スティンが止めるのも待たずにドアの中に入り込んだツォンは、ルーファウスの自宅内部へと進んでいった。
スティンは慌ててその後をついていき、執拗なくらいに食い下がる。何せルーファウスの留守中のことである、勝手に上がりこんでもらっては困るのだ。
例えツォンがルーファウスの恋人だとしても、許可も無いのにそうされては後々さまざまな問題がありそうな気がして。
「やめて下さいっ。ご主…ルーファウス様に連絡しないと、俺…!」
「慌てなくても良い。私は無条件に許されている。わざわざあの方の手を煩わせる方が余程バカだと覚えておけ」
「そんな…」
「それに今日は、お前に用事がある」
強くそう言われ、スティンは何も出来なくなってしまう。
一方のツォンは、一体何の用があって此処に来たのだか理解していないスティンを見据えながら、ソファに腰を下ろした。そして、冷たい笑みを浮かべて言う。
「お前は…あの方に面白い事を言ったようだな?この私が恐いと…そう言ったそうじゃないか」
そう切り出され驚いたスティンは、得体の知れない恐怖を感じて後ずさった。そうして一歩一歩下がっていくと、最後には壁にペタリと背中がはり付く。そこまできて行き場を失ったスティンは、萎縮した眼でじっとツォンを見つめた。
一体この男は何を言いたいのだろうか、と。
「お前はなかなか利口だ、誉めてやろう。…が、残念ながら邪魔だ。あまりに鋭い勘は、この社会に於いては得てして邪魔なものなのだ。分かるか?白黒ハッキリとさせない方が良い事もある…道理だろう?」
「あ…お、俺には…そんな事…」
ふん、そう笑いながらツォンは話を続ける。
「分からないか?この世は上手く騙されている方が楽で、正しくて、外れがないのだ。お前のように勘を働かせすぎると、怠惰な者はこぞってお前を攻め立てるだろう…この嘘つきが!、と罵って…な」
「俺は、嘘なんてついてない。俺は本当にあ、貴方が…」
恐い、そう言いたかった口はさっぱり動こうとしない。
ツォンが口にした内容は簡単ではなかったが、それでも良いことではないという事は良く分かる。それが証拠にスティンは、その空間に更なる恐怖を感じていた。
「…良いか、お前はルーファウス様に甘言を与えてはならない。そして私を“バラして”もいけない。お前は多分それをこなせるだろうが、私は危険な芽は潰す主義なんだ。―――要するに、お前には嘘つきになってもらおう」
「な、何で…!?」
嘘をつくということは、スティンの中では絶対に許されないことである。しかも、それがルーファウスに対するものであれば尚更だ。
獲物を捕らえたかのような眼つきでスティンを見遣ったツォンは、すっと腰を上げると、最早逃げ場所もないスティンに一歩一歩と近付いた。そして、僅か30cmほどの距離まで来ると、とても信じられないような言葉を口にする。
「お前は、私がルーファウス様を愛しているように見えるか?」
「…!?」
「見えないか?…まあどちらでも良い、仮面などは。ともかく私はあの人のことなどどうでも良い。お前には分からないだろうが、この世には溢れているんだ…土台、踏台、利用、虚偽、世辞、詐欺、犯罪…世界のあちらこちらで。隣を向けばそこに嘘がある、信じている場所に帰っても嘘がある…では何を信じるか?―――答えは、仮面だ。体よく騙されていれば良いだけの話…たったそれだけで全ては救われる。何を考えずとも良い、ただ身を任せればそれで良い」
ゆったりと笑って伸ばされた手が、スティンの右腕をガッと掴む。恐ろしくて思わず眼を見開いてその腕を見たが、そうした瞬間に言いようのない悲しみがスティンを襲った。
ツォンの言う言葉ははっきりと理解できない、しかしそれが悪いことだという認識はあるし、ともかく許せないのはルーファウスに対して嘘をついているという事実だった。
ツォンは言ったのだ、あの人のことなどどうでも良い、と。
しかし、ルーファウスは?
ルーファウスは―――ツォンをあんなに好きでいるのに…。
「ひ…酷い…嘘をつくなんて、酷い…!ルーファウス様は貴方のこと、すごく好きなのに…!酷い!!」
溜まらず叫び出したスティンは、萎縮した身体を頑張って奮い立たせると、ツォンに殴りかからんばかりの勢いで叫んだ。
「ルーファウス様を騙してるなんて!あ、貴方は酷すぎる!ルーファウス様がどれだけ貴方のこと好きか、分かってないからそんなこと言えるんだ!」
「そんな事は重々承知している。というよりも、私がそうするよう仕組んだに過ぎない」
「なっ…!」
ツォンの言葉に驚いたスティンは、掴まれた腕が凄い力で引っ張られたのを感じ、あっ、と声を上げる。その声が消えた頃にはもう既にソファに上に投げ飛ばされており、その瞬間、スティンは眼を瞑った。
それをそろそろと開けた時、視界に映ったのは―――…。
「!!」
「お前に罪悪感をやろう」
視界に映ったのは、ツォンの顔だった。
あまりにも近い場所にその顔がある事は、スティンにとっては恐怖の上塗りである。何しろそれはDICTで何度と無く受けてきた仕打ちに似ていたから。…いや、似ているのではなくこれは―――そのものだ。
「大人しくしろとは言わない。自由にすれば良い」
「や、やだ…やめろ…!」
何時の間にかガッシリと捉えられた両腕と、動きを止められた体。そんな状態のスティンに突然やってきたのは、いつかの調教と全く同じ強姦行為だった。
そもそもはルーファウスのものである服を力任せに引き千切られると、そこから露になった肌にすぐさま舌の這う感覚がやってくる。それどころか強引に下ろされたズボンの中から取り出された性器は、慈悲の一つもないほど強く鷲づかみにされ激しく扱かれた。
「い、嫌だ、た、助けて!誰か!ご、ご主人様!ご主人様…!!」
「“ご主人様”…?」
その言葉にピクリと反応したツォンは、そうした後すぐにフッと笑いを漏らす。
「…なるほど」
ご主人様という言葉が示すものが誰なのか―――そんなものはすぐに分かる。
そのご主人様に救いを求めているスティンは、ツォンからすれば余程馬鹿馬鹿しいものに見えた。
“ご主人様”は、この男を助けるか否か―――その答えは?
…答えは、見えている。
「もっと利口になれ」
そう言ったと同時に、スティンの身体には固い性器が突き刺さった。まだ何の愛撫もされておらず固く閉じたそこは張り裂けるような痛みを送る。
その痛みは、滲む血とともに夕暮れ時の部屋に響き渡った。
「うあぁあああああ…―――!!!」
同日、午後21:00。
自宅に戻ったルーファウスの目に映ったのは、信じられない光景だった。
玄関を入ったところまでは良い。リビングに入ったあたりもまだ良いかもしれない。しかしその後、ソファの上を見た瞬間にルーファウスは思わず手荷物をポトリと床に落とした。
「な…何だ…!?」
ソファの上にいたのは、スティンである。スティンは眼を閉じ眠っているらしかったが、その様子はあまりにもおかしかった。
まず第一に彼は全裸であり、その上その肌には恐ろしいほど多くの赤い痣が出来ている。それは強く肌を吸った為にできたものだろうと想像がつく。股間の辺りには血がこびりついており、その上に精液が吐き出された後が幾筋かついていた。
随分と酷い事があったのか彼の性器は興奮の為ではなく充血して膨れ上がっていて、その痛々しさは床にまで及んでいる。
床にも精液の飛び散った跡、それから引き千切られた服の残骸。それから両腕には赤い跡ができている。
その惨状ともいうべき有様に顔を歪めたルーファウスは、やっと動く事ができるようになると、まずは彼に新しい服をかけてやった。それから床に落ちていた服を捨てると、こびりついた血や精液の跡をどうしようかを暫し考え込む。
「まずは…換気だな」
そう思って窓を開けたルーファウスは、もう一度スティンの傍にまで戻ると、そのあまりの酷さに顔を曇らせながらもソファの脇に腰を下ろした。
そっと、精液の跡がある箇所に指を当ててみる。―――まだ湿っている。
「…一体何が…」
これがもし自慰行為ならば怒る気など全く無いが、どう考えてもその域を超えている事を考えると、何か特別なことがあったとしか考えられない。
そう思いながらふと床に眼を落とすと、丁度スティンの顔の直下に本が放られていた。それはルーファウスがプレゼントした例の本である。
その本はまるで激しく叩きつけられたような妙な曲がり方をしており、その上にも湿った跡があった。
「……」
自慰行為ではないとなれば、考えられるのはただ一つ―――これは誰かとのセックスということである。しかしそれは、この有様からして強姦のようにしか思えないのだ。
仮に誰かがこの家に入り込んだとして―――その人物がスティンを強姦した…?
「…そんな事があるだろうか。しかし何があるとも分からない…」
例えばルーファウスがそういった理由でスティンと契約をしていたとすれば、それは無いともいえないだろう。噂が広まれば、馬鹿な輩がそうしないとも限らない。
がしかし、ルーファウスはそのようなことはしていないし、第一スティンの存在を知るものなどいないのだ。
そう考えると彼を強姦したのは、たまたまやってきた人間ということになる。
「……」
どういう事であるにせよ、あまりに酷い有様。
スティンをそっと見詰めたルーファウスは、疲れたようにダラリと下げられていたスティンの腕をそっと持ち上げると、その手を自分の両手で包んだ。
彼にこんな事をした人物、それはとても許せるはずがない。もしその人物が分かったら、更に過酷な仕打ちを与えるだろうとさえ思う。許されるべきではないのだ、このような行為は。
しかもスティンは、DICTで何度と無くこんなふうに調教されてきたのだから、彼にとってこれほど酷いことはないはずなのだ。それなのに…。
「くそ…っ」
もう少し早く帰ってくれば―――何となく、そんな事を思った。
それから一時間が経った頃、スティンはようやく眼を覚ました。
そこにルーファウスがいることに恐れと驚きと苦しさと悲しみを覚えたスティンは、その惨状に何も言わずに俯いたものである。そんな彼に何も問うことはせずにシャワーを勧めたルーファウスは、それからまた一時間ほど経った後に、ようやくスティンにその事情を問うた。
一体何があったのか、一体これはどういう事なのか。
それらを問うたルーファウスに、スティンは今にも泣き出しそうな顔をしながら、たどたどしい言葉を放った。
「ご主人様…ご、ごめんなさい…俺…部屋をこんなに汚して…」
「部屋などどうでも良い。それよりお前の身体がどうしてこんなふうになったのか、それを聞きたいんだ」
部屋の事ばかりを謝るスティンは、その次にはそういった行為をした事自体に謝る。しかし、何故そうなったか、誰がいたのかといった詳細は一切言わないものだから、ルーファウスはほとほと困ってしまった。
一体何故そんなに言えないのか、それが分からない。
確かにこれほど酷い目にあったのだからショックで仕方ないだろうが、だからこそ教えて欲しいというのに。
「これは誰かがやった事なんだろう?一体どうしてこんなことになったんだ。その誰かがいきなりお前を襲ってきたのか?」
「ご、ご主人様…俺…俺は……」
「スティン、言うんだ」
強くそう言うと、スティンはふるふると震えながらも小さな声でこう言い始めた。
「ひ、人が来て…俺のこと、いきなり…いきなりソファに…それで俺、う、腕を抑えられてて動けなくて…」
「…強制的にやられたという事だな。―――しかし酷い有様だ…随分なことをされたと分かる」
「何度も、何度も…ご、強引に……あの頃みたいに」
「……」
DICTの事だろう、そう思って顔を伏せたルーファウスは、スティンをこんなふうにした誰かがますます許せなくなったものである。一体どこの誰がこんなことをしたのかと思うと、どんなことをしてでもその人物を探し出して地獄に追いやりたい気分になった。
だから、ルーファウスはその人物について問う。一体、それはどんな人間だったのか、と。
しかしそれは、スティンにとって絶対に答えられない問いでもあった。
「…それで、一体どんな奴だったんだ。私はその人物が許せない、罰を与えるべきだと思う。だから教えてくれ、スティン。その人物は一体どんな感じだった?」
「あ…あ、あ……」
ビクリとして突然首をふるふると横に振り始めたスティンは、口をギュッと固く結ぶ。それは、言いたくない、という証拠である。
しかしルーファウスにとってそれはもどかしいばかりで、スティンが頑なになればなるほどその人物への苛立ちが大きくなった。
「スティン。何故言えないんだ?隠し立てした所で良いことなど無いんだぞ」
「…い、言えません…っ」
「だから。何故」
「それも…い、言えないです…」
そんな会話が続くばかりの空間に息をついたルーファウスは、取り敢えず時間を置こうと思い腰を上げる。少し落ち着く為にも飲み物をと、そう思って。
しかしそうして立ち上がったルーファウスの背中に、スティンの小さな声が届いた。しかもその内容はとても信じられない内容で、思わずルーファウスを振り返らせる。