのは仕事道具の入っている箱で、瓶底オヤジの特等席でもあった。
「で、話したいことって何だ?」
早速というようにそう口にしたザックスは、どこか落ち着かないのか、貧乏ゆすりのように足をトントンやっている。
瓶底オヤジはそれに目を遣りながら、少し笑った。
「なあに、そんなに硬くなりなさんな。まあ、単なる世間話の延長だ。年寄りの話に付き合うと思ってくれれば有りがたいんだがの」
「別に、硬くなんて…」
なってない、そう反論しようとしたが、ふっと視界に入った自分の足が規則的に揺れていることに気づいて、ザックスはその先が言えなくなってしまう。
硬くなんてなっていないけど、落ち着いていないことは確かだと思ったからだ。
だからその足の揺れを意識的に止めると、そうしてからやっと、「硬くなんてなってないさ」と言った。そして、話の催促をする。
その二度目の催促によって、瓶底オヤジの話はようやく始まった。
「まあ、何だ。最近お前さんがよう手伝ってくれてワシも助かっておるんだが、どうにも気になることがあってな」
「気になること?」
ああ、そう頷いた瓶底オヤジは、それは先ほどの話の続きなのだと口にする。先ほどの、というのは、軽い会話の一部でもあった「真面目」という部分。
最近ザックスは、寄り道一つせずにこの家に帰ってくる。
しかし以前はそうではなく、事あるごとに例の酒場に通っていた。それは瓶底オヤジも知るところであり、どんな酒場に行っているかとか、そこで何が起こっているのかとか、そういった詳細は知らないものの、瓶底オヤジの気がかりの一つであったらしい。
「お前さん、疲れておるだろう。確かにこんな状況じゃ、それも分からんでもない。お前さんが今迄どう生きてきたかなんてワシゃ知らんよ。だが、此処に一緒にいる間のお前さんのことくらいはワシだって知ってるつもりだ。…なあ、ザックスよ。お前さん、何かあったんじゃないか」
「え…」
そう言われ、ザックスは声を上げる。
一瞬にして頭に浮かんだのは、ルヴィのことだった。
しかし瓶底オヤジはルヴィのことなど知らないし、まさかそのことだとは思えない。
「なあに、真面目なことは良い事だ。だが、どうして急にそんなふうになったんだかな?」
「……」
責めるでもなく緩やかにそう言ってくる瓶底オヤジに、ザックスは言葉を失った。
どうしてだなんて…そんなの、理由は一つに決まっている。
それは、先ほど一瞬、頭に浮かんだルヴィのことだった。彼を思い出せば自然と浮かんでくるのがあの酒場であり、そしてそれは神羅へと続いていく。
神羅の所有物となったあの建物、そこから出てきたルヴィの姿―――それが意味するところは一つしかない。それはザックスにとってみれば裏切りと同等である。
勿論ルヴィがどういう人間であるかという事をはっきりさせたわけではないから、そこには何かしらの理由があるのかもしれない。そうでなければルヴィが酒場でザックスと楽しげに時間を共にするその理由が判らない。
仮にザックスと酒を共にするその理由すら神羅に関わることであったら、それは最大の裏切りへと変貌するだろう。がしかし、それらをハッキリと確かめることは、今のザックスにとっては出来ないことだった。
だって―――リンクする。
リンクするのだ、大切すぎた過去に。
「…まあ、何だ。人生ってのは色々あるもんだ。時にはそりゃあ目を背けたくなることだってわんさかあるだろうよ」
瓶底オヤジは責めるふうでもなくそんなことを口にすると、でも、と言葉を続けた。
「だからってザックス、本当にそれで良いのかどうかを見極めることは大切だろう。何もないならそれに越したことはないがな、もし何かあったなら…本当に今それを捨てて良いのかどうかを見極めなけりゃ」
「…瓶底オヤジ…」
まるで心の内を全て読んだかのような瓶底オヤジが、ザックスには不思議でならない。
確かに瓶底オヤジの言うことは尤もだった。
ルヴィが神羅の人間ではないかと予測されることは、多分に目を背けたくなる現実である。それに対して今のザックスは、当のルヴィに事の真実を問いただすこともしないまま、ただ一方的に会わないというふうに生活しているのだ。
聞いてみれば、何かしらの誤解だという可能性だって無きにしも非ずだ。でも、誤解という可能性は薄いだろうという気持ちがそれを遮っている。
このまま酒場に足を運ばなければ、いずれルヴィとは連絡が途切れるだろう。そして、過去に酒場で語らった仲間の一人というふうに処理されていくはずである。
そうすれば、ルヴィが神羅に関わっている人間かもしれないという嫌な現実からは未来永劫逃れられるはずだ。そして、もう二度と会うことはない――――そうなるはずである。
二度と会うことはない、というのは、瓶底オヤジの言う“捨てる”と同意。
つまりあの酒場でそれなりに過ごしてきたあの思い出や仲間達を、捨てる、という事。
本当にそれで良いのか――――それを、瓶底オヤジは言っているのだ。
「俺…」
ザックスは、自身の心中を整理するように少し間を開けた後、ぽつりと口を開く。
「俺、多分怖いんだ。…はは、笑っちまうよな!俺ずっとソルジャーやってきてさ、どんな戦闘だって恐いなんて思ったこと無かったんだ。あの英雄に立ち向かった時だって恐くなんて無かったんだぜ?」
凄いだろ、そんなふうに言って笑ってみせたザックスは、そうした次の瞬間にはその笑みを消失させて口を噤んだ。
本当は笑うところなんかじゃない、それは分かっている。
本当は笑えることなんて何一つない、それも分かっている。
でも、笑うことで何かを緩和させたい心があるのだ。
「…でもさ。何でなんだろう、今はすごく恐いと思うんだ。戦いで自分が死ぬことは恐いなんて思わないのに、誰かが…俺の周りの奴等が死んだら、どっか遠いところに行っちまったりしたらって―――そう思うのが、何だか妙に恐いんだ」
ふと、脳裏にセフィロスの姿が浮かんだ。
それは自分とクラウドを置き去りにしてどこか遠いところへと去ってしまった憧れの背中。
いつだったかグレーの景色を見ながら物思いに耽っていたあの人は、もう何処にもいない。
そして次に脳裏に浮かんだのは、クラウドだった。
いつか見たはにかんだ笑顔…あれはもう随分と昔のことのように感じられる。
「今迄大切だったもの、俺だけが覚えてるんだ。ずっとずっと共有してたはずのものなのに、俺の方だけがそういう大切なもん引き摺ってて…誰も同じ思い出で笑ってなんてくれないから、さ」
これ以上、こういう事は嫌だと思う。
それが本音である。
そこまでのことをザックスはゆっくりと告げると、瓶底オヤジを見遣って困ったふうに笑った。
「俺、駄目人間かな?」
「いいや、そんなことは無いだろうよ」
見遣った先の瓶底オヤジは緩やかに笑っていて、困ったふうに笑っていたザックスは何だか更に困ってしまう。
もし此処で「駄目だ」と言ってくれたら、そちらの方が随分と気が楽だろうに、そうはさせてくれないらしい。
あくまで緩やかに笑うその表情は、心の内を見透かされた上、更にザックスを戒めるかのように見える。
“駄目な人間なんかではないのだから、まだ出来るだろう?”、―――そう言っているかのようで。