15:エリートとロクデナシ
やがて二人は、一緒に暮らすようになった。
しかし何故か男は、入籍を拒んだ。
その事実はマリアの母を悲しませたが、それでも良いと彼女は頷いたものである。どうせ過去に拒否されているのだ、今更そんなものは痛くも痒くもない。
けれど、痛いことが皆無かといえばそうでもなかった。
その複雑な家庭には、子供が三人いる。
長男、次男、長女。
長男は、エリートだった夫と見識高い家柄の妻がエリートとして育て上げた、見るからにスマートなタイプの人間である。
次男は、元妻が浮気の末に作った子供で、現状の家庭からすれば“誰にも似ていない”、あまりにも破天荒な人間だった。
そして長女マリアは、確かにあったはずの愛が崩れ去っていく様子をまざまざと見せ付けられて育った、萎縮した人間だった。
マリアの“両親”は、長男にばかり目をかけた。
両親にとってどうでも良かった次男は家庭を嫌い、母親の愛は微かに感じていたもののその母親が夫に縋るばかりなのを目の当たりにし続けたマリアもやはり家庭を好きになれず、兄弟であるはずの三人はまるでちぐはぐだった。
マリアには、母親が良く分からなくなっていたものである。
本当の父親は少なくとも自分にはとても優しかったし、愛してくれた。母親に対しては怒鳴ることもあったが、マリアにとっては良い父親だった。
それなのに、本当の父親には悲しい顔ばかりして、偽者の父親には笑顔をぶりまいている…そんな母親が理解できない。その行動は、間接的に自分を拒否しているようにマリアには感じられた。
両親が可愛がっているのは長男だけ。
長男は優しい人間だったがエリート志向で時々妙に見下されているように感じることがマリアにはあった。だから、長男のことは大好きだったが、どこか怖いような気もしていたのだ。
それに引き換え、次男は気が知れていて、一緒にいると楽しくなれる。
エリート志向を貫いている家の中は堅苦しくて窮屈だったが、次男は外の世界から破天荒なものを取り入れてくる。知らない世界を教えてくれる。そういうことが、マリアにとってはとても楽しく感じられたのだ。
しかしそれが――――こんな結果になるなんて、思ってもみなかった。
「そういやマリア。お前最近、惚れてる男がいるんだって?」
ふとそう問われ、マリアははっと我に返った。
気付けばいつの間にかグラスの中の酒を随分と消費していたらしく、もう既に底すれすれになっている。
「しかもその男、エリートだって噂じゃん?全く懲りないね、お前も。そんなにエリートが良いわけ?昔と一緒だな」
「…違うわ」
精一杯否定したつもりだったが、どうやらその言葉はそれほど強い力は持っていなかったらしい。精一杯のつもりが何故だか余韻さえも残らない。
男は、マリアの拒否の言葉を聞いて噴出した。
「違うって、どこがー?お前、兄貴のこと好きだったじゃん。エリートのあの兄貴のことをさ。今度の相手もそういう奴なんだろ?礼儀正しくて道は外しませんってな具合のさ」
まあ俺もその気持ちは分からないでもないけどさ、と男は適当な口調で続ける。
「俺達には一生縁のない肩書きだもんなー。そういう奴といれば、自分まで思わずエリート気分が味わえるってのは分かるぜ。なんせ俺たちはロクデナシだし」
「一緒にしないで」
「は?一緒にしないで、って?」
男は一瞬呆気に取られると、その後すぐにどっと笑い出した。その笑い声が店内に大きく響き、CLUB ROSEの注目を買う。
それに気付いて慌てて男を止めたマリアは、少し怖い顔で「やめてよ」と制裁の言葉を口にした。
此処は勤務場所だしマリアのおかげで此処に入れているようなものなのだから、少しくらいは遠慮してもらいたいというのがマリアの本音である。
男はごめんごめんと謝ったものの、それは口上のみで、表情は可笑しそうに歪んでいた。
「だけどマリア、忘れんなよ。例えロクデナシだろうとお前がこうして無事にやっていけてんのは俺のおかげだって事をな。お前に生きる術を教えてやったのは俺なんだぜ」
「……」
男はグラスを高く掲げ、
「酒も、セックスも、な」
そんなふうに口にする。
確かに、そう――――彼の言うことは間違ってはいない。
初めて酒を運んできたのも彼だったし、初めてセックスした相手も…彼だった。家族という組織の上では兄である彼が、マリアにその行為を教えたのである。
どうせ血なんか繋がってないんだから問題ないと言われて、そんなものかと納得したあの頃が恨めしい。けれど結局その行為を繰り返すうちに、何もかもを失ってしまった。
そう、密かに好きだった長男も、そして求めていた母親の愛も…全て。
間違った選択をしすぎたのだ、きっと。
あの日、ツォンがそう言っていたように、きっと自分も。
「たまには俺にもやらせろよ、どうせ血なんか繋がっちゃいないんだし。生憎俺らは、ロクデナシでも見てくれには恵まれてるんだからさ。妹っつってもお前だったら勃つし」
「そういう話題はやめて…!」
「何で?…あーそっか、例のエリートか。そいつに操を立てたいから俺とはやりたくないってわけか。ったく、女ってめんどくせーな。相手の男なんかどうせ挿れまくってんぜ?」
「そんなことない!あの人は…そんなことないよ!」
カウンターの一点を見つめながらそう声を荒げたマリアに、男はヒューと口笛を吹く。
どこまでも馬鹿にしているとしか思えないが、それでも完全に振り切れない。それはこの男が先ほど口にしたように、マリアが生きる術をこの男から教わったからなのだろう。
どんなスレスレの生き方であっても、何かが無ければそのスレスレすら保てない。生きられない。
例えばあの薬もそう、どんなに副作用が強くて死に至る危険性があったとしても、それを飲まずには安心して息すらできない。
どちらにしろ死を連想させるのであれば、せめてもの安心を優先してしまうのはきっと罪ではないだろう。
「随分ご執心なことで。結局、お前も母親と同じ血のメスってわけね」
「…!」
瞬間、マリアは目を見開いた。
男が言わんとしている意味が分かったからである。
しかし男はその話題を続けず、その代わりに“仕事”の話をし始めた。
「ま、良いや。それより最近デカイ山が飛び込んできたんだぜ。当たればデカイ、でもリスクもデカイ。聴いて驚けよ、相手はあの“神羅”だ」
「え…」
意気揚々と語る男の隣で、マリアは一瞬グラスを落としそうになる。ギリギリのところで何とか受け止めたものの、一瞬の内に早まった鼓動はまるで止まる気配がない。
まさか、よりにもよって神羅なんて――――!
「悪徳商法もここまでくりゃ立派だろ?これで成功すればこっちは大儲けだ」
男の流れるような言葉を耳にしながら、マリアは恐怖心を隠しきれずに僅かに震えた。
神羅は、ツォンが働いている企業である。
そうでなくとも神羅といえば大企業だし知らない人間などいない、だからこそ男は「エリート」という言葉を使ったのだ。
それほどの大企業が小手先の悪徳商法に引っかかるとは思えないが、それでもマリアは恐怖を感じてしまう。
兄であるこの男はいつからか悪に手を染め、詐欺や違法行為を続けているのだが、その組織は今までそれほど失敗がないらしい。
というのも、彼らは人の心を惑わせて事を運んでいるのだ。例えば先ほど男が自然と口にしたような、マリアの心を抉るような、そんなやり口をしているのである。
それは人の心を利用した、何とも悪どいやり口に違いない。
しかしそれによって収入や生きる保証を得ている彼ら組織に、マリアは辛らつな言葉など吐けるはずもなかった。
そういうやり口に手を染めた彼に生き方を教わったこともその理由だし、何よりもまずそういう彼らに同情せざるを得ないからである。
100%同じでないにしても、生きる糧としてそれらを身につけた彼らを、どうして責めることなどできようか。自分とて同じようなものなのに。
彼らにとってそれは今や、本領発揮できる唯一の場所となっているのに。
「ねえ…それ、どういう内容なの?」
マリアは恐る恐るそう問う。
しかし男は、それは言えないと口を閉ざし、その内容はさっぱり分からない。ただ、男の口にした言葉の一端が、マリアの脳裏にこびりついた。
”御曹司から切り崩していかないとな”―――その一言が。
「まあ俺は俺でよろしくやってるわ。薬の催促ん時はまた連絡くれよ」
男は自分から出した話題をすっぱり切ると、髪をかきあげてザッと立ち上がった。そして、マリアの頬に軽いキスをすると、
「未来のセレブに期待してるぜ」
そう言う。
その言葉を聞いたとき、マリアは絶望の淵に落とされたような気分に陥った。