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10分の決断:ツォン×ルーファウス
「何でも…何でもする…だから、見捨てないで…」
まるで捨て猫みたいな表情をして、弱弱しい声をして、彼はそう言う。
一体、普段の彼からどうしてこんな姿が想像できようか。
普段とはまるで違う姿。
彼は、この世界を牛耳る会社のトップである。その立場からも、普段から自分の弱みを見せることはまず無かった。
それなのに、どうして今彼はその弱みを赤裸々に曝け出しているのか。
「ル…ファウス様…」
ツォンは、目の前で無防備に弱さをさらけだしている上司を見て、呻くようにそう呟いた。
“見捨てないで”?
そんな―――――見捨てるなんて、できるはずがない。
だって自分は部下なのだ。
それに、そもそも―――――。
貴方を見てきたつもりは、無かった。
上司だったから。
社交辞令の一つとして、社会人の付き合いとして、それをこなしてきただけだ。酒の席に誘われたり、プライベートで出かけようと言われたり、時には上下関係を逸脱した行為なのではないかと思うようなシーンに出くわしても、それでも相手は上司だからとこなしてきた。
身体を使うことなど、大したことではない。それは単なる肉体労働で、多少精神をすり減らしはしても特段己が被害被るといったほどのものではなかったから。
それなのに―――この人は。
見捨てないでくれ、というのだ。部下の自分に。
彼がそんな言葉を口にしたのは、自分が放ったほんの些細な言葉が原因だった。別に、大した言葉ではない。そう、少なくともツォンにとってはそうだった。がしかし、その何でもない一言が、眼前のルーファウスには酷く重い言葉となって響いたのだろう。
「今日はもうやめにしましょう」
なんてことはない、そんな一言。
仕事後、食事などに誘われ、レストランを出て車に乗り込み、ルーファウスがこの後はどうするのかと問うてきたから、それに返答した、その言葉だった。
言ってしまえば帰りましょう、というそれだけの内容なのだが、恐らくルーファウスはその後にまだどこかへと出向くものと思っていたのだろう。もしくは一番濃密なホテルコース、か。
しかしツォンは、ルーファウスが特別何も希望するように口に出さなかったものだから、だったらそのまま帰ろうかと、そう返答したのである。
「私は…見捨てたりなど、しません」
やっとのことでそう返す。
ハンドルを握る手に、知らず力がこもった。
この端的な言葉の中に、一体ルーファウスは何をみるだろう。
ちらりと、そんなことを思った。
貴方を見ているわけではないのだ、と、はっきりそう言ってしまえば一番明瞭で簡単なのだろうが、それを今言うのは何だか憚られた。
嘘…をついているわけではない。
言わないだけのことだ。
「じゃあ…やめにしようなんて言わないでくれ。いつものように…私に触れてくれ」
「……」
腕にかかる手をそっと握り、少し間をおいた後に、静かに口づけをする。
キスをすれば、近づいた肩を抱き寄せることになり、凭れかかった身体を抱きすくめることになる。そこまでいけばお膳立ては完璧で、やはり濃密ホテルコースとなるわけだ。
「…ルーファウス様。車を出します。…貴方の望むホテルまで」
「ああ…」
覚悟を決めてそう言うと、ルーファウスは幾分か安心したようにするり、とツォンの身体から手を離した。
エンジンをかけ、発車させる。
ルーファウスの指定のホテルまではそう遠くは無い。車で向かえば10分やそこらで着く距離だ。
その道すがら、ルーファウスは車の外を見やっていた。
自分の方を見ていなくて良かったと、ツォンは心底そう思ったものである。
そんなことをされたらば、多分、決心も鈍るというものだろう。
そう――――この10分の間に、決心を、した。
10分後、ホテルの駐車場に車を停め、フロントでサインをしてキーを受け取り、部屋のドアをあけ、上着を乱雑にベットに放りやって、その捨て猫みたいに震えた身体を抱きしめて、言おう。
そう、決めたのだ。
貴方を見てきたつもりは、無かった。
―――だから。
予定通りのシーンが展開され、ツォンはその身を強く抱きしめ、肩に顔を埋めて、言葉を放つ。くぐもるはずの声が、やけに明瞭に空気を震わせた。
「私は、絶対に貴方を見捨てたりなどしない。貴方が寂しいと言うならいつだって抱きしめます。セックスだって厭わない。そう思っているのです」
「ツォン…」
ありがとう、とルーファウスは言う。
そんなふうに感謝の言葉など述べないでほしい――ツォンは内心そう思いながらも、次の言葉を繰り出す。
これは、甘い告白などではないのだ。
真実の告白なのだ。
「ルーファウス様、貴方はさっき仰いましたね。何でもする、と。私は貴方を絶対に見捨てたりなどしない。だから、貴方にひとつだけ…お願いがあるのです」
「何だ?」
何だって、する。
ルーファウスはもう一度そう繰り返した。
ツォンはそっと目を閉じると、恐らくルーファウスにとって何よりも残酷になるであろう言葉を放った。
静かに、優しく。
けれど鋭いナイフと同じ痛みを伴って。
「―――私のことなど、絶対に愛さないで下さい」
小刻みに揺れる肩が、声にならない涙を流していることを示していた。
ルーファウスは何も言わないままである。
ただ、震えが強くなると同時に、ツォンの背に添えられていた手がぎゅっ、と強くシャツを握りしめた。だからツォンも強くその身を抱きすくめる。
10分ほどそんな時間が過ぎただろうか。
ルーファウスの口から微かな言葉が漏れた。たった一言だけ。
「…分かった」
それはか弱い口調だったが、しかしやはりくぐもってはいなかった。
ツォンがしたのと同じく、たった10分の間にルーファウスが下した、決断という名の空気の震えだったから。
END