40:陳腐な言葉
純血種である例の男が連絡を寄越してきたとき、ルーファウスはその回答にさえ窮するほど空虚に襲われていた。
電話越しに明るい声を出してきたその男は、例のパーティについて、楽しみですね、と心からそう言ったものである。それから、以前も口にしていた乗馬の件をその時も口にした。是非ご一緒に、と。
しかしルーファウスは上の空で、それに対しても曖昧な返答しか返せなかった。
ルーファウスが勤務時間中であることはその男も承知していたはずだが、実際その男はよく喋り、結局、大半の時間をその無駄な電話に費やすことになった。
尤も、空虚そのものであるルーファウスは業務など手につかぬ状態だったから都合が良いといえば良いのだろうが、それにしても会話をしなければならないのは至極問題である。
『今年のパーティでは我が家から数人出席させて頂く予定なんですよ。父に母に、私に。それから我が家のパティシエとドクター。彼らは高名ですし、是非貴方にもご紹介したい。それから…』
もう良い、別に良いんだ。
仮にそのパーティで自分がどれほどの扱いを受けようが、問題など無いのだ。
そもそも、そう。
いつだってそうだったじゃないか。
すべては肩書き如何で判断される、そういう世の中で生きてきた。
その上で自分自身がどれほど不必要であるかなど良く理解している。既に不必要である自分など、そのパーティで何が起ころうが問題ではないのじゃないか。
『そうそう、乗馬の件ですけれども、実は先日良いのが入りましてね。是非こちらもご紹介したいのですよ。今度ご一緒に…』
誇りなど最初から無かった。
誇りで保ってきた誇りも、幻想に過ぎなかった。
そんな高尚な趣味など、幻想の誇りの上に成り立った、それこそ幻想だろう。だから本当に自分にはやはり不必要だし不釣合いである。
止めて欲しい。
もう止めて欲しいんだ。
何も無かったはずの自分に、大いなる付加価値を与えた数々の人間たち。今になってその付加価値を否定するならば、最初からそんなものは欲しくなど無かった。
だけれどそれは与えられてしまったから、少しでも自分を大きく見せようともがいていた。そうすることで満足という名の安心を得ようともがいていた。
だけれど本当の自分は―――――。
『ルーファウスさん?どうしました、気分でも悪いのですか?』
悪いのは気分じゃない。
心だ。
出勤まであと数時間。
そんな刻限にツォンがその場にやってくることは珍しいことだった。
「どうしたの、ツォン?」
化粧をして身支度を整えていたマリアは、突然やってきたツォンに驚きを隠せずにそう問う。
時刻はまだ四時ほどだし、この時間であればツォンが仕事中であることは歴然である。
マリアはツォンの職業について詳しいことを未だに知らないでいたが、そのくらいのことは大体分かっていたし、そもそもツォンは情熱的に自分を求めているわけではないと分かっていた。出会いが出会いなだけに、それは当然だとすら思っている。
ただ問題なのは、数日前にした重大な告白それ一つだった。
子供が出来たという、その告白。
ツォンはマリアの問いに、勤務中だが抜けてきたんだ、と説明する。
それから、先日の重大な告白の結果についてこう口にした。
「上司に報告をしてきた。身を固めると…そう言ってきたんだ」
「え…?」
マリアはその言葉に大きく目を見開く。
それは、まさか信じられないような言葉だった。
先日マリアは確かにその身に宿った命についてを告白したが、それと同時に、ツォンを奪いたいわけではないという告白をもしている。
つまりそれは、そういった事実によってツォンを縛り付けたいというわけではないという意志を表していた。
そもそもが恋愛感情で始まった関係ではないのだし、ツォンには恋人の存在があるということも理解している。
しかしそれでも、かの告白はツォンを追い込んでしまったのだ。
―――――確かに、出来上がってしまった事実に対して困惑はしていた。
ツォンが言うように、身を固めるという方向にいくなら、マリアにとってそれが一番安心なのは確かである。
でも。
「ツォン…私は…」
貴方の幸せを破壊してしまう―――――。
いや、既に今まで何度も破壊してきたのだ。
その集積が腹部に宿る命に違いないのだし、それはもう許されないものだと分かっているけれど。
「責任は私にもある…そうだろう?けじめだとかそんなふうに言いたいわけじゃない。ただ、そうすることでお互いに何かが吹っ切れるんだろう」
「何かが…吹っ切れる…」
確かにそうかもしれない、とマリアは思う。
確かに“吹っ切れる”のだ。ツォンも、自分も。
諦めという名のもとに今までを正当化できる、後ろ向きな最良の解決法。
「仕事に行くのか?」
ふとそう問われ、マリアは「うん」と頷く。ツォンはそれを了承したが、それでもこんな事を言った。
「だったら明日からは長期的に休め。お前の仕事は身体に負担をかけるだろう。…陳腐な言葉だが、今の私であれば十分に養う経済力はある。お前も、腹の中の子供も」
「そう…ね」
エリートであるツォンであればそれは当然だろう。
ツォンの口からそのような言葉が自分に放たれるのはいささか不思議な気分だったが、しかしそれでも言っていることに嘘は無い。その上それは、マリアの境遇からすればあまりにも恵まれた言葉に違いなかった。
しかし、心のどこかで皮肉に自分をあざ笑う自分がいる。
その皮肉に彩られた自分は拍手喝采をしながら良かったね、と自分をあざ笑う。
ほら―――――貴方が欲しかったエリートが手に入ったじゃない、と。
幼い頃から憧れていた兄。だけれどそれは絶対に手に入らないものだった。しかしツォンというエリートはこうして“手に入った”のである。
自分を高みにのぼらせてくれる、そういう存在が手に入ったのだ。
「それからあの薬のことだが、あれは絶対に止めるんだ」
「うん、分かってる。もう全部捨てたわ」
「そうか」
それなら良かった、と、これは本心からツォンは言う。
しかしそんな心遣いすら、今のマリアには心苦しいものだった。今までであればその気遣いこそ求めてやまないSOSだったはずなのに。
「……ねえ、ツォン」
いつの間にか俯いていたマリアはすっかり身支度を終えており、誰もが称える美しさを有している。
それは彼女をCLUB ROSEのナンバーワンにまで伸し上げた素晴らしいものに違いなかったが、その外見に似合わない彼女の心中については、彼女を称える誰しも気付きはしなかった。
「私、ツォンに話さなきゃいけないことがあるの。今までずっと言えなかった…隠しておきたかったこと。だけど今はもう、話さなきゃいけない気がするんだ」
マリアはそう言うと、時計をチラと見やる。
時刻は既に家を出るはずの時刻を過ぎており、本来ならば急がねばならない状態だった。がしかし、それを差し置いてもツォンに話さなければならないと思う。
それはツォンが知りたがっていたことで、それでも自分は知られたくなかったことである。
あの薬のこと。
ツォンの会社に対して悪事を働こうとしているあの男のこと。
そして―――――。