「遅いって、ツォンさん。もう遅刻なんだけど、どーしてくれるんだよ」
「それは悪かった。実は違法請求を受けそうになったから少し遅れたんだ」
「へー…違法請求、ね。まーたぼったくられたんじゃ洒落にならないもんな。ツォンさん、人良いから」
「いや、別にそんなことは」
「またまた!でもま、どうせ経費で落とすんだろ、ソレ」
「ああ、そうだな」
ルーファウスの隣で繰り広げられていた会話は、妙に砕けた調子だった。
ツォンとレノは“いつもの調子”でそう遣り取りすると、少々の笑いを交えながらも会話を続ける。最早、遅刻がどうのというのは消え去ったらしい。
しかし脇にいたルーファウスにとってその光景は、一種ギャップを生むものだった。
だってそこにいるツォンは、ルーファウスの知っているその人とは少し違う。
ルーファウスが知っているのはとても真面目だったり真剣だったりするツォンで、同じ笑みでもそんなふうに砕けた調子で笑うツォンなど見たことがなかった。
何だか―――切なくなる。
ルーファウスにとってツォンはとても大切な存在で恋人でもある。普通だったら一番にその人のことを知っているはずの自分が、そんなことすら知らないのだ。誰よりもツォンと深い仲なのに、そんなことすら知らない。レノの方がよほどツォンのことを知っているように見える。
「ルーファウス様」
「…あ。ああ、何だ?」
唐突に話を振られ驚いたルーファウスは、まったく入り込めない会話の内容を思い返しつつもそう返答する。
が、どうやらその必要性は無かったらしい。
「もうそろそろビルに入られた方が宜しいですよ」
笑顔でそう言ったツォンを見て、ルーファウスは一瞬心臓が止まるのではないかと思った。しかしそれでも正常に鼓動するそれを感じながら、取り繕うふうに笑みを作ると、ああ、と返す。
「じゃあ、また」
笑顔でそう言ったのに対してツォンは同じ言葉を返し、レノは小さく会釈をする。
そうしてルーファウスは独りその場を離れることになったわけだが、その背後ではまだ建物に入る気配のない二人が、少々の笑いを漏らしながら会話をしていた。
それを背後に感じながら、歩く。
何だか涙が出てしまいそうだった。
そんな朝を迎えてからの一日は、あまりにも重苦しい。
とりあえずいつも通りに仕事をしてみるものの、なかなか調子は出なかった。
秘書がスケジュールを伝えにきたとき、ルーファウスは何を思ったか昼食になぞ誘ってみたが、秘書は苦笑いして「私などは」とやんわりと断りを入れてきたものである。分かっていた結果とはいえ、何だかどうも胸が痛い。
その上、秘書の伝達事項に更に胸が痛くなる。
それは翌日の重役会議の件で、当初ルーファウスはこれに出席する予定だった。ところが、秘書が言うには「今回は出席しなくて良い」らしい。
ルーファウスとしては出席せずとも良いならそれで良いというわけではなく、どちらかといえば出席を願い出たいくらいの気持ちがあった。だからつい反論したのだが、社長命令だからと断られた次第である。
そんな具合に、仕事でさえも胸が痛くなった。
誰もが自分を必要としていないのではないか……そんな心持になる。
しかしそれをズバリ聞くわけにもいかないし、そもそもそんな危惧を抱いていること自体が不毛だと笑われるだろう。
今日という日、全てが全て、ルーファウスを受け入れてはくれないような、そんな気がしていた。誰にも必要なんかではない自分がいるような、そんな気が。
そんな一日を過ごしたルーファウスには、ツォンとの約束も無かった。
ツォンから誘いがくるという偶然すら起こらない。
当然そのまま岐路につくことになったわけだが、何と言ってもその日のルーファウスはあまりにも惨めな気分だった。誰もが自分を蚊帳の外に思っているかのようなこんな日は、妙に自暴自棄になる。
例えば今此処で誰かが…ツォンに変わる誰かが自分の手を引いたらば、すぐさまそれに乗ってしまいそうな、そんな気にさえなっている。
そんな自暴自棄は、ルーファウスをある場所へと導いた。
それは昨日も来た―――そう、例の秘密のクラブである。
今日もその店の前には男が立っており、男は店先で立ち止まったルーファウスをチラと見遣ってくる。昨日の今日なのだからまさか忘れたということはないだろう。
男は、昨日と同一人物だということに気付いたのだか、恭しく礼などをしてくる。昨日のようなセールストークはしてこない。どうやらもう、入るか入らないかの決断は客に委ねられているらしい。
「……」
ルーファウスは、微塵も内容が分からない秘密のクラブの入口をそっと見詰めていた。その先に何があるのか、それは分からない。もしこの店が問題のある事をしていたとして、自分がそれに関わっていることがバレたら……そう思うと恐ろしい。
昨日のルーファウスの判断は正しく、おそらくそれは当然のものだったろう。しかし今日のルーファウスにはそれは適用されなかった。
―――どうにでもなれば良い。別に誰も、私がどうであろうと構わないのだから。
そう思う心は、ルーファウスの足を店内へと向けさせる。
そしてその足は、重苦しい未知の世界へとルーファウスを誘っていった。
階段を下るとそこには受付があった。
まるでホテルのようなカウンターがあり、どうやらそこに記帳してクラブに登録するらしい。
「初めてですか?」
カウンターの男は蝶ネクタイなどをして、どこか気品のある笑みを浮かべてそう問うてくる。それに対しルーファウスは一つ頷くと、男に示されたままに記帳を済ませた。当然そこには、ルーファウス神羅、という誰しもが知る名前が現れる。
それを目で追った男は満足そうに一つ頷くと、言葉は何も発しないまま手元から一枚のカードを取り出した。そしてそれをルーファウスに差し出す。
目を落とすとそこには「DICT」と書かれており、その下に小さく「MEMBER ID.XXX」という文字が刻まれていた。どうやらこれは秘密クラブの会員IDらしい。
チラ、と男を見遣ると、彼は手をピンと張り詰めさせながら奥の方を示した。そこにはドアがあり、様相からして随分と高いものであるらしい。多分そこが入口なのだろう。
ルーファウスはカウンターから離れると、ゆっくりと奥のドアへと進み、そのドアの前で先ほど手にいれた会員IDカードをスキャンした。するとドアはゆっくりと開き、唐突とルーファウスの目の中にその内容を示した。
「…!?」
そこは―――青白い光を点した部屋。
坪数はかなりのものだろう、まるで奥が見えない。
それでもその広さを感じさせないのは、多分その部屋に多くの人間がいたせいである。彼らはルーファウスと同じDICTの会員で、その誰しもが上層階級を思わせた。それはまるでVIPの秘密パーティのように。
会員たちの多くは、幾つかある丸テーブルの上からブランデーグラスを手に取りそれを口にしながら談笑をしている。丸テーブルには他にも豊富な料理が並べられており、それを運ぶのは露出度の高い服を着た若い男女だった。
しかし奇妙なことに、その彼らは料理やブランデーを運ぶだけではなく会員達の脇に並んで同じように談笑していたりもする。
「失礼します、ミスター」
突然背後からそう声をかけられて、ルーファウスは驚いて振り返った。
あまり奇妙なものを目にしてしまったせいか、その顔は随分と驚いている。
しかしそれでも相手の男は、そんなルーファウスを嘲笑うでもなく、ただ暗がりの中で端正な笑みを浮かべていた。
「ミスター、DICTは初めてで?」
「あ…ああ、そうだ。今日、初めてきた」
そう問われ正直に答えたルーファウスに、男は「では」と言って一礼する。それはあまりにも恭しくて、返って奇妙な感じさえする。立場からすればそういうものに慣れているはずのルーファウスでさえそう思うくらいだ。
「宜しければDICTをご案内致しましょうか。此処はノンルールのクラブ、そしてVIPの方だけが楽しんで頂ける場所です。どうかミスターにも心行くまで楽しんで頂けるよう、ご案内申し上げたいのですが」
「そ…うだな。…そうしてもらおう」
「畏まりました。それでは、ご案内いたします」
恐ろしいほど端正なその男は、またしても一礼すると、ルーファウスにDICTを案内し始める。
まず此処は…、そう言われたのはこの部屋である。
「このフロアは会食を楽しんで頂けるリラクゼーションルームです。いつでもご利用頂けます。…勿論、ノンルールです」
その男の言葉に頷くことができたのは、それから少し経ってからの事だった。そのフロアは広く、端の壁まで行くのにはかなりかかる。それでも男に従って壁際に辿り着いたルーファウスは、その端で行われていることに驚いて目を見開く事となった。
壁際は一際暗くなっており、大振りの皮製ソファが置かれている。その一つ一つには上方からカーテンのような赤い幕が垂れ下がっており、ソファの中が少し隠れているといった具合。しかしそれでもカーテンの中で行われていることはすぐに分かった。
―――それは、正にノンルール。
男であろうと女であろうと構わず、ソファにもたれ掛かりながら絡み合う体。一方は勿論会員なのだろうが、もう一方は大体があの若い男女である。
女は、惜しげもなくその乳房を曝け出し会員の男の歪な手に揉みしだれながら喘ぐ。男は、恰幅の良い初老の男のペニスにむしゃぶりついている。また別のソファでは、三人の男女が奇妙な形で絡み合う。
「……」
それらを見たルーファウスは、込み上げる気持ち悪さに表情を歪めた。一体なんなのだろうか、これでは乱交のそれと変わりが無い。ただVIPが会員であるというそれだけで行為の全てが正当化されているかのようだ。
その奇妙なフロアを後にした後、男はルーファウスを奥の部屋へと案内していった。
広すぎる廊下を抜けた後には次々と新しいフロアが現れ、その中ではそれぞれ会員と思わしき人間が満足そうな笑みを漏らしている。
それらのフロアで行われていることは実に様々で、多額のオッズをかけたゲームであったり、山積のギルを差し出すような取引であったり、ただのセックスであったりした。
それらのフロアはどれもルーファウスの気分を悪くさせたが、それでも男は構わずに案内を続けていく。だからルーファウスは、とにかくこの気分の悪い場所から抜け出したいと願いながらもその男の背中に従った。
そうしてやがて辿り着いたのは、おそらくこのDICTの中でも一番遠い場所だったろう。ともかく随分と歩いたような気がする。
そのフロアは妙に暗く、そして奇怪な声に溢れていた。
フロアの壁際にはびっしりと小部屋が並んでおり、その一つ一つから妙な声が聞こえてくる。まさかまた此処でも乱交もどきが行われているのかと思ったルーファウスは、知らずその口から溜息を吐いた。
がしかし、そんなルーファウスの読みは外れていたらしい。
「こちらでは、お取引次第でミスターのお好きな者を連れて出すことができます」
「連れて出す?」
「ええ、そうです。用途は何でも結構です。お取引さえお済であれば、彼らを如何様にして頂いても構いません。部下としてでも、小間使いとしてでも、奴隷としてでも。既に調教は済んでおりますから―――夜も、勿論」
「……」
笑ってそんなことを言う男に、ルーファウスはいよいよ隠すことなく顔を歪ませた。いい加減にして欲しい。
夜も―――という事は、ここで取引するのは”人間”と言う事だろう。つまり何処の誰とも知らぬ人間を、“取引さえすればどうにでもして良い”と言うことである。
しかしそれの意味するところは、当然世間的には許されるものではない。これでは立派な人身売買になってしまう。
「…これは違法ではないのか」
少々責め立てる気持ちも込めながらルーファウスがそう言うと、男はとんでもありません、などと笑った。
「これはDICTが会員様に喜んでいただけるよう用意したサービスの一つに過ぎません」
「“サービス”だと?人身売買がサービスだと言うのか?」
「ミスター、どうぞそんなお言葉はお忘れ下さい。このサービスにはどの会員様も満足して頂いております。この世で最高級のサービスです」
まるでモラルの無い、しかしそれを上手く正当化したかのようなその言葉は、ルーファウスの耳に入り、そして彼を落胆させる。
先ほども思ったことだが、会員がVIPであるというそれだけで全てが正当化されるというのはどうなのだろうか。しかも今度はあまりにも非人道的である。
その非人道的な行いがVIPの間でだけ正当化されるというならば、それは当然金が絡むことになるだろう。要するに、モラルは金で買えるという話である。
そんな事に頭を巡らせいよいよ嫌悪感も絶頂に上り詰めたルーファウスは、もうこのクラブから出たい気持ちになり、それを男に告げようと口を開けた。
が、しかし。
その時、奥の方から何者かが現れ、ルーファウスは言葉を発することができなくなってしまった。