その夜、ツォンと会った。
場所は近場の高層ホテル。
もちろん秘密裏に待ち合わせての逢引。
時刻は午後11時。
ツォンの相手は今頃、ツォンの帰りを待ちわびていることだろう。その男が家にも帰らずに向かっている場所が高層ホテルとなれば、これは少し残酷だが笑える話でもある。
伝えた通りの部屋にツォンがやってきた時、言葉を放つ前にまずその身体に手を伸ばした。待たせた、だとか、そんなありきたりな言葉などいらない。だから言葉の前にまずはそうする。
この男特有の長い黒い髪を指で弄びながら首筋に口付けて、きつく締められたタイを緩める。
この独特の雰囲気に入ってしまえばもう余計な言葉は言えなくなる。だからまずツォンが放った言葉はこれだった。
「シャワーを?」
グランドメニューでは、まずシャワーを浴びてから食事をするようになっている。食事をしたらまたシャワー。この食後のシャワーは例によってツォンが欲しがるデザートみたいなものだから俺には関係ない。
いつもならこのグランドメニューに沿うところだが、今日は首を横に振った。
「このままだ」
俺がそう答えたことによって、ツォンはやっと手を動かし始める。早速メイン料理に移行というわけだ。
整い綺麗に誂えてあるベットに雪崩れ込むと、俺は先ほど緩めたツォンのタイをまたきつく締め直した。全く逆のことをした俺に眉をひそめたツォンは、それでも何も言わずに俺のベルトを緩ませていく。
ツォンは利口だ。リーブのように甘くない。
俺の感じる一瞬の欲求を、多分この男はやや理解している。
だから回りくどい甘さを作らない。ベルトを剥いで、スラックスを下ろせばそれだけで事を済ませることができる…こんな単純でありながら誰も理解しようとしない事を良く理解できている。
「タイを締めてるお前は、そそる」
そう言ってすっと笑うと、ツォンはあからさまに嫌そうな顔をした。
「お前が私のところに来るとき…良く興奮するんだ」
「…スーツに?」
「そう。スーツに。…フェティッシュか?」
ふふ、と笑ってみる。
それは大概、異常の範疇だろうが、それでも俺には分かっている。あの興奮をくれる背中を包んでるスーツだからこそ、俺はそれに興奮を覚えるということを。
そうでなければ俺は男性社員にいちいち興奮していなくてはならなくなる。そんな馬鹿なことはない。
俺はやっと念願のツォンの背中に手を回すと、そこを満遍なく撫でた。ツォンはもう既に俺の下半身を包むものすべてを剥がして、快楽に向かうべく指を埋めている。
この背中が欲しい、この背中が。
「…今日、あの方と寝たでしょう」
ふと恍惚状態の時にそう言われ、俺は少し気分を損ねた。
「ああ。義務だから。お前たちが言うところの、な」
ことも無げにそう返すと、ツォンは少し複雑そうな顔をする。その顔の歪みが、俺の言葉に対してなのか、その事実に対してなのかは良く分からなかったが、俺は手に触れている背中だけで十分満足だった。
しかしツォンの方はどうも気分が乗らないのか、暫し複雑な顔を崩さなかった。
俺の先ほどの言葉には、一つも嘘はない。一瞬の欲求を手に入れたいと思いツォンと寝ることと対照的に、リーブと寝るのはそれが「当然」という枠で括られているからだ。
ツォンが家に帰って女を抱くのと、それは一緒だ。
「気分が殺がれたか?」
「いえ…」
「どうした?利口なお前がそんな顔を見せるものじゃない。たかだかセックスだ」
「ええ」
ツォンがそれを見抜いた理由は、既に分かっている。それはツォンが指を突き刺した時点ですぐに分かるはずだ。
社長室でのリーブとの情事で、たっぷりとソコにジェルを塗りこんでいたから、その滑りの残りで気付いたんだろう。
「…あの方とは、どういうふうに?」
ツォンがそんなことを聞くものだから、俺は思わず笑いをかみ殺した。どういうふうに、だなんて、そんなものに興味があるのか。
「アイツのやり方を教えて欲しいか?」
「単なる好奇心です」
それはそうだろう。そうでなくては困る。真剣に参考などにされたらそれこそ笑いを耐え切れなくなってしまう。
俺は、会話とはべつに続けられている愛撫に浸って目を閉じながら、事細かにリーブのやり方を教えてやった。
特にこれということもない、単に優しいやり方。甘く、回りくどい、それでも一般的には最高のやり方。
でもそれは俺好みじゃない。
「お前とは180度違う」
最後にそんな誉め言葉を添えてやると、ツォンは黙ったまま俺を見ていた。
ツォンの好奇心を満足させてやったところで、今度は俺が他愛無い質問をする。ツォンと同じようにそれは単なる好奇心であって他の何物でもない。
「お前は、お前の女をどうやって抱くんだ」
「…それを知っても何もなりませんよ」
「そんなのは知っている。どうしようとも思ってない」
事実は事実。
俺にはリーブがいて、ツォンには妻という立場の女がいる。
それでも俺とツォンは抱き合う。
ベットでのやり方が違っていたとしてもその事実は変えられないし、むしろ変わらないからこそこの状況が出来上がる。
もし俺とツォンにそれぞれ相手がおらず、それこそ普通に愛などというもので結ばれていようものなら、それもまた状況が違ってくる。
要は、この関係だからこそ出来上がるものがあるのだ。
それは俺の興奮剤であるツォンの背中も同じことで、もしもその背中が最初から俺のものとして手に入っていたなら、多分これほど欲しいとは思わなかっただろう。興奮などしなかったに違いない。
結局ツォンは最後まで俺の質問には答えなかった。
質問に答えずにただ事を進めて、終わらせようとする。そういう所で、いつでもこの男は利口だと俺は思わざるを得ない。
ベットでの全てを終わらせて、すぐさま去ろうとする。
そういうツォンの考えが、結果的に俺を興奮させる。
誰かのところに帰ろうとする背中を、俺は必死に武器を使って食い止めようとする。それでも去っていくと分かっているから更に興奮し手に入れたくなる。
俺のものではないからこそ、あの背中は、愛しい。
ツォンはきっとそれを知っているのだ。だからこの関係は実に最高なのだろうと思う。誰かの元に帰らなくてはならないから、こんな一時的な快楽は美味しい部分だけ掻い摘んで早く終わらせたいと思う。
だから絶頂だけ味わって、あとは背中を向ける。そうした早急な進行によって、俺の興奮はますます高まる。
俺もツォンも、実に満足いく状況の出来上がりというわけだ。
事が終わってから、ツォンはやはりシャワーを浴びるといって背中を向けた。
俺はその背中を見ながら”本当の絶頂”を感じ始める。
「残り香なんて誰も気にしない」
いつもの文句を武器に猫なで声でそう言うと、ツォンは俺を振り返り、複雑そうな顔を向けた。
いつものパターンだと、シャワーを浴びるのは習慣だ、という台詞が返ってくるはずだったが、その日は何故か違う言葉が返ってきた。
そのことに俺は少し驚いた。
こういう時は迷惑そうに、それでも気を遣って自分の意思を貫くのが、俺の興奮の元だというのに。
「…貴方は本当にそう思っておられるのですか?」
非難にも似たその言葉を聞いて、俺は、笑いながら「どういう意味だ」と聞く。するとツォンは、何ということか背中を反対に向けて俺の方にやってきた。
何て事だ。これでは背中が見えない。
こんなに欲しいのに。
ツォンならそれを分かってくれているものだと思っていたが、それは間違いだったろうか。
俺は心の中で早くシャワーに入れと唱えながらも、近付いてくるツォンに笑みを漏らした。
「残り香など誰も気にしないと、本当にそう思っているのですか」
「何を食い下がる必要がある。シャワーは?」
早く背を向けろ、ツォン。
そう思うのに、ツォンは俺の腕などを掴み、真面目な顔で俺の顔を覗きこんでくる。折角高まった興奮が一気に冷めていくのが勿体無くて、俺はその動作にイライラしてきた。
「あの方に抱かれた後、今度は私が同じように貴方を抱く。…さっき、私が何を思っていたか分かりますか」
「さあ、そんなことには興味が無い」
ツォンは一層力を込めて俺の腕を掴んだ。
それから、冷笑してこんなことを言った。
「―――あの方を、殺そうと…本気で考えていたんですよ」
馬鹿な、在り得ない。
俺は腹の底から沸き上がる笑いを必死で抑えた。
リーブを殺すなどナンセンスな話だ。
しかしツォンはあくまで真面目な顔で続けた。
「可笑しいですね、ルーファウス様。貴方は義務であの方と寝ると言うが、あの方は心から貴方を抱くんです。では私達は?今此処でしていた事は?そのどちらでもない」
「何を言いたいのか分からないな」
まるでニコチン切れでもしたみたいに、俺はイライラを抑えきれなくなった。あからさまに不満な顔を浮かべ、ツォンを責める。
どうでも良い、そんなことなどどうでも良いから早くシャワーを浴びろ。
背中を向けろ、この俺に。
「あの方があまりにも哀れで、殺してあげたくなったんです。義務でも愛情でもない私との夜を、貴方は楽しんでいる。だが私は違う。貴方と重ねる夜は残酷なだけだ。一体貴方は何故私を誘ったんです」
「誘いにのった方の負けだ。世の中の理屈くらい理解しろ」
誘いにのるだけの隙があったのはツォンの過失だ。そしてツォンの女の過失でもある。
もしその女がひどく魅力的であればツォンも俺についてくることなど無かっただろう。
それを今更「何故か」など、お門違いも良いところだ。
「一つ教えてあげましょう。貴方は残り香など誰も気にしないと言うが、私を待つ人はその残り香に気付きました」
「それは残念だったな」
俺はおどけた調子でそう言ってやった。
「もう一つ教えてあげましょうか。私が妻にそれを気付かれたと同じように、あの方も気付いていますよ。私達のことに」
「…それは初耳だな」
だが、問題など無い。
何しろ俺は束縛など受けていないし、そうされる権利は誰も有していない。それはリーブでも同じこと。
だから俺は、例えツォンとの関係に気付かれても、何も変化しない。
「ルーファウス様、一つご忠告を。…貴方は今、私との夜が一番心地よいはずです」
「随分な自信だな。だが間違いはない」
「しかしそれは私達が不義の関係だからこそ。…貴方はそのうち、その心地よい部分を失いますよ」
そんな事を言ってやっと腕を離したツォンを、俺は思い切り睨んだ。
それはつまり、もう関係を切り離すということなのだろうか。
そうだとすれば、それはやはり気に食わない。何しろ私を興奮させ、最大の欲求をくれるのは、あの背中だけなのだから。
「今日限りとでも言うつもりか」
俺が静かにそう問うと、ツォンはやっとシャワーに向かいながら「さあ」とだけ言った。
その後姿はいつもと違って、すっかり興奮を呼ばなかった。
きっとこんな会話をしてしまったせいだろう。
俺はツォンが憎らしく感じた。あの背中を奪う、ツォン自身に。