31：武器にするにしても、敵に回すとしても
「…レノ？」
聞き覚えのある声、今は聞きたくないとすら思ってしまうその声。
それは、ツォンのものだった。
「何をしているんだ、こんなところで。今日は非番じゃなかったか？」
驚いた顔をしてそんなふうに言うツォンに、レノは特別表情を変えずに「そうだけど？」と返す。だったら何かいけないのか、とでもいう挑戦的な言葉であることは確かである。
ツォンはレノの態度に表情を翳らせると、その後すっとその表情を変えていった。
しかしそれは以前話し合った際に見せた困ったような表情とは違い、どこか息苦しいような微妙な表情で、レノはその微妙な表情の変化が今までと違うことに違和感を覚えたものである。
感情の読み取りにくい表情、とでもいうのだろうか。
「――――“だったらなぜ此処にいるんだ”、と聞いてもどうせお前は答えないんだろうな。私とは話したくもない…といったところか」
ツォンはそう言い切ると、レノの回答を待たずにデスクへと近づいた。
そしてデスクの上のノートパソコンからACアダプタを取り払うと、それをさっと腕に抱える。
今さっきまでレノが散散苦戦してきたあのノートパソコンをいとも簡単に持ち去ろうとするその姿は、まるで自分には情報網に入る権利があるとでもいうふうに見えて、それがレノの中に妙な苛立ちを生じさせた。
「ちょっと待てよ」
すぐさま本部を後にしようとするツォンの姿に、レノは重い口調で声をかける。
「何だよソレ。捨て台詞吐いてさっさと退散？まるで俺が此処にいたら迷惑そのものって感じだな」
「当然だ」
「は！？」
ツォンのその言葉にガタン、と席を立ったレノは、力任せにデスクをガン、と叩くと、
「言ってくれんじゃん！さすがはタークス主任様だよな！」
そう半叫びになってツォンを睨みやった。
その行動にツォンはピタリと動きを止めてレノを見遣ったが、その表情は冷静そのもので微塵も動じているふうではない。
この前は散々困ったような表情を見せていたツォンが、今度は打って変わってこの態度…その変化が何かを示していることだけは確かである。それはレノも無意識に感じ取っていた。
ツォンは、暫しレノを見遣った後、静かな声音でこう言う。
「…お前は一体私を何だと思っているんだ。タークスであれば非番であろうと守秘義務がある。非番なのに此処にいるのであれば相手がお前であろうと疑うのが当然だ。それは私が主任だからではなくタークスとしての常識じゃないのか？」
何か間違いがあるなら指摘してくれても結構だが、とまで言ったツォンは、レノに猶予を与えるとでも言うように黙ってその場にたたずんでいる。
その場の雰囲気は、実に刺々しかった。
別に喧嘩しようというわけではないのだが、口には出さない心の内で敵対する何かが雰囲気をぴりぴりとさせる。
口に出して叫んでしまえればどんなに楽だろうかという気持ちは、恐らくレノもツォンも同じだった。がしかし、それを口に出すことは容易ではない。
しかし、このままで止まるわけにもいかないというのもまた、心のどこかでは分かっていたのである。だから、キッカケが必要だった。何かキッカケが。
そしてそのキッカケとなるべきものは、レノの一言から生まれた。
「―――――俺、副社長から特別任務受けてるんだ」
今までの会話をかき消すかのようなその言葉は、沈黙したままたたずんでいたツォンをピクリと反応させる。
「その任務、もうすぐだし。俺は完璧にソレこなしたいから、事前調査といきたいんだよな」
「―――――それはどういった任務だ」
「それは言えないな！だってそうだろ、今さっきツォンさん言ってたじゃん。タークスには守秘義務があるってさ。それと一緒。だろ？」
「……」
ニヤリと笑ったレノの顔を見遣ったツォンは、特別表情を変えることなくその言葉を飲み込むと、ふとある言葉を思い出した。
それは、CLUB ROSEのマスターが口にしていたあの言葉である。
“そりゃあ確固たる自分を知ってるのは自分だけかもしれない”
“けど、評価は十人十色になってしまうものだよ”
“誰かの評価が大切だっていうんじゃないよ”
“ただ、誰かの評価に左右されて生きていかなくちゃいけないから…”
“それを知っておくことが必要だっていうだけさ”
―――――その評価を武器にするにしても、敵に回すと…しても。
目前のレノの中の、自分の評価はいかほどだろうかと、ツォンは思う。
わかりきっているけれど。
最悪の評価、だという事くらいは。
だって―――――レノはルーファウスの瞳で物を見ているのだから。
「…レノ。お前は―――――ルーファウス様が好きか」
「は…」
突然のその言葉に、レノは一瞬面食らったような顔をした。
その一瞬のブレが、ツォンに真実を伝える。
だからなのだろうか、ツォンは無意識に口端をすっと上げて笑んでしまったものである。
それは幸せな微笑みというわけではなかったが、苦々しいほどのものでもなかった。
その笑みは、レノのルーファウスへの想いに対するものというよりはむしろ、想われることで微笑むであろうルーファウスに対するものである。