10:帰れない夜
「……幸せ…」
そう口に出して呟いてみる。
それでもそれは単なる言葉でしかなく、まるで実感も何もない。それよりもむしろ薄っぺらい戯言のように感じられる。
幸せとは、一体何なのだろうか。
マリアが言うように、たとえ状況がどうであれ、気持ちがそこにあればそれで良いということなのだろうか。どんなに重要な時に傍にいなくても、気持ちさえあれば許されるのだろうか。
それともやはり、目に見えるように何かが起こることが幸せなのだろうか。
幸せというものは、どこから作られてどこまで続くというのだろう。
それは目に見えなくて、気付かないうちに指の先から零れ落ちてしまうことすらあるのに。
「――――…何から助けて欲しかったんだ」
ツォンはゆっくり立ち上がりながらそう口にすると、沈んだ面持ちでアルコールグラスを手にとった。そして中身を一気に飲み干すと、間髪入れずに煙草に手を伸ばす。
市販されている有名な銘柄であるその煙草は、決して甘くない匂いを漂わせていく。
すうっとのぼりたつ煙。
その向こう側で、泣き腫らした顔に無表情を貼り付けたマリアが、そっと動いた。
無表情な美人は己の胸の谷間にそっと指を差し込むと、そこからある物体を取り出す。それは小さく透明な瓶で、その瓶の中には白い錠剤が幾つか転がっていた。
一つ、二つ、三つ…残りは、瓶底が見えるほどに少ない。
それをそっと差し出したマリアの瞳には、目を見開いたツォンの姿が映し出されていた。
「ま…さか、マリア、お前…」
「―――――耐え切れなかったの」
「…!」
マリアのその一言が、ツォンの感情を一気に沸騰させた。
咥えていた煙草を灰皿に放ると、バッとマリアに腕を伸ばしその華奢な体を強く抱きしめる。
抵抗しない華奢な体は壊れてしまいそうに見えたが、マリアの表情にはどんな感情も見当たらない。痛くもなく、悲しくもなく、嬉しくもない。そこには、何も無かった。
「何でそんなことをするんだ!辞めるといったあれは嘘だったのか!?」
マリアを抱きすくめながら声を張り上げたツォンは、どこに向ければ良いのか分からない感情を思い切りその腕に込める。
薬瓶の中身は――――酷い副作用のある薬だ。
出会ったときのマリアはその薬を乱用しており、トリップドラッグでもないのにそれと同じ症状を出していたものである。
ここ最近ではすっかり止まっていたからもう大丈夫だと思っていたのに、まさかこんなふうにまた使用しているなんて。
―――――だからだったか、あの“HELP ME”は。
助けて欲しかったのは、その薬に頼らざるを得なくなっている心だったのだ。
「…だって仕方ないじゃない、耐え切れなかったんだから」
「頼む…やめてくれ…」
「私、別に死んでも良いの。だってね、ツォン。生きる意味ってどこにあるの?お酒を飲んで、誰かと話して、みんなで笑いあって…それだって勿論幸せだけど、結局皆それぞれの家に帰っちゃうの。楽しい時間を過ごしたって、皆にはちゃんと帰れる生活があるの。そこに帰って、今度は違う誰かと笑い合えるの。…私はいつも一人だけ取り残される」
「やめろ…」
マリアはぼんやり一点を見つめており、口だけが切り取られて動いているかのようである。それは無表情だからこそ感じられる違和感だったが、それはやがてすうっと消失していった。
頬を伝う、一筋の涙によって。
「私…きっと、ツォンを奪いたいわけじゃないんだと思う。ただ、分かんないの。どうしたらこんな気持ちを埋められるのか…その方法が知りたいの」
教えてよ、ツォン。
そうマリアの声が響く。
ツォンがその答えを知っているかどうかは問題ではなく、あの日、その気持ちを一瞬でも開放させたのがツォンだったからこそ、マリアはそれをツォンに問うのである。
今此処にある苦痛は、あの日ツォンがマリアを助けたからこそ起きたもの。
もしあの日ツォンが助けなければ、あるいはマリアは楽になれただろう。大量の薬を服用し、安らかにこの世を後にできたのに違いない。
仮にそれが世間的に問題視されることであっても、マリアにとってはそれが幸福だったかもしれないのである。
それでも、それを止めた。
人生に入り込んだ。
その責任は―――――軽くはない。
「ねえ。どうして人はいつも、間違ったものを選んじゃうんだろうね」
ぽつりと呟かれたその言葉に、ツォンは同じように呟きを返す。
そして、腕の力を緩め、そっとマリアの頬に口付けた。
「本当に…な」
きっとこれも間違いなんだろう、ツォンはそう思う。
此処で口付けることも抱きしめることも、本当は間違っているのだろう。
けれど、そうしないわけにはいかない心の呵責があり、その上では間違っていると判断することは許されない。それこそ間違っている。
すべてはあの日がいけなかったのだろうか。
いや、それよりも前から、本当は間違っていたのかもしれない。そもそも出会いそのものこそが、間違いだったのかもしれない。
マリアとの出会いも――――ルーファウスとの出会いも。
「…マリア」
ツォンはマリアの頬に手を伸ばすと、そっとその頬をなぞった。それは同情だったが、それでも惨めさを生むようなものではなく優しいものだった。
マリアはそのツォンの動作に、もう一筋の涙を流す。
「どうしてそんなふうに優しくするの?もう止めてよ…」
「すまない」
何を謝る必要があるのか分からなかったが、ツォンは無意識にその言葉を繰り出していた。
「恋人のところに帰りなよ、ツォン」
「…出来ない」
「どうして…?」
そう問われ、ツォンは悲しそうに笑う。
先ほど吸いかけた煙草の匂いが微かに漂ってきたが、それは甘くもなく苦い香りがして、妙に目に染みる気がした。
これで涙でも出れば良かったが、都合よく涙など出なくて、ツォンはそれにすら悲しみを覚えてしまう。
涙が出て、視界が霞んでくれたらどんなに良いことだろうか。
どうにもならないこの現実をオブラートに包むみたいに霞がかかってくれたら、きっともっと楽になれる。
でも、そんなふうには出来ていないから。
いつだってすべてはありのまま、己の選択の結果を突きつけてくるから。
「私は――――間違った選択をしすぎたから…」
だから、それからは逃れられない。
求めれば求めるほど遠ざかっていく、そんな“幸せ”が、未来永劫続く方法を教えて欲しい。
これ以上間違った選択をしないように、誰か手を引いて欲しい。
帰れなくなってしまう前に。
どうか―――――。