20:1022号室の記憶[1]
密だったスケジュールをこなして、やっと帰宅をしようと思ったのは、もう夜も11時を回ったときのことだったと思う。
社屋は既に消灯しており、タークス本部だけがぼんやりと明かりに包まれていて、それに気付いて思わず苦笑して。
“お疲れ様です”
裏口の警備の男に会釈され、同じように礼を返したツォンは、ドアの先の景色に思わず躊躇したものである。
外は、雨が降っていた。
傘が無ければとてもじゃないが歩けないくらいの強い雨で、傘を持っていなかったツォンはどうしたものかと考え込む。
天気予報では雨などとは言っていなかったし、実際、朝は晴れていた。それなのにこの荒れようはどういったことなのか。
“傘をお持ちではないのですか?”
警備の男にそう問われ、ツォンは苦笑して「そうなんだ」と返した。
ついでといっては難だが、タクシーの電話番号を知らないか、と問うてみる。すると警備の男は快い返事をし、ツォンにタクシー会社の電話番号を教えてくれた。
こんな日に限って電車で来てしまったことを、最早恨むほかない。大体いつもであれば車通勤なのに、何故か今日は電車を乗り継いで出社したのである。
運が悪いな、ツォンはそう思いながら携帯電話を取り出すと、教えてもらった番号をプッシュし始めた。
がしかし、そうしている間にふと背後で珍しい声が響き、ツォンは思わず動きを止める。
振り返ってみるとそこにはルーファウスの姿があり、どうやらルーファウスも今から帰宅という按配らしい。
ツォンが暫く止まっていると、ルーファウスはツォンの姿に気付いたらしく、ああ、ツォンか、と軽く声をかけてきた。
“今から帰りか。随分と遅いな”
“ええ、まあ。ルーファウス様こそ随分遅くまで残っておいでだったんですね”
“まあな。それよりどうした、何をこんなところで止まってるんだ”
“ああ…実は。この大雨なのに生憎と傘を持っていませんで、今からタクシーをと”
“へえ…”
ルーファウスはツォンの言葉で外が物凄い有様であることを知ったらしく、少し考えるようにして顎に手を当てたりする。そしてその後、ふと思いついたようにツォンに呼びかけた。
“良ければ、一緒に乗っていくか?”
“え…?タクシーですか?”
“違う。運転手を控えさせてあるんだ。それで良ければ一緒に帰ろう”
“良…いんですか、でも…”
“大丈夫だ。問題ない。そうと決まったら行くぞ”
ルーファウスは強引にその話を進めると、待たせてあるという運転手の元にツォンを連れていった。
運転手のもとに向かう間、若干外を通らねばならなかった。
その時ばかりはさすがに雨の恩恵を身に受けることになったが、それでもツォンにしてみればそのルーファウスの提案はありがたいものだったろう。
待たせてあったという車の後部座席に乗り込むと、ルーファウスは手短に運転手に事情を伝える。
どうやらツォンの自宅まで先に行くらしく、運転手から自宅の場所を聞かれたツォンは慌ててそれに返答した。
どこを進んでどこで曲がって、という的確な返答はツォンがいつも運転をしているからこそ出来るもので、いつも自分では運転をしないらしいルーファウスは隣でやけに感心していた。
車が滑り出すと、そのスピードに比例して窓を打ち付ける雨の音はどんどんと強くなっていき、景色はまるで見えなくなっていった。そのおかげで外に目をやることもできず、結果、車内に焦点を当てるしかなくなる。
隣にはルーファウスがいるのだから、話の一つでもしなくては。
こういう時は部下が気をきかせるものだろう。
そう思ってツォンが無難な仕事の話題を出すと、ルーファウスは何の感慨もないように気の無い返事をしたものである。その様子からすれば、どうやらこの話題は面白くないことが分かる。気を利かせたつもりが逆効果になってしまったらしい。
だったら、どんな話題を出せばよいだろうか。
何か無難な、無難な話題―――。
そう思ってツォンが思考を巡らせていると、ふと、ルーファウスが口を開いた。
“別に気にしなくても良いぞ、私のことは”
ルーファウスはそう言ったぎり口を閉ざすと、景色すら見えない窓ガラスにそっと目を向けたりする。
その様子を見たツォンは、自分は完全に拒否されているのだと思った。まあ拒否といってもそれほど深い意味はない、何せ仕事上では付き合いもあるのだし、これは単にそれほど親しくないからそうするのだろう。
そんなふうに思いながら続いた沈黙は、実に長い。
もうそろそろ着くだろうかと思って何度か腕時計に目を落としたツォンだが、思ったよりも時間は経っておらず、どうやら自宅に着くまではまだまだありそうだった。
そんなふうに長く感じられる時間を過ごしていたときのことである。
運転手が急ブレーキを踏んだ。
“なんだ!?”
さすがのルーファウスもそれには顔を上げ、運転手に何が起こったのかと詰め寄る。すると運転手は、酷く困った様子で急ブレーキの理由を口にした。
“土砂崩れで道が塞がれてます。これは思ったより酷い雨ですよ”
“土砂崩れ!?…って、じゃあどうするんだ”
ルーファウスの言葉に運転手は更に困ったような表情を浮かべ、このままでは自宅まではお送りすることができません、と絶望的な言葉を口にする。
運転手によると、かなり遠回りをすればルーファウスの自宅には到着するらしい。がしかし、ツォンの自宅まではこの道を通るほかない。
そんな状況に立たされ、ルーファウスはツォンを見やった。そして、ルーファウスはまたもやツォンに提案をする。
その提案とは、神羅に戻って夜を過ごすか、若しくはどこかのホテルに泊まるか、という二者択一だった。しかもその提案は、何故か“私たち”という複数形でやってくる。
ルーファウスの場合は遠回りさえすれば自宅に帰れるのだから、何故その選択肢の中にそれがないのだかツォンには酷く疑問だった。
しかしルーファウスの提案にそんな言葉を返すわけにもいかず、結局ツォンはどこかのホテルにでも、という答えを出した。
運転手が運んでくれたのは、HOTEL VERRYという高級なホテルだった。
いつもビジネスホテルに泊まるツォンとしては、連れてこられたホテルが此処であったことに苦笑してしまう。
まあルーファウスお抱えの運転手なのだからそれも当然だろうか、きっとルーファウスはいつもこういう場所に泊まるのに違いない。
フロントで受付をすると、ホテルマンが申し訳なさそうにこんなことを言ってきた。
“大変申し訳ありません。本日は混みあっておりまして、生憎お部屋が1つしか…”
ホテルマンが言うことによれば、この大雨のせいで急遽チェックインする客が多いのだという。そのおかげでかなりの階数があるこのホテルがほぼ満室という状態である。
仕方がないから一緒の部屋に泊まろうと言われ、ツォンはとりあえずそれに了承した。上司と同じ部屋で寝泊りというのも何だか妙だが、まあ今日の状況では仕方がない。
”では、ごゆっくりどうぞ”
笑顔のホテルマンから手渡されたキーには、「1022号室」と書かれていた。