目の前には白い部屋が広がっていて、異臭が漂っている。
ツォンの体に流れ込む液体は、臓器を保つための栄養分、たんぱく質だと医者は言っていた。それを見つめながら、こんなもので命を繋いでいるツォンが、とてもとても強く思えた。
決して小さくなど無い。
その存在が、この脳裏にこびりついている限りは、大きく強いものなのだ。
そう思いながらルーファウスはツォンの顔に手を這わせた。
そこには確かに体温がある。
今まで何とも思わずに、すぐ側にあった体温がある。
それが生きている証拠なのだと、そう思う。それは幼い子供すら知りえた内容だったが、いざこうした状況に面すると、とても重要な気がした。
あの日も、この体温を感じていた―――――。
こうなってしまう、その前日も、この体温を感じていて、それが離れることは多少なりとも覚悟していたはずだった。
悪あがきはしない、今まではそんなふうに思ってきたのに、今の自分は何だろうかと思う。自分自身、おかしいと思ってしまう。
今の自分は、この組織の上に立つ者なのか、それとも、この目前の命に縋ることしかできない者なのか……そんなふうに考える。
その区別はいつもつけていたはずで、その境界はこの男にあった。
その境界を越えれば自分は脆く、だからそれは本当に僅かな許される場所だった。
その境界を無くそうとしたツォン―――――。
それは、境界が無くなる事を危惧していたからなのか。
ルーファウスの眼の中には、薄く目を開けたツォンが映し出されていた。
それは移植の成功を示しているかのようにも思えたが、実際は違っていた。
目を開けた瞬間、そこには夢に見た人の顔があった。顔は不安そうに歪められており、それはツォンに、自分自身の生存を認知させる。
私は生きている―――――まず、そう思う。
元々意識はあったものの、こうしてはっきりと物を捉えるのは数回目だった。
初めて目を開けた時もやはり、ああ、生きている、と思ったが、それ以上は何も考えずに目を閉じてしまった。
何かを考えるのも億劫で、このまま眠ってしまったらどんなに楽だろうとも思ったが、そうして何度も目を開ける自分はきっと、何かを捨てきれないのだと思う。
それは生に執着しているというよりも、もっと違う何かだった。
それがはっきりしたのは、こうして不安そうな顔を目にした瞬間。
それを目にして、ああ、と思う。
これが自分を引き止めていたのだ。
あの瞬間に、自分は確かに死を覚悟したのに、それでもこうして戻ってきてしまった。あれほどまでに突き放して、自覚させたつもりだったのに、結局は無意味だったのかもしれない。
それはそうだ。
その自覚とは、常に自分あっての事だったのだから。
それは驕りなどでなく、事実だった。
しかし自分の死後に、その人が崩れるのは見たくない。目に映らなくとも、そんな姿にはなってほしくなかった。
だが、実際にはそれを望むこと自体が難しかったのだろう。
自分がその人の弱さを知ったその時から、その弱さを包む存在は、同時に逃げ場所となってしまったのだから。
それが証拠に――――目前のその顔は、どっと安心した顔に変わっていく。
そんな顔はしてはいけないのに。
こんな部下一人の死など、一笑にふして終わらせなければならないのに。
それなのに……自分は嬉しいと感じている。
それもまた、隠せない事実だった。
「ツォン…目が覚めたか」
「はい」
久々に見るその顔に、ツォンは静かに微笑みかける。そうする事で、ルーファウスの顔もまた少し緩む。
「私は…生きているのですね」
「ああ、そうだ。そうでなくては困る」
気付けば頬にはルーファウスの手が添えられていて、ツォンはそれにそっと自分の手を重ねた。
「ずっと側に居て下さったのですか」
「…ああ」
少し戸惑ったようにそう答えるルーファウスに、ツォンは思わず苦笑する。
ルーファウスが自分の側にいたということは、ある意味、社長職を放っているという事にもなる。しかもその顔は最後に見た時よりもさらに血色が悪く、体調の悪さをツォンに示していた。
「もう眠って下さい。貴方もお疲れでしょう」
そんなふうに気遣いの言葉をかけるツォンに、ルーファウスはジレンマを感じる。
何でそんな言葉を吐いてくるのだろうか。
まだ目を開けたばかりの状態で、容態が良いとはいえないのに、他人の心配などをするのだ。優しさを通り過ぎて、何だか腹が立つ気さえする。
もっと肝心な言葉があるだろう、そんなふうにも思う。
「やめてくれ、そんなふうに私を気遣うな。病人はお前の方なんだぞ」
「病人…ですか。確かに、そうかもしれません」
ふっと笑いながらツォンはそんなふうに言う。
「けれど貴方には万全を期して頂かないと。どうせまたビタミン剤しか飲んでないのでしょう?」
「……」
的を得た言葉を吐かれ、ルーファウスは押し黙った。確かにその通りの生活が続いている。
「私は生きているのですから、大丈夫です。…また話せます。だから今日はもう、お休みになって下さい」
そうゆっくりとした言葉が放たれ、ツォンの手は、ルーファウスの手の上から、その頬までを円状に描く。
その感覚があまりにも懐かしくて、ルーファウスは息が詰まった。
その手が頬に触れる感触は、やけに安堵感をもたらす。しっかりとした熱があって、そこには力もある。
「ツォン……私、は…」
「良いから早くお休みなさい」
「――――分かった」
何か言おうとしたのを制御され、ルーファウスは仕方なくツォンの言葉に従うことにした。
折角こんなふうに再会を果たしたのに、何となく釈然としないが、それでも生きているということがルーファウスを幾分か素直にさせる。
勿論それは言葉の主にもよることだったが、現時点ではルーファウスにこのような物言いを出来る者はツォンくらいのものだったろう。
やっとツォンの頬から手を離し、すっと立ち上がると、ルーファウスは物惜し気に寝台を見つめる。けれどそれも数秒の事で、また明日来る、と言いながらその場を立ち去った。
明日になれば、また必ずルーファウスはこの場に訪れるだろう。
それは疑いようのないことだった。
「…生きている、か…」
残されたツォンは天井を仰ぎながらそう呟く。
それはまるで嘘のような話で、本来ならばあの夜、神羅ともルーファウスとも別れるつもりだった。
実際に体を貫かれた瞬間は、もう最期だと思った。
その時は、ルーファウスにあのように告げておいて良かったと思ったものだが、結果こうなってしまってはまた事情が違う。
この命はきっと、そう長くない。
ツォンは直感的にそれを感じていた。
そう長くない命に、縋る人をどうしたら良いものか。
不思議と自分の死に関しては何も感じない。それはきっと、覚悟というものをもう超えてしまったからなのだろう。もっと前にその覚悟はしていたのだから、今更悪あがきするつもりは一切無い。
ただ、やはりあの姿をどうにかしなければならないだろう。
例え、今でもずっと側にいたいと思うのが本心であっても―――。
そう考え込むツォンに、男が静かに近付いた。
医者である。
その影に気付き、そちらの方向に顔を向けたツォンは、医者の姿を確認した後に、
「すまなかった」
と一言だけ告げた。
面識は無いが、世話をかけたということくらいは分かっている。その礼である。
医者はそれに対し表情を変えずに「どうも」などと返した。
「お気の毒に、とでも言った方がよろしいでしょうか。主任」
「いや…構わない。これが仕事だ」
そんなふうに答えるツォンに、医者は口端を緩ませた。
「いいえ。そういう意味ではなく…社長の事です。――――貴方はご存知のようですから」
「何を?」
「死期です」
淡々とそう説明する医者と目が合い、ツォンは「ああ」と答える。
どうやらこの医者は知っているようだった。しかもそれを隠さない様子は実にサッパリしている。
それはツォンにとっては都合が良い事だった。
「…何故、生きている?」
その言葉を聞いて、ツォンは悟った。自分の生命維持が、故意に行われたものだという事を。しかもそれは百発百中、ルーファウスの意思だろうという事も。
それはつまり、元々ならば直ぐに死に向かうはずだったことを意味している。それが何らかの処置で生きながらえているのだ。
医者は淡々と説明を始めた。
「社長からの令で貴方にあらゆる処置を施しました。出血多量…本来なら即死に近い。それを何とかやり過ごしました。それはそれ、問題はその後です。今もそうであるように、貴方が完璧に戻り生き続けるのは少々難しい」
「少々?…大分の間違いだろう」
そう皮肉にも聞こえる言葉を返すと、医者は実に有難いというような顔つきになった。
「貴方を救う方法…臓器移植でした。それ以外の方法も無くは無いが、貴方がまたタークスとして動くにはムリがある。薬漬けに近いですしね。…臓器提供者がいたので、貴方とその人に手術を施させて頂きました」
「移植?…そんな、一体誰が」
それはもうお分かりでしょう、などと言いながら医者は点滴を確認し始める。そうしながらも言葉は続いた。
「社長ですよ」
「―――!」
まさか、という思いが一気に駆け上った。
まさか、この体にあの人が……?
そんな事をしてまで?
何故?
それほどの権利など、どこにもないのに?
ツォンは言葉が出せないまま、己の体を見つめた。この体内で、ルーファウスの体の一部だったものが、今ツォンのものとして生命維持活動に従事しているというのだ。
そんな事があって良いはずがない。
どういう状況であれ、ルーファウスの体に傷を作ったのだ。
しかも、自分の為に―――――。
「社長が提供してくれたお陰で、今、貴方は生きている――――と言いたいところですが、問題が発生しました」
「どういう意味だ」
つまり、と、医者はあくまで淡々と続ける。機械的な口調で。
「実は一部、不適合なのです。体は皆、違う構造をしています。血液が合致していて抗体に問題が無いとはいえ、それだけが全てではない。体は繋がっているわけで、その一部をいきなりすり替えるのですから、歪みが生じるのは仕方無い事。…実は今もう、貴方の体の中では拒絶反応が始まっています」
そこまで言って初めて、医者は鋭い目つきになった。つまりはそこが肝心だということだろう。
医者の言葉からするに、拒絶反応が起こっているという事はつまり、ツォンの体はルーファウスの体を拒否したことになる。
それは不適合で、ちゃんとした生命維持活動を出来無い事を意味していた。
「―――では、今生きているのは、何故だ」
唇をかみ締めてそう言うツォンに返された言葉は、
「薬です」
という一言だった。
そう言った医者の手には、点滴の替えが握られていた。
どうか―――――どうか、許して下さい。
たった最後に、貴方を裏切ってしまう、この私を。
貴方がくれたかけがえの無い命でも、それでも私は選んでしまうのです。
この命よりも、あなたへの―――……。
言葉にできない貴方への、想いを。