翌日。
何だか映画みたいな昨晩が忘れられなくて、ツォンは珍しくぼうっとしていた。
昨日あんなふうに過ごしたばかりだから、ルーファウスと次にデートをするのはもう少し先の話である。
それでも今日は、社内で「おはよう」と挨拶を交わした。しかしその時はすっかりお互い仕事モードだったから、何だか素っ気無かった気がする。
早く来ないだろうか。
そんなことをついつい考える。
勿論それは、次にルーファウスとそうして共にする時間のことだが、今迄ツォンはそんなふうに考えたことが無かったから、それは恐ろしく珍しいことだった。
きっと、こういう状態を恋煩いとよぶのだろう。
今迄そういう状態になったことがなかったというのに、今更そんなふうになるとはおかしなものである。
つい昨日までは、合鍵を欲しがったルーファウスのことをさっぱりワケが分からないと思っていたが、何だか今日はそんな気がしない。というより、もしかしたら合鍵があれば少しはこんな気持ちも落ち着くのではないだろうかとさえ思う。
「そういえば…」
そういえばルーファウスは、合鍵をいつも持っていると言っていた。
しかし「どこに」という質問には秘密だといって答えてくれなかったものである。
「合鍵、か」
自分の持っているマスターキーなどは、単なる鍵に過ぎない。
けれど、相手の家の鍵というのはやはり特別なものなのかもしれない。
とはいっても、ツォンはルーファウスの家の合鍵を欲しいとは思わなかった。何しろそこは、自ら踏み込もうという場所ではなかったし、ルーファウスと会っていれば自ずと入ることになる場所だからである。
けれど、ほかの人間が持っていたら嫌だな、という気はした。
どんなに自分の心が最大の合鍵だとしても。
「しかし、可愛らしいことをするものだ」
昨日ルーファウスが見せたあの映画、あれは正に合鍵というアイテムに則っていた。それを見せたルーファウスの真意は何だろうか。
好きだから合鍵が欲しいんだ、とそう言えばそれで済むことなのに。
―――――まるで口では素直に言えないことを、伝えるみたいに…。
そんなことを考えて一人、ツォンは微笑んだ。
そんな思いを抱えて帰宅したツォンは、思いがけないものを発見したものである。
それは、正に自宅前の出来事。
「な…どうして此処に?」
ツォンは目を見張って、思わずそう零した。
だって―――そこにはルーファウスが待ち構えていたから。
ルーファウスはツォンの自宅など知らないはずだし、今日は会う予定でもない。一体全体どうしたことだろうと、ありえない状況にツォンはとにかく驚いた。
こんなふうに来るのだったら迎えに行ったのに、そう思いながら。
しかしルーファウスは、帰宅したツォンに向かって、
「ちょっと寄っただけなんだ。たまたま、な」
などと言う。
ルーファウスは、ツォン宅を調べて訪れたのだと言った。なるほど、確かにルーファウスだったら調べることも容易だろう。ツォンどころか全社員の自宅すら簡単に調べられる。
しかし、わざわざそこまでしなくとも、聞いてくれれば良いのだ。
そうすれば直ぐに教えるし、調べる手間などかけないで済む。
それなのにそうしないところが何ともルーファウスらしい気がする。それは合鍵を作って欲しいといったその理由を打ち明けなかったのと同様に。
しかしそんなことを思った時、はたとツォンは気づいた。
そうだ、合鍵。合鍵を持っているじゃないか、と。
「ルーファウス様、合鍵…持ってますよね?」
「え。ああ、持ってる」
「何で中にお入りにならないんです?何も外で待っていなくても」
「だって…」
そう尤もなことを指摘すると、ルーファウスは途端にしどろもどろし出した。別に合鍵を持っていないとか、失くした、とかそういう事ではない。そうではなく―――。
「…だって、何だか悪い気がするじゃないか。勝手に上がったりしたら」
「……は?」
ツォンは呆気に取られた。
どうやらルーファウスは合鍵を使うのが躊躇われたらしい。
それは分からないでもないが、しかしそれでは合鍵の意味が無い。そういう時だからこそ合鍵というものが存在するのである。
しかし、その必要性など微塵も感じていなかったルーファウスならば、それも仕方無いことだろう。何しろルーファウスにとっての合鍵は、ドアを開けるためのものではないらしいのだから。
ツォンは困ったように笑うと、自分のマスターキーを取り出してそのドアを開けた。
そして、
「どうぞ、入って下さい」
などと言う。
ルーファウスはそれに対して手をブンブンと振ると、そういうつもりで来たわけじゃないんだ、などと言う。
どうやら何かの目的があって来たらしいルーファウスは、ツォンを見て、ふとポケットの中から何かを取り出した。
そしてそれを、ツォンに手渡す。
「これは…?」
ツォンが首を傾げながらそれを受け取ると、ルーファウスはぶっきらぼうにこう答えた。
「ウチの鍵。だって…何だかフェアじゃないだろ」
「フェアじゃない、って…」
そんなルーファウスを見ながらツォンは、またもや呆気にとられる。
この鍵はルーファウスの自宅の鍵であって、先ほど社内で考えていたことによると、ツォンとしては別段欲しいとは思っていない鍵だった。
しかしそれは思いがけずルーファウスの方から渡される。
しかもその理由は、“フェアじゃないから”。
それを頭の中で噛み砕き、ツォンは少しして思わず笑った。あまりにもルーファウスが直線を無視してくるものだから、ついつい笑ってしまったのである。
その笑いについてルーファウスは、「何だ、人の好意を笑うなんて」と怒っていたが、ツォンはそれすらも何だかおかしかった。
だって本当の理由は、フェアじゃない、なんて事ではないはずだから。
本当は―――――“持っていて欲しい”だけ。
「ありがとうございます。ではこれは、持ち歩くことにします」
「あ、落とすなよ。大体あの家に強盗でも入ったら…」
「大丈夫ですよ」
それは当然、大丈夫に決まっている。
何しろあの家は鍵だけでは開かない仕掛けになっているのだ。ツォンはそれを何度も目にしているから知っている。
ということはつまり、この鍵を持っていてもあの家は簡単にドアを開けてはくれないということであり、この合鍵は半分しか効果を持たないということだ。
果たしてルーファウス自身はそれに気付いているのだろうか。
そう考えていくと、やっぱりルーファウスはドアを開ける為にこの合鍵を渡すのではないのである。ドアを開けるために合鍵を欲するのではないのである。
「立ち話も難ですから、どうぞ」
もう一度そうツォンが言うと、ルーファウスはまたしどろもどろになった。何やら初めての空間、しかもツォンのテリトリー内に入るのが躊躇われるらしい。
しかしそんなルーファウスにツォンは言ったものである。
笑いながら。
「昨日の映画の話でもしましょう。昨日は話せませんでしたからね」
END
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