02:盗み損ねた心、愛し損ねた心
「要らないの、これ。美味しいのに」
「え…?」
突然そんな言葉を受けて、ツォンははっと我に返った。
どうやら何時の間にか考え事をしていたようで、人前だというのに上の空になっていたらしい。
ツォンは自分自身に呆れながらも取り繕いの笑顔を顔に浮かべると、
「いや、貰おう」
そう言った。
CLUB ROSEという店はミッドガルでも隠れた名店といわれるくらいのバーで、あの酒飲みのレノやルードでさえ未だにこの店の存在は知らないというほどの場所である。
そんな隠れた名店を発見できたのは、まあ幸運といえば幸運なのだろうが、ツォンとしては少し心に痛いものがあった。
CLUB ROSEはショットバーの類ではなく、いわばキャバレークラブの類である。
そう考えるとどこが隠れた名店なのかと思わざるを得なくなる気もするが、綺麗な女性がいるという部分を抜かせばやはり隠れた名店に違いないというくらいに酒が揃っている。
地酒の種類は勿論、マスターオリジナルのカクテルなどは別格といって良いだろう。
普通であれば絶対に寄り付かない類の店に、ツォンのような真面目な男が通うようになったのは、ある一つの“事件”が契機だった。
それは今でも心に痛い事件で、思い出すたびに抉られるような気分になる。
本当はその事件についてじっくりと向き合わねばならないと分かっているツォンだったが、ここ最近はそれがやけに辛く感じられ、つい酒に逃げてしまう。
幸いCLUB ROSEには、そのような煩わしい思いをかき消してくれるだけの素晴らしい酒がある。
「ねえ。ツォン、知ってる?」
「何だ」
隣を陣取っている若い女性に目を向け、ツォンはそう問う。
女性は綺麗なブロンドヘアを長く伸ばしており、酷く華奢な肩を大胆なカットの服で晒していた。ぱっちりとした大きな目はいつも潤みがちで、大抵の男であればその瞳にころりと落ちてしまうだろうというほどだ。
男心をくすぐるという表現が似合う、守ってあげたくなるタイプの女性。初めて来店した際に聞いたことによれば、彼女はこの店の一番人気なのだという。
名前は、マリア。
勿論それは源氏名だが、妙にその名前がしっくりと来る。
「貴方の飲んでるそのカクテルね、StolenHeartっていうの」
「そうか…意味深だな」
「でしょう?」
クスクスと笑ってそう言ったマリアは、ツォンとはまるで違うカクテルを口にしていた。
それは以前にツォンも口にしたことがある、確か“HELP ME”という面白い名称のカクテルである。これもマスターオリジナルのカクテルで、結構に強いアルコールを割ったものだ。
「ねえ。ツォンは誰かの心を奪いたいと思ったことがある?」
「え…?」
ふいにそう聞かれ、ツォンは思わず手を止める。
「その人がその人じゃなくなっちゃうほど、その人の心を盗めたら…多分すごく幸せだよね。そう思わない?」
マリアは無邪気な顔でそう問い、ツォンを返答に詰まらせた。
まあ女性であればそのような思考になるのかもしれないが、男のツォンにとってそれは直ぐには答えがたい質問である。
確かに、愛する人の全てを欲しいと思うのは仕方がない。
何度も抱き合って何度も愛を確かめ合って、その人の全てを欲しいと願う。それは男だとか女だとかの垣根を越えて存在する、人間としての性ともいえるかもしれない。
ただ、人によってその差があるというだけで、きっと心のどこかで人間は支配欲を燻らせているのだ。
だから、きっと答えは“YES”。
しかしその“YES”という端的な言葉をツォンが口に出来ないのは、それがあまりにも痛いものを思い起こさせるからだった。
例えば今こうしてCLUB ROSEで酒を煽っていること自体、ツォンにとっては痛いに属することだったのである。
だって、此処は単なる逃げ場所で、このカクテルとて単なる逃避アイテムなのだ。
StolenHeart――――そう、奪われた心は、自分のものかもしれない。
自分自身の陰りに囚われた、自分自身の心。
「だけど何でかなあ。どんなに相手の心を盗んでも、私の心は空っぽなの。だから私はいつもこれを飲むのかもね」
笑ったマリアの手に握られていたのは、紛れもなく…。
「“HELP ME”…か」
――――――“私を、助けて”。
どれほど欲しいものを手に入れても満たされることのない心の叫び、それが彼女の手の中にはある。
あれほど華奢な肩にさえ重々しい何かがのしかかっているのかと思うと、ツォンは心苦しくならざるを得なかった。
尤も、それはよくよく考えれば華奢な肩のせいなどではなかったかもしれない。それはただ、己の中にある重々しいものを彼女に重ねていただけかもしれない。
「ねえ…どうしたら心が満杯になるのかな」
「さあ、どうだろうな。その前に、何故満たされないのかを考えるべきかもしれない」
「空っぽな理由?」
「そうだ」
ツォンは一つ頷くと、StolenHeartをゆっくりと口に運ぶ。
胃の中に流れれば流れるほど中枢神経は麻痺し、脳という名の心が段々と奪われる。正にそのカクテルの名に相応しく。
そんなふうに麻痺していく中で、可憐なマリアの声がそっと響いた。
「そんなの知ってるよ。だってね、どんなに心を盗んでも…それは愛じゃないから。盗んだだけじゃダメなの。愛されないと」
「なるほど。そこまで分かっているなら良いじゃないか」
「良くないよ!」
間髪いれずに発せられたその言葉に思わずツォンは隣を見遣る。すると、マリアは少し悲しそうな顔をしていた。
一瞬、その悲しそうな顔が誰かと重なる。
ああ――――どうか…そんな悲しそうな顔は、しないで。
自分まで苦しくなる。
息が出来なくて、呼吸困難に陥って、尚更心が奪われてしまう。
それではいけないのに、ちゃんと向き合って答えを出さねばならないのに、そう出来なくなってしまう。そんな顔をされたら、そんな顔をさせた自分を責める他なくなってしまうのだから。
ふと、手から力が抜けた。
それと同時にグラスがガシャン、とテーブルに落ちる。
StolenHeartはとぽとぽとテーブルの上に広がっていき、やがてぽたぽたと一滴づつ床へと零れ落ちていく。
「…だったら教えてくれ。盗み損ねた心を、愛し損ねた自分を、どうやったら満たせるのか――――教えてくれ」
ツォンの手は、StolenHeartではなくマリアの華奢な肩を抱きしめていた。
ただ、強く。
どれほど重ねた愛の言葉も、
どれほど重ねた熱い体も、
たった一つの間違った選択の前には陽炎と化してしまう。
幸せというものは、どこから作られて、どこまで続くのだろう。
それは目に見えなくて、気付かないうちに指の先から零れ落ちてしまう。
求めれば求めるほど遠ざかっていく“幸せ”。
心から愛の言葉を囁けた時は、
心から熱い体を重ねられた時は、
その“幸せ”が未来永劫続くものだと――――そう、信じていた。
閉店間際のCLUB ROSEには、マリアの姿は無かった。そこにあったのはマスターと二人の女性だけで、他は既に退勤してしまっている。
マスターと女性二人はCLOSE作業の為に何やら忙しそうに立ち回っていたが、そうする間も女性二人は世間話に話を咲かせていた。
「ねーえ、最近のマリアどう思うー?」
「あーマリアねえ。あの子、最近あのツォンって客にべったりだもんねえ。よっぽど惚れてるのよ、あれは」
「惚れてるって今更でしょ。だーってもう何度目?マリアったらもう五回は仕事中に抜けてるしねー」
彼女らの話題の中心は、CLUB ROSEの一番人気を誇るマリアだった。
マリアは贔屓の顧客を多く持っているが、最近どうやら一番のお気に入りが出来たらしく、かねてからの顧客をそっちのけでそのお気に入りとべったりしているのである。
彼女らは別段それを悪く思うわけではない、単にそれが羨ましく思えるのだ。
どれほど自分に入れあげる客が多くいても、それらは所詮イリュージョンに過ぎない。まるで夏の花火のようにそれは儚く、仮に愛の言葉を囁かれたとしてもいつかは消えてしまうと明瞭に理解できる程度のものである。
それも職業病かもしれないと彼女らは笑うが、それでも最近のマリアはその職業病に当てはまらぬものを醸し出しているから、それが羨ましく思えるのである。
まるで、イリュージョンではなく本物を見つけたかのように見えたから。
「あのツォンって客、一体何者なんだろーね。確かに見た目は良い男だけど」
「ああ、あの人ね。神羅の人らしいよ」
「うそっ!」
「ホントホント。マリアがそう言ってたんだから確実。多分結構上の人なんじゃない、あの様子だと。マリアも抜け目ないよねえ」
「ねー」
お喋りに夢中になる二人に、コップをきゅきゅっと磨いていたマスターが口を挟む。元々優しい人間だからか、はたまた優柔不断だからかは分からないが、ともかくもマスターは怒ることをせずに彼女らを嗜める。
「コラコラ、人様の事情にあんまり首を突っ込んじゃいけないよ。あのお客さんだって何か訳があるんだろうし」
訳アリなんて更に素敵じゃない、と女性の一人が言う。
それに対して苦笑したマスターは、そういうのは当人じゃないと分からないものだよ、と真っ当なことを口にした。
「まあそうだけどー。でも…神羅っていったらやっぱりあの副社長よね。まだ若いけどかなり良い男だし!あーあ、副社長も店に来てくれれば良いのにー」
「無理無理、きっと超が付くほど高級なとこに行くのよ、ああいう人は。…あ、そういえばその副社長ってさ…」
「なになにー?」
「噂だけどね、なんか本当は…」
と、そこまで会話が進んだ時である。
コップを拭き終わったマスターがパンパン、と手を叩いてにっこりと笑顔になった。
そして、優しい声でこう言う。
「はいはい、そこまで!早いとこ終わらせてゆっくり休もうね」
憎めないその笑顔に、二人はちょっと残念そうな顔をしながらも「はーい」と返事をして作業を再開させたのだった。