爪痕(2)【ツォンルー】

ツォンルー

 

やがて覆いかぶさるような体勢になり、ツォンの髪がルーファウスの顔を覆う。隔絶された空間で目線が、合った。

ルーファウスの目は青く澄んだ色をしていて、それは真っ直ぐにツォンを見ている。
どこか切なげに―――。

ツォンはその目つきに、毎回とても嫌な気分になる。

何かを求めるように、そこにある目。

急激に、怒りに似た感情が湧き出てくる。だから敢えてツォンはその言葉を口にした。

「好きな相手に抱かれてるんですよ?もう少し嬉しそうな顔はできないんですか。貴方が言ったんじゃないですか、私が好きだと。そうでしたよね?」

そう言いながらも答えを待たずに、ツォンはルーファウスの下半身に己を突き当てた。先ほど慣らしたおかげで、そこはまだ狭いながらもツォンを受け入れる。

勿論そこは今までツォンによって何度も貫かれた場所で、簡単に結合を果たせてしまうことは二人の関係を如実に表しているかのようだった。

「…随分と淫乱な体になったものですね。ルーファウス様?」

ずっぽりと奥深くまでの侵入を許すその体に、少しずつ律動を与えてやる。それと同時にルーファウスの顔が背けられた。

「ッ…ツォン…」

目を閉じながら吐かれる言葉が、ツォンの耳元に届く。己の名前を呼びながらも、目を閉じて現実から逃れるかのように顔を背けるその人に、ツォンは更に強い動きを与えた。

その度に呻くような声が上がる。

そしてツォンの名前が囁かれる。

何度も何度も、何度も――――。

「あっ、はぁっ、ツォン…っ…」

「そんなに良いですか?」

ルーファウスにはツォンの投げかける言葉に何かを返す余裕は無かった。勿論耳には届いているし、それに対する感情も無くはない。

しかしそれ以上に、快楽に溺れた時には、あの始まりの時と同じような”逃げ場所”が付きまとっていて、そこに頼るしかルーファウスの拠り所は無いも同然だった。

勿論それは表面には現れることは無く、ツォンにも伝わりはしない。

優しい、妄想でしかないのだ。

「ほら、こっちを向きなさい」

そう言ってツォンは最中に関わらずにルーファウスの顔を強引に引き寄せた。途端にルーファウスの眼が現実のツォンを捉え、急速に表情が歪む。

その一瞬を、ツォンは見逃さなかった。

直ぐにルーファウスの片足を持ち上げると、少しばかり角度を変えて動きを早める。

馬鹿馬鹿しい慣れだな、とツォンは自分自身で可笑しくなった。その角度が、ルーファウスにとって一番苦痛なものだと分かった上でそうするのだから。

苦痛とは、言葉通りに苦痛であって快感などとは訳が違う。

「い…った、い…っ!…あっ…!」

あまりの痛みに、ルーファウスは目を細めて荒い息使いの中でそう訴えた。目にはうっすらと涙すら浮かんでいる。

しかし、すぐに解放されるはずもなく、ツォンの顔は僅か優しくなった。

が、言葉は辛辣に突き刺さる。

「このくらい何て事もないでしょう?だって貴方は選んだのだから―――私を」

「……っ…」

泣き出しそうな顔になりながら、ルーファウスは唇を結んだ。

目を閉じたいと、そう思う。けれどそれは今、出来なかった。

目前のツォンはとても優しい表情をしていて、辛辣な言葉さえなければ”逃げ場所”も要らぬほどである。それなのに、やはり違う。

その人はこうして自分の体を支配しているのに、その人はどこにもいない―――。

「ツ…ォン…」

振り絞るように声に出してその名を呼びながら、ルーファウスはツォンの背中に腕を巻きつけた。そしてその腕と手と指に力を込める。

爪が、背の肉に突き立つ。

「ツォン…」

もう一度そう名前を呟きながら、ルーファウスはそっと目を閉じた。

逃げ場所に返るように、もしくは優しさに返るように、そっと。

それでも苦痛は変わらずに続いており、ツォンの動きも一向に緩やかにはならない。きっとまだ長く続くのだろうと思いながら、ルーファウスはそっと言葉の続きを口にした。

それは優しく笑うツォンの表情を、俄かに曇らせた。

「……ツォン…愛してる」

 

 

“本当に大切ならば、ちゃんと言わないと失ってしまうんですよ”

 

 

幼心に、その光景は悲惨だと思った。

とても客観的にそう思ったのは多分、それが自分を取り巻く環境だとは思いたくなかったからなのかもしれない。

とにかく、そっと覗いたドアの隙間の、その向こうで展開されるものは酷く心を抉った。

優しい母親の、歪んだ顔。
そして滅多に見ない父親の姿。

―――それが覗いた先に見える。

単に話し合う姿ならば良かったかもしれないが、家庭の事情が事情なだけに、それは温ぬるいものでは済まされなかった。

父親は会社を経営しており、滅多に家で姿を見ることはない。それでもルーファウスにとっては唯一の父親であって、勿論尊敬する面もあった。

けれど、その光景を目撃した時から、何かが狂ってしまったのである。

普通の、よそとなんら変わりのない、ありふれた家庭だと思っていたのに―――。

「あれほど外に出るなと言っただろうが!」

そんな叫び声の後に、パシン、と痛々しい音が響く。その瞬間、ガタンと重々しい音とともに母親がよろめいた。

―――それは、父親が母親を殴る瞬間だった。

「あなた…でも…」

「でもも何も無い!お前はそんな簡単なこともできないのか!」

パシン、と、また音が響く。

思わずルーファウスは手に力を込め、目を瞑ってしまう。

あんな父親は初めて見たし、母親のあんな惨めな姿を見たのも初めてだった。今まで尊敬すらしてきた父親が、本来守るべき母親を殴りつけているのだ。それはとても信じられない光景だった。

視界の中で、父親が溜息を吐く。

「お前には呆れ果てた。私がこうして仕事をしているというのに、お前はのうのうと遊び呆けているというわけか。…ふん、馬鹿馬鹿しいな」

「ち、違うの…あなた、聞いて欲しい事が…」

言い訳めいた言葉を吐く母親を、父親はただ冷たい眼差しで見下した。

最近、母親は良く外出するようになった。以前までそんなことは無かったので、父親はそのことを言っているのだろうとルーファウスは思う。

けれどつい先日、ルーファウスは母親からその理由を聞いてしまったのだ。

秘密よ、と言いながら笑ったその人はとても綺麗で、ルーファウスはそんな母親が大好きだった。

彼女が語った理由はルーファウスにとっても嬉しい内容だったし、とても父親が怒るような事実だとは思えない。

けれどその時のルーファウスには意味が分からなかったのだ。そういった出来事の裏にある嫉妬心や、大人だからこそ沸き起こる感情などは、何一つ。

「最初からおかしいと思っていたんだ。こんな歳の離れた私と結婚したいなどと言うお前が。―――金が目当てか?」

「違う!私はそんなんじゃ…!」

悲壮な面持ちをした母親は、そう口にしながら父親に縋り付いた。が、それはすぐに払いのけられ、その反動で母親は床に倒れこんだ。

その衝撃音は、ルーファウスの耳に重く響く。

あんな事をしたら―――!

思わずそう叫んでドアを飛び出しそうになったが、瞬時にそうはできなくなってしまった。父親が、妙な動きをしたからである。

「あ、あなた…何を…」

横たわった母親の体に、父親はその大きな体で馬乗りになり、華奢な腕を掴んで床に抑え込んだ。

「何を抵抗することがある?私たちは夫婦だろう?」

そう言いながらその顔は嫌らしい笑みを浮かべる。それはルーファウスが今まで見たどの顔とも違っていて、とても怖く見えた。

あんな顔は、父親じゃない。そんなふうに思い、手が震える。

「お前はまだ若い。お前が私を利用しようというなら、犠牲は必要だろう?」

そんな言葉が響いた後、父親は母親の服を手荒に剥ぎ取った。その中から露になった肌は白く、ピンとした張りがある。大きく膨らんだ柔らかな胸に、やがて仕事しか知らないような無骨な手が這わされた。

それは父親というより、最早、見知らぬ“男”だった。

そこから先は、ルーファウスには見ることができなかった。気持ち悪いと思う。汚いとさえ思う。とにかく知らないものを見てしまった衝撃が、ルーファウスを襲った。

それと同時に、とても悲しくなった。

本当ならば母親を助けたいのに、状況的にもうその場所に出て行くことはできなかったからである。

だって、母親が外出していたのは―――。

「いやああああっ!!!」

やがて、劈くような叫び声が飛び込んでくる。

ルーファウスは素早く耳を塞ぎ、暗い部屋の中でただ小さく蹲るしかなかった。

ガタガタと震えながら。

何も聞こえないように耳を塞いで。

現実を見つめないように目をきつく閉じて。

 

 

 

母親は笑顔で人差し指を口元に当ててこう言った。

「ルーファウス、これはまだお父さんには秘密ね」

「何?」

母親はとても幸せそうだった。とても優しい笑顔だった。

己の腹部をさすりながら、もう一方の手でそっと髪を撫でてくれる。

「ルーファウスはもうすぐお兄ちゃんになるのよ」

「えっ」

母親の腹部には新しい命が宿っていたのだ。

まだ小さな鼓動、芽生えてたった3~4ヶ月しか経たない鼓動。

それでもそれはとても大切な命だった。

「だからね、ルーファウスも協力してね」

「うん!」

笑顔でそう返したルーファウスは、母親との約束をしっかりと守った。

その命の為に。

愛する母親と父親の為に。

 

 

 

しかし、その衝撃の夜に、母親の体から小さな生命の鼓動は消えた。

 

 

 

ある夜、父親が自宅で何かの催しをした。

それは会社の幹部が集まる食事会で、その為にルーファウスは部屋に篭りきりにならなくてはならなかった。

父親が仕事を家に持ち込むようになったのは、ルーファウスが父親に対しての恐怖感を拭い去れなくなった夜から、もう数年経った後の話である。

あの信じられない光景を目にした夜から、母親はぐったりとして塞ぎこむようになった。それでもルーファウスに対しては優しい笑顔を向けてくれたし、表面上は何も心配無さそうな日々が続いていたのだ。

しかし、すっかり成長したルーファウスは、それが偽りだと気付いていた。

ずっと普通のありふれた家庭だと思っていたのに、それはある夜を境に変わってしまった。

 

 

 
父親は家に仕事を持ち込むようになったが、それでも顔を合わせる機会は少なかった。

父親と母親は普通に接しているようにも見えたが、それはやはり違っていたようで、母親の父親に対する態度はどこかぎこちなくなった。

しかも、時折あの嫌な音が耳に入ることが、まだあったのだ。

それでも母親は「気にしなくていいのよ」と笑うだけだった。

そんな母親の姿を知っているだけに、部屋の向こうから響いてくる父親の談笑がルーファウスを嫌な気分にさせる。

「今晩は」

ふと耳にそんな声が入ってきて、ルーファウスはその方向を振り返った。

「…今晩は」

相手の顔を見てそう返しつつ、内心「ああ」と思う。確か以前も会ったことがある男だ。

その男はこの家で何かが催されるたびに護衛だとか何だとかでやってくる。外見は黒ずくめで少し怖い感じもあるが、話してみるとそうでもない。

長い髪が印象的な男だった。

「少し席を外してくれと言われたので。勝手とは思いましたがお邪魔させてもらいました」

男はそう言って開きっぱなしだったドアをパタンと閉める。

「別に良いんだ」

ルーファウスはそう返答し、体勢を立て直した。

立ちっぱなしも難だろうと座るように勧めてみたものの、男は頑なに拒否をする。どうも仕事が板についているらしい。

仕方なく、ルーファウスは落ち着かない雰囲気のなかで男と会話を続けた。

「もう何回か会った事、あるよな?」

「そうですね。お会いしてますね。何だか不思議ですが」

それもそうだと思う。目前の相手は父親の会社の人間なのだろうから、今のところ自分には何の関わりも無い人物なのだ。

その男は、最近になって父親の経営する会社に入社したらしい。

父親の会社の人間ときたら嫌な雰囲気を纏っている輩ばかりなのだが、この男はそんなに嫌な感じはしなかった。

その違いが何かといえば、多分、立場などからくるプライドなのだろうと思う。

 

 

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