05:情欲
「私はもう、貴方を失望させたくはありません」
「ツォン…」
「約束したのを覚えていますか。貴方の、膝を抱えるあの癖…私が解いてみせますと言った…あの約束を」
「…ああ」
そうだ、そう約束をした。
身を守るように蹲る、膝を抱えるあの癖。
ルーファウスは、ツォンと懇意になって抱き合うようになってからも、あの癖を辞められなかった。
子供じみているあんな癖をツォンの前では晒したくないと思っていたが、どうしてもベットの中であの癖が出てしまい、仕方がないから苦し紛れに告白したのである。
これは昔からの癖なんだ、と。
辞められないんだ、と。
ルーファウスがその告白をすると、ツォンは言ったものだ。ならばその癖を私が解いてみせますよ、と。
膝を抱えて蹲るのは、自分の身を周囲の危険から守るための行為。無意識にも周囲に壁を作り心の中には踏み込ませまいとする、そんな行為。その行為が止められないのは、未だに他人を信用できず、自分を防御している証拠である。
だからこそツォンは約束したのだ、自分がそれを解こう、と。
たった一人でも良いからルーファウスを理解し、守り、心の底から愛していたならば、防壁などは必要がなくなるはずである。
辛いのであれば助けを求めればよいし、寂しいのならば抱き合えば良い。
そういうふうに出来る場所―――そういうものに自分自身が成るからと、決して居なくなったりはしないからと、ずっと一緒にいるからと、ツォンはそう約束したのである。
その約束は、ルーファウスにとって一番の喜びに違いなかった。
ずっと昔から続いてきた未だに消せない壁を、消してくれると言ったから。
「勿論、覚えてる」
そう答えながらも、ルーファウスの脳裏にはあの1022号室がうっすらと浮かび上がった。
レノと抱き合った後、自分はやはり膝を抱えていたと思う。
確かに約束はしたけれど、防壁は未だに解けてはいないという証拠だろう。
「あの約束は、守ります。貴方は半年前のあの事を…私を許してはくれないでしょうけれど、それでも構いません。ただ、もう一度チャンスが欲しいんです」
「チャンス…か」
「そうです。だって今の貴方は、まだ私に失望しているでしょう?」
ルーファウスは答えなかった。
その態度を肯定と受け取ったのか、ツォンはそのまま話を続ける。
「私は貴方の信頼を取り戻したい。貴方を――――…愛しているから」
その言葉を受けて、ルーファウスはそっと目を伏せた。
それはツォンの言葉を否定する意味ではない、その言葉が胸に痛かったからである。
ツォンがそういうふうに言ってくれることはルーファウスにとって間違いなく幸せなことだった。
だって、愛している。
それだからこそ裏切りに似たあの出来事に寂しさを覚えたのだし、許せないと思ったのだ。もし愛していなかったらそんなことすらどうでも良かったはずである。
しかし今その言葉を受けるには、ルーファウスにも少々後ろ暗い部分が存在していた。
それはあの、甘ったるい匂いのする1022号室。
まさかあの部屋のことだけは―――――絶対に口に出せない。
例えそれが、ツォンの裏切りを受けたからこそ始まったものであっても。
「…ありがとう、ツォン」
複雑な気持ちが絡み合いつつも結局そんな言葉を吐いたルーファウスは、ツォンの顔を見、少しだけ笑った。
その笑顔の先には、やはり同じように微笑んでいるツォンの姿がある。
その微笑みはまだ少し“未完成”だったが、今はそれでも良いように思えた。いつか完成された微笑になれば、それで良いのだから。
「ルーファウス様、少し…良いですか?」
「え?」
ふと切り出されたその言葉に、ルーファウスは首を傾げる。
そうした瞬間にツォンがすっと席を立ち、ルーファウスの真脇にやってきた。一体何かと思いながらツォンをじっと見やったルーファウスは、やがて降りてきた黒い髪に思わずハッと目を見開く。
視界いっぱいに入り込んだのは、愛する人の顔。
唇に触れるこの熱は、確かに愛する人の熱。
「んっ…」
うっすらと開かれた瞼の下に潜んだ漆黒の瞳がルーファウスの心を捉え、まるで金縛りにあったかのように雁字搦めにする。
ずっと見慣れてきたはずのその瞳に何故これほど囚われるのか、ルーファウスには良く分からない。
しかしそれは、とにかくルーファウスの鼓動を早くさせた。
久々のキスだからといえばそれまでだが、きっとそれだけじゃない何かがある気がする。その瞳にはきっと何か力があるのだろう、ルーファウスには良く分からない力が。
愛しい。
欲しい。
誰にも渡したくない。
ああ―――――そうだ、これはきっと…
ただの愛しさというよりも、この感情は情欲に似ている。
ただその瞳を見ただけで、唇に触れただけで、そんなふうに思うのはおかしいことかもしれないが、それでもそれは正直な気持ちである。
「…っ!」
そう思った瞬間、どうしようもない欲求が溢れ出し、ルーファウスは力の限りにツォンを抱き寄せた。
少し屈んだ体勢でルーファウスにキスを落としていたツォンは、引き寄せられるままにルーファウスの身に倒れこむ。
咄嗟にテーブルに手をついたおかげで完全に体重を任せるのは免れたが、それでも充分体は重なり合っている状態である。
「んっ、っ…つ!」
流れ落ちる髪をぐっと掴み、深く深く舌を絡めあう。
先ほどまで口にしていたアルコールの味がじんわりと広がり、その冷たさが返って体温の暖かさを浮き彫りにさせていく。
何なのだろうか、このどうしようもない気持ちは。
どうしようもなく欲しいと思う、この感情は。
まるで感情の海に溺れていくような感覚―――――。
「ルーファウス様…」
名残惜しそうな表情を浮かべながらもルーファウスを引き離したツォンは、それでもまだ至近距離であるそこで吐息混じりに誘いの言葉を囁く。
「VERRY…行きますか」
「…!」
―――――――“HOTEL VERRY”。
ドクン、と、心臓が鳴る。
「1022号室…今日のような日はあの思い出の場所で…貴方を抱きたい」
―――――――“思い出の場所”、“1022号室”。
ドクン、と、心臓が鳴る。
「あの部屋は、初めて貴方と抱き合った場所だから…」
―――――――“初めて抱き合った場所”。
ドクン、と、心臓が鳴る。
“1と2がお気に入りか?いつもこの部屋だろ”
“別に。意味なんか無い”
“へえ、偶然にしちゃすごいな。毎度此処だからいい加減覚えたけど”
あの甘ったるい匂いが。
どこまでも堕ちていけそうな、あの匂いが。
染み付いて離れないあの匂いが、1022号室には…―――――、
“副社長、知ってる?ツォンさんって怒るとすごく怖いんだぜ”
“普段優しい人って怒ると怖いって言うけど、あれホントだな”
ついてしまっているじゃないか…―――――。
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