64:小さな手に引かれて
誰かに手を引かれている。
暗がりの中でルーファウスが理解したのはその感覚だった。
レノはあの金髪の男に向かっていったのだから、この手はレノの手ではない。勿論、金髪の男のものということもないだろう。
何せルーファウスが誰かに手を引かれて強制的に走る羽目になったのは、レノがシャンデリアを全て破壊したその瞬間からだったのだ。あの時点では、金髪の男はまだ遠い所にいたはずである。
もしかしてツォンだろうか。
一瞬ルーファウスはそんなことを思ったが、しかしそれにしてはどうも感覚が違っていた。
そう、言うなればその手は、小さすぎるのである。
小さくて細い―――――そうだ、まるで女性のような…。
そんなことを考えながら強制的に走らされていたルーファウスは、やがて辿り着いた会場の外…つまり廊下で、ようやくその全容を知ることになった。
「お…まえは…」
ルーファウスの手を必死で握り、先を走る姿。
それは華奢な体をしており、背中には長い髪が揺れていた。
ルーファウスは一瞬でそれが誰なのかを察知したが、敢えて口には出さず黙しながらその人に付いていく。
何故、だとか、どうやって、だとか疑問も色々沸いたが、それでもやはり口には出さない。
廊下を走り切り突き当たりにさしかかると、その人は一瞬迷った後に二階への階段を駆け上がった。それだからルーファウスも結果的にそこを駆け上がることになる。
そうして二人は二階の突き当たりまで行き着くと、一番近くにあった部屋へと急いで入り込んだ。
バタン、そう音が響いてドアが閉まる。
「鍵を閉めて!」
そう言われ、ルーファウスは言われるままにガチャリと鍵を閉めた。
内側からしか掛けられない鍵だから、これで此処は密室状態というわけである。
もしこれが特定できない相手であったならこれほど恐ろしい状況もなかったろうが、相手が誰なのか理解している上ではさして恐怖感もない。むしろ、疑問の方が大きい。
明かりを付けないままの部屋はとても暗く物が良く見えなかったが、この状況で明かりを付けることは厳禁だろうことを汲んでルーファウスは特にそれをしなかった。
はあはあ、そんな息遣いが聞こえる。
走ったために切れた息…その息遣いが、女性の声音で聞こえる。
「―――――マリア…なんだろう?」
壁に背を付けてぐったりとしているその人を見遣りながら、ルーファウスは静かにそう問うた。
それは疑問系で放たれたもののルーファウスの中では既に確信となっており、最早そう聞くのもおかしいくらいの事である。
しかし、それでも敢えてその名前を出したのは、疑問を投げかける意味合いが含まれていたからだった。
よりにもよって何故マリアが、というそんな疑問を。
「覚えててくれたんだ。…ううん、違うかな。忘れられるわけないよね、だって私、貴方に酷いことしたから」
「……」
しんとした部屋の中で響くマリアの声は、CLUB ROSEで聞いたそれとはどこか違っていた。雰囲気のせいもあるのだろうか、どこか沈んでいるように聞こえる。
「いきなりこんな事して、ごめんなさい。でも、こうでもしないと自分が許せなかったんだ。それに…ちゃんと話してみたかった」
「……」
ごめんなさい、もう一度そんなふうに謝りの言葉を入れられ、ルーファウスはどう答えて良いか分からないまま黙した。
ルーファウスにとってみれば、自分とツォンとがどういった関係にあるかを知っているようなその口ぶりがまずもって理解できないところである。もしかするとツォンが口にしたのかもしれないが、それでも何となく釈然としない。
それに、タイミングが悪い。
よりにもよって今日という日に、そんなふうに言われることはあまりにも切ない。
自分の身に危険が迫っている今日という日、そして自分の身からツォンが離れることが確定する今日という日。そんな日にどうしてそんな言葉を口にするのだろう。
起こってしまった事実やこれから迎える未来は、変えようがないというのに。
「私は別に…」
苦し紛れ、ルーファウスはやっとそんな言葉を口にする。
しかしどうにも続きが出てこず、言葉はそこで止まってしまう。
マリアはそんなルーファウスにそっと近づくと、暗がりの中で真っ直ぐにルーファウスの顔を見詰めてはっきりとこう言った。
「ツォンが何を言ったかは知らないけど…心配しないで。私、ツォンの子供は産まない」
「え…?」
その衝撃的なその言葉に、ルーファウスは思わず呆然とする。
産まない?―――――それはつまり、ツォンの下した道を覆すということではないのか。
社会的責任を取るつもりであろうツォンは、その事実があったからこそそういった決意をしたのである。
もしそれが無ければ、抜本的な解決というわけにはいかないまでも状況はそれほど悪化しなかったのに違いない。
それでも起こってしまった事実は覆しようがなくて、ツォンはその道を選んだ。
そういったツォンの心持ちをルーファウスは勿論知る由などなかったが、それでも今彼女が、自らツォンとの未来を崩そうとしていることだけは理解できる。
しかし、それが何故なのか、その理由は分からなかった。
「な…ぜだ?お前は、何故…」
うわ言のように口を動かすルーファウスに、マリアは少し悲しげな笑みを浮かべると、分かってるの、とそんな言葉を口にする。
そして。
「私ね、ツォンには恋人がいるってずっと前から知ってたんだ。それから、ツォンがその恋人のことをどれだけ愛してたかも、多分分かってたんだと思う。…でも、その恋人が貴方だってことはこの前初めて知ったの。お店、来てくれたでしょう?あの時、すごく辛かった。だって貴方は、私がずっと傷つけ続けてきた相手だったんだから」
「……」
「…あのね、私とツォンは…想い合ってるわけじゃないの。お互いに何かを埋めあってただけなんだ。それがこんな結果に……」
「……」
まるで言葉が出ない。
マリアのその告白に、悲しめば良いのか怒れば良いのか、それすらも分からない。
反応という反応ができなくて、ルーファウスはただただそこに立ち尽くす。まるで金縛りにでもあったみたいに。
そんなルーファウスを前に、マリアは憂いを帯びた声音で言葉を発していく。
「このままじゃ駄目だって、やっと目が覚めた。遅すぎるよね、取り返しのつかないところまで来てこんな…でもね、このまま進んだら、きっと本当に全部間違っちゃうと思うんだ。だって―――」
誰も報われない、とマリアはぽつりと口にした。
そう口にしたマリアの心には、自分とツォンとルーファウスと、そしてレノの姿も存在している。
ここまで来て今更のように全てを白紙に戻すことはできないけれど、それでも軌道修正くらいは出来るはずだというのが今のマリアの心にある気持ちで、それが出来る最後の日が今日だった。
マリアには分かっていたのだ、今日、ツォンがルーファウスの為に最後の行動を起こそうとしていることを。
だからこそ、今日が終われば全てのことに軌道修正は出来なくなってしまう。それくらいの強固なものが、ツォンの決断の中にはあるのだと分かったから。
「昔から、愛されたいと思う相手にはいつも手が届かなかった。その人達には、私は必要じゃなかったから。…私、ずっと誰かに助けて欲しかったの。自分が必要なんだって、そう思わせて欲しかったんだ」
それでも、大切なものが手に入らないから間違ったものを選ぶ。本当はそんなものが欲しいんじゃないのに。
それが手に入りさえすれば、安心できる。
それが手に入りさえすれば、自分は此処に存在していても良いんだと思える。
幸せそうに笑う人々と同じように―――――自分は愛されていると、自分は幸せなんだと、そう思えたから。
「でもね、やっと分かった気がする。どんなに優しくてもどんなに傍にいてくれても、やっぱり…他の人じゃ駄目なんだよね。これで良いとか、これで満足できるとか、そんなの嘘なんだよね」
「嘘…」
“ねえ。どうして人はいつも、間違ったものを選んじゃうんだろうね”
“何で大切なものはいつも、手に入らないんだろう”
―――――答えなんて既に出ている。
大切なものが”手に入らない”から、“間違ったものを選ぶ”。そう、せめてもの安心と存在証明の為に。
しかしそれが間違いであることなど、既に分かっていたのだ。いつだってそう、心の底ではそれを知っていて、だからこそ思っていたのだ。
自分を捨てられたらどんなに楽だろうと、自分ではない存在になってしまいたいと。
嘘で塗り固められた自分など嫌なのに、そうせざるを得なくて、どうして自分は自分でい続けなければならないのだろうと疑問を渦巻かせて―――――そして。
“消えて無くなってしまいたい”
そう、思っていた。
「―――――…お前は」
ルーファウスはマリアを見詰めながら目を細めると、ふいにそう口を開く。
そもそも、そう。そんなふうに自分に嘘を吐き続けることになった根本的な原因は、恋愛などというものではなかったはずである。
もっと生来的な要因があって、そこに恋愛という愛情が加わったからこそ、そういった複雑な問題になったのだ。
その根本的な問題とは他でもなく、出生、である。
「お前はツォンの子供を…殺すのか?間違いだとしても…もう出来てしまったそいつを、自分の為に犠牲にするというのか?そうやって捨てて―――――しまうのか…?」
ルーファウスの中にふいに巡ったのは、本当の父親だという男のことだった。
いつだったか突然届いた書簡で知った肉親の死は、ルーファウスに自身の真実を突きつけ、そして自分がいかに必要のない人間かを悟らせた。
その父親がどういう人間かなど、知りはしない。
青年実業家だとか言っていたがどんな仕事をしていたかを詳しく聞いたわけではないし、性格とてどんなものかは知らされていない。
しかしそれらがどうであれ、ルーファウスを手放したことだけは確かで、それは彼の父親が自身の事業を優先させた結果でしかなかった。
自分の為に、子供を犠牲にする。
それと同じことを眼前のマリアはしようとしているのではないか。
そう思ったら、本来なら喜んでもおかしくはない告白だというのに、ルーファウスには何故かそれが出来なくなってしまった。
既成事実を末梢してマリアがツォンの傍から消えれば、あるいは少しは楽になるのかもしれない。
そう思うのに、自分のような人間を生み出したその流れには、拒絶反応が起こる。
「副社長さん」
そんなルーファウスの言葉に、マリアはゆるゆると首を横に振った。
そしてこんなことを言う、とても苦しそうな表情をして。
「身勝手なのは分かってる。世間のモラルはきっと私を許さない、それも知ってる。でも私、お母さんと同じ過ちを…繰り返しちゃいけないから」
私は望まれた子供ではなかった、とマリアはそう言う。
愛する人と結ばれずに、愛してくれる人と結ばれた末に生まれたのが自分であり、その自分は結果的に母親から愛されることが無かった。
自分を放ったまま愛する人の元へと走り、血の繋がりのないエリートの子供を愛し、自分を疎んだ母。
もしツォンの子供を産めば、結局自分も同じ道を辿るに違いないと、マリアはそう口にする。
お互いに愛し合ってなどいない二人がこの世に産み落とした子供は、きっと渇望しか味わうことができないだろう。
その子供がどんなに愛して欲しいと望んでも、マリアやツォンがどんなに仮初の愛情を与えたとしても、そこには嘘しかない。
つき続けた嘘がやがて本物になる事があったとしても真実は変わらないのだし、そういった機微をその子供は無意識に感じ取ってしまうだろう。
自分と同じ辛さを受けてしまうような、そんな子供を作り出してはいけない。
その思いが、マリアを決断に導いたのである。
「ごめんなさい」
マリアは三度目の謝罪を口にすると、ルーファウスに手を伸ばし、そっとその体を包み込んだ。その突然の動作に驚いたルーファウスは、身動きが取れずにただ立ち尽くす。
暗い部屋の中で、抱きしめあうように重なる影。
誰かが見れば確実に恋人同士だと思うだろうそのシルエットは、しかし実際にはもっと重いものを引き連れて二人を結びつけていた。
まるで同じ辛さや苦しみを味わってきた同志とでもいうように。
共鳴し合ったのは―――――必要とされたいと思う、愛されたいと思う、その気持ち。
ルーファウスは脳裏に膝を抱える自分を見つけ、それをかき消すようにそっと目を閉じる。そしてぎこちなくマリアの背中に手を添えた。
しんと静まる部屋の中で、お互いの鼓動が響く。
それと同時に、一瞬でも忘れていた階下の喧騒が聞こえてくる。
―――――そういえば、先ほど会場に“あの男”が現れたのだ。
マリアに連れられ二階までやってきてこのような話をしている内に、すっかり事態の深刻さが薄れていたものだが、そういえば階下は酷い有様になっていたのである。
レノはどうしただろうか、あの男を捕らえただろうか。
それにツォンは―――――。
そんなことを思ってルーファウスはすっと目を開けると、未だにしっかりとルーファウスの体を抱きしめているマリアを、そっと緩やかに離した。
「…会場が混乱しているんだ。いつまでも此処にいるわけにはいかない」
何を謝る必要があるのだか分からないまま、すまない、と口にしたルーファウスは、すっとドアへと向かおうとする。
既にレノがあの男を捕らえているのかどうか分からないものの、すっかり雲隠れしてしまっていてはいざという時レノも混乱するだろう。だからそろそろ戻らなければ、そう思ったのである。
しかしそんなルーファウスを、マリアは必死に食い止めた。
「待って!駄目だよ、今行ったら大変なことになるよ!」
「分かってる、でも私はパーティ主催側の人間だ。来賓があれだけ混乱している中で私だけ安穏としているわけには―――…」
「狙われてるのは貴方なのよ!!」
ガンと響いたその声に、ルーファウスははっとしてマリアを振り返る。
今、彼女は何と言った?――――“狙われてるのは貴方なのよ”…そう、言わなかっただろうか。
しかし何故?
何故彼女がその事実を知っているのだろうか。
まさかそれもツォンからの情報だとでも言うのだろうか。
「な…ぜ、それを…?」
驚きのままそう口にしたルーファウスの目には、まるで子供のように必死に何かを訴えようとしているマリアの姿があった。
その様子はとても軽いものには見えない。
ただ狙われているということを知って気を揉んでいるような、そんなものではないように見える。
それだからこそ、逆にルーファウスは深い疑問に陥った。
「だから…此処に来たんだよ。ツォンの後を追って、ずっとタイミングを待って、やっと裏口から入れて…。――――私、副社長さんを狙ってる人を、知ってる」
「な…!?」
どうしてマリアが?
そう疑問で仕方が無い。
しかしその理由は、マリアの口から早急に語られる。兄なの、という一言を契機に。
「義理の兄が二人いるの。下の兄は昔から悪さばかりしていて、少し前に私に言ったわ。今度は神羅を狙うんだって。だから私、ツォンにそれを教えたの」
その言葉を聞いて、ルーファウスは少なからず納得をした。
なるほど、だからツォンは知っていたのだ、ルーファウスが狙われていたことを。まさかマリアからの情報だとは思わなかったが、そういう繋がりがあったということか。
「さっき、会場にいた金髪の男―――――あれが、その兄よ」
そう響いた言葉に、ルーファウスは矢張りと思い軽く頷く。
クラウンカフェで自身を脅迫したのもあの男だし、それであれば彼さえ捕らえれば全ては上手く収まるというものである。
「…だったら話は早い。今、私の部下が彼を追い込んでいる。そこで捕らえればもう―――」
「でも違ったの…!!」
「え?」
無意識の中で幾分か安心があったからなのだろうか、マリアの金切り声を聞いた瞬間、ルーファウスは呆然とした。
そして次の言葉を耳にした瞬間、その呆然は深刻を極めたものである。
だってその内容は、あまりにも―――――…。
「本当に貴方を狙ってるのは、違う人だったのよ!!」
その言葉が響いた瞬間だった。
コンコン…
コンコン…
そう、ドアがノックされる。
「!!」
ドアに近づいていたルーファウスは途端にその場を飛びのくと、真っ直ぐにドアを見遣った。急激に寒気が襲ってきて、額を冷や汗が伝う。
諤々と震えるマリアの手がルーファウスの腕をしっかりと掴み、二人はその場で動くこともできずに固まった。
そうする中、コンコン、ともう一度ドアをノックする音が響く。
その音はルーファウスの鼓動とは正反対に妙に冷静な感じがして、それがやけに恐怖感を煽る。まるでそう、追い詰めたとでもいわんばかりに。
逃げ場は、無い。
『―――――開けて』
やがてドアの向こうから聞こえてきた冷静なその声に、ルーファウスははっとして目を見開いた。
その声は、聞き覚えがある。
その声は―――――……そう、その声は。