48:死角がもたらした密談
好都合な席があってよかった、そうレノは口にした。
普通の客とはまるで違う雰囲気を醸し出しているレノは、マリアにとって不思議な存在であり、そして恐怖の対象でもある。
一体こんな席にやってきて何を話すというのだろうか、そればかりが巡る。
その謎に対して答えが出されたのは、そう思ったすぐ後のことだった。
「噂通りの別嬪さんで正直驚いたな。ツォンさんもなかなかのやり手ってわけだ」
「―――ツォンの…事なの?」
「そ。ツォンさんの事」
レノはそう言うと、俺はレノっていって、ツォンさんは俺の直属の上司なんだ、とマリアに告げる。
そう言われてみれば確かにツォンの着ているスーツと同じものを着用しているとマリアはそこにきてやっと気付く。
「あんたさ。ツォンさんのガキ、産むんだって?」
「え…?」
「ツォンさんに言われたんだよ。ガキ出来たから身を固める、ってな」
「そ…うなんだ」
そういえば数時間前に、確かそんなことをツォンも言っていたか。
「で、あんたはどう思ってんの。そういうことについてさ」
「どうって…」
まさか、本音をこの男に告げても意味などないだろう。
子供が出来たことについて思うことは沢山ある。山ほどある。
しかしそれを、ツォンの部下だというだけの見ず知らずのこの男に話したところで、それが何になるというのだろう。
マリアの中で、レノはまだ“部外者”だった。
「あんたの腹ん中にガキが出来たことで確実にどっかの誰かが傷ついてんだよ。あんた、本当はそれ分かってんだろ。生憎と俺は、ガキには無意味に甘くなる世の中の馬鹿大人共とは違うんだよ。だから、ガキが出来ました、良かったね、目出度いね、ってなふうには思わないわけだ」
「…何が言いたいの?」
マリアにとっても、確かに子供の存在は目出度いの一言で終われるようなものではない。
自分がそうであったように、生まれてきてもそれが本当に幸せかどうかなど分かりもしない。また、それを決めるのも感ずるのも親ではなく子供の方である。
しかし、部外者でしかないレノにそんなふうに言われるのは何だか釈然としなかった。
レノは、はっ、と笑う。
「何が、って?そんなの…分かってりゃ俺だってこんなトコ来るかよ!」
レノはガン、と膝に拳を打ちつけた。俯いたその表情は酷くきついものになっている。
その様子に一瞬身体を強張らせたマリアは、部外者だと思っていたレノが、どうやら“関係者”であることを悟った。
何がどう関係あるのかは良くわからない、しかしこれほどの感情をあらわにするということは確実に何か関係しているとしか思えない。
しかし関係者は関係者でも、レノはマリアの味方ではなかった。
「目的はある。目的はあんただ。あんたと話さないことには収まらないと思ったんだよ、俺は。けど何を話したって結果は同じだろ。何かが変わるわけでもないだろうが」
あんたはツォンさんのガキを産む。
あんたはツォンさんと一緒んなる。
そしてあの人は残される。
俺は―――――――、
そこまで言ってレノは、すっと顔を上げた。そして、マリアを見据える。
「さっき、副社長と会っただろ。あんた、知ってたか?」
レノはそこで一旦区切ると、少し悲しそうな顔をした。
「ツォンさん、ずっとあの副社長と好き合ってたんだ」
「な…っ」
まさか―――――あの人と?
マリアは驚きを隠せないように声を上げる。
ツォンに相手がいることは知っていたけれど、その相手がどんな人なのかなど知らなかった。知ろうともしなかった。
しかしそれでも普通に描いていたのはどこかの女性のイメージで、まさかレノが言ったような真実があるとは思ってもみなかったのである。
しかも、副社長といえば例の―――――。
「こういう世界にいるならあんたも分かるだろ、そういうの。男だの女だのなんてレベルで驚かないでくれよな。…あの副社長は寂しがりやのくせに勇気がなくって、多分あんたの顔すら知らないんじゃないかって思った。良いだろ、一度くらい会ったって」
「…そう、だね」
マリアの脳裏には、先ほどのツォンの姿が蘇っていた。
家を出る寸前、ツォンは泣いていた。自分の身体を気遣いながらも、最後には言葉を失って泣いていたのである。
あの涙は、本当に愛している人の為に流れ出たものだった。つまりそれは、あの副社長への涙だったということである。
あんなふうに涙を見せるほど、ツォンはあの副社長の事が好きだったのだ。
そんなこと、今まで考えてもみなかった。いつもSOSを出せば必ず傍に来てくれたツォンは、つまりいつもあの副社長を振り切って来てくれていたということなのだろう。
それらの事が、あの副社長の心にはどんなふうに映し出されていたのか。
マリアにとってルーファウスはまるで知らない人だったが、何故だかあの人なら酷く辛い思いをするのじゃないかと思えて仕方なかった。
それはもしかすると、ツォンが言っていた代償行為に関係することなのかもしれない。
ツォンと初めて会ったあの時、ツォンは自分を助けてくれた。
しかしそれこそが代償行為だったのである。
つまりそれは―――――本当に助けたかったのは、自分ではなく…。
「俺は」
レノはそう切り出すと、
「あんたも、ツォンさんも、許せない」
そんなふうに言った。
これはただの我侭だと分かっていても、やっぱりそれでも許せない、とレノはそう言う。
「あんたとツォンさんがこれから家族んなって問題なくやっていったとしても、絶対忘れるなよな。誰かを傷つけたからこそそういうもんが成り立ったんだってこと」
「―――――ごめんなさい」
「俺に謝んなよ。謝んなら副社長に謝ってくれよ」
「でも、違うの…私もツォンも、本当は違うんだよ。レノ…っていったよね。貴方、きっとすごく怒ると思うけど、私とツォンは…」
本当は違うの、マリアはその言葉を繰り返す。
しかしその言葉の意味は、レノには良く分からなかった。
違うというのは何がどう違うのか、それが分からない。そもそも何を元として、何と比較して、違うという言葉を使うのか。
マリアは胸元に手をやると、その手をギュッと握り締める。
「―――――好き合っているわけじゃ…ないんだ。最初から、出会ったときから、そうだった。好きとか、そんな感情なんかで繋がっていたわけじゃ…なかった。それは今でも変わらない。…私とツォンはお互いそれを知ってるんだよ」
「…なに」
ピクリ、と反応してそう声を出したレノの表情は、マリアには見えていない。
マリアの視線は今や何もないテーブルの上にあり、そこを見つめることは何かを拒否しているかのように感じられる。
「あるでしょ…レノ、貴方だって。別に何でもなかったのに、ちょっとしたキッカケが繋がりみたいなものを作っちゃうの。セックスもそう、ちゃんと話したりすることだってそう、それがお互い弱みになるみたいに」
「………」
―――――ちょっとしたキッカケが、弱みみたいに。
セックスもそう、ちゃんと話したりすることだって―――――、そう。
レノはHOTEL VERRYの1022号室を思い出した。
初めてあそこに呼び出されたとき、それからそれに付き合うようになった頃、それらはいつも感情など伴ってはいなかった。自分はいつでも止められる、それが口癖のようになっていて。
だけれどそれが“キッカケ”で、それは“弱み”に…なったのだろうか。
「許して欲しいなんて思ってない。私はツォンに好きな人がいると知っていても、いつでも私を助けて欲しいと思ってた。私はね、ツォンのことを好きなんてもんじゃない、ツォンの事よりも自分の事の方が大事だった。自分のことでいっぱいいっぱいだったんだよ」
誰かが傷付くことよりも、自分が傷付くことのほうが怖い。
誰かの幸せを願うことよりも、自分の幸せを願うことの方が強い。
ドラマの中の世界じゃないのだ、此処は。
「でも…本当は誰だって皆そうなんじゃないかな」
本当は誰しもがその罪業ともいうべきものを背負っている。
例えば、そう―――――…、
向き合わねばならない人と向き合うことが怖くて代償行為をしたツォン。
HOTEL VERRYにレノを呼び出したルーファウス。
そして今此処にルーファウスを連れてきたレノ。
誰しもが、自分自身にいっぱいいっぱいで。