守護法(4)【ツォンルー】

ツォンルー

 

ツォンに対しての疑念は口に出せない、そう思うルーファウスは、それとは別のことを口にした。

それは数日前、まるで何もかもが自分を必要としていなかったかのようなあの日に感じた苦しさ。それは当然ツォンの事も含まれていたわけだが、敢えてその部分だけは切り抜いて口にする。

「私が神羅にいようといまいと…さして何も変わらない。私がいない事で何か不都合があるだろうか?―――無いんだろう、そんなもの」

まるで何もかもに見放されているような気がするんだ、そう締めくくられたルーファウスの言葉に、ツォンは真面目な顔を返す。しかし言葉は返さない。

だからルーファウスは、一旦締めくくったはずの言葉の続きを口にした。

「自分だけ取り残されているような…そんな感じがするんだ。良く分からない…でもそんな感じがする」

そこまで言って、ルーファウスは目を床に落とす。

今言ってしまったその言葉達に、ツォンが何を思うか…そんな事が少し頭の端にあったが、それよりも口にしてしまった事で現実味を帯びたという感覚が上回っている。まるで自分で自分を貶めているような気分になってくる。

そんなルーファウスを真っ直ぐ見詰めていたツォンは、少し経ってからその身を椅子から上げた。そしてルーファウスに近付くと、手もたれにかけられていたルーファウスの手にそっと自分の手を重ねる。

それは、優しい手だった。

「―――ルーファウス様、私には貴方が必要です。私が、貴方の力になります」

「ツォン…」

「だから…どうかそんなに悲しい顔をなさらないで下さい」

そう言いその場にしゃがみこんだツォンの眼が、下方からルーファウスに注がれる。

その目を見ていたルーファウスには、それが嘘の言葉のようには思えなかった。それは本当に心からの言葉で、ツォンだけは必要としてくれているのだと…そんなふうに思った。それは安心感を呼んだが、それでも脳裏をふっと通り過ぎるものを払拭しきれない。

今、ツォンはこんなふうに言ってくれるけれど。

でも…明日は?

明日になれば、やはり自分の知らない表情を誰かに向けて過ごすのではないだろうか。その中で自分は単なる上司として存在し、些細なもの一つさえ共有できないのではないだろうか。

それが共有できない自分は―――やはり不必要なものに成り果てるのではないか?

…そう思うと。

「…明日も、明後日も…お前はそう言ってくれるかな?」

そんな言葉が舞うと、ツォンは少しした後に「はい」と言った。

言って、僅か腰を浮かしてルーファウスを抱きしめる。丁度ルーファウスの顔の辺りに来たツォンの左肩は何だか変に新しいもののような気がした。今までだってずっと知っていたはずのその身体が、今初めて知るもののような…そんな感じ。

きっと、それくらい、心のどこかで疑念が膨らんでしまったのだろう。

「…悪かった。変なこと言って、すまない」

白いシャツに手を這わせたルーファウスは、未だ消えきらない疑念を必死に押さえ込みながらも今目前にある優しさを受け入れた。

黒い髪のかかる首筋にキスをして、やがて向けられた唇にキスをする。そうする間ルーファウスの僅か開いた瞳はツォンの表情を見つめており、その視線の先のツォンはやはり同じように薄く開いた眼でルーファウスを見詰めていた。

―――こんなに好きなのに、何故、こんなに恐れているのだろう。

そう思いながらゆっくりと閉じたルーファウスの眼の淵に、やがて小さなキスが降りた。

それが合図のように緩やかに這わされた手は、一つ一つ衣類を引き剥がしていき、夜の部屋に熱気を篭らせていく。

その後はもう、何も考えないようにして身体を絡ませるだけだった。

 

 

 

ホテルで一夜を過ごしそのまま出勤したルーファウスは、その夜になってやっと帰宅した。

自宅ではスティンが手持ち無沙汰な様子で座っていたが、彼はルーファウスの顔を見るや否やパッと顔を明るくさせて駆け寄ってくる。連絡もなしに外泊をしてきた主人に少しばかり不安を募らせていたのか、その表情は妙に安堵感に満ちていた。

「ご主人様、お帰りなさい。あ、あの俺…ずっと待ってました」

「あ…そうか。悪かったな、連絡もしなくて」

「いいえ!良いんです」

そう言ってソワソワしながらも嬉しそうにしているスティンは、ルーファウスの目には憐れな忠犬のように映る。もし自分が独裁的な思考を持っていたなら、多分これほど満足することもないだろうと思えるほどのそれは、現状のルーファウスにしてみればあまり芳しいものではなかった。

何かに縋っているように見えるその姿が、あまりにも痛々しい気がして。

「…何か淹れようか?」

そんなスティンの姿を見てルーファウスは、ともかく自分も落ち着かねばと思いそう口にした。がしかし、すぐさまスティンにそれを止められる。

「ご主人様!俺、俺がやります!」

「でも…」

「ご主人様は座っていて下さい。俺は、何でもやります」

強くそう言われ仕方なくソファに腰を下ろしたルーファウスは、やがて運ばれてきた飲み物に一つ礼を言うと、そっとそれを啜った。と同時に横目でスティンを見やると、何故だか彼はこちらを見ながら棒立ちをしている。

「どうした?お前は飲まないのか?」

当然の疑問を口にしたルーファウスは、それに対するスティンの答えに閉口してしまった。何しろスティンは言うのだ、飲んでも良いんですか?、と。

またしてもDICTの調教は並ではないのだということを思い知ったルーファウスは、一つ溜息をつくと、仕事さながらに令を出した。それは当然、ルーファウスと同じように飲み物を手にしてソファに座れ、という内容である。

その言葉に従ったスティンは、はにかんだ様子でルーファウスの隣で飲み物を啜った。そのあまり上品とは言えない素振りが何となくルーファウスを和ませる。

何しろいつも自分の周りにあるものはいかにも全てを知り尽くしていると言わんばかりのものなのだ。そこからすればそれはとても純粋なように見える。

そんなスティンを見ながら、ルーファウスはふと口を開いた。

「…お前達は疑心暗鬼になったりしないのか。酷い調教を受けてきたんだろう?…それに、こうして契約をした後だって何をされるか分からないのに」

その言葉に不思議そうな表情を浮かべたスティンは、少しして笑顔になると、たどたどしくこう答える。

「お、俺達は…DICTやご主人様がいて、やっと生きていけるんです。どんな酷いことをされても…皆、誰かに買われようと必死なんです。だから沢山調教されてる人の方が、さ、先にDICTを出ていきます。俺達はご主人様を絶対信じなきゃいけないです。それは…当然のことです」

「…じゃあ。もし主人に裏切られたらどうする?例えば―――“要らない”と、言われたら」

「えっ」

驚きの声と共に一気に不安そうな顔を見せたスティンに、ルーファウスはフォローの言葉も入れずじっと視線を定めた。別段意地悪をするつもりではなく、ただ、スティンの答えを聞いてみたいから。

そうした視線はスティンにとって圧力だったが、それが主人のものとなれば圧力と感じるわけにはいかなかった。

だからそれは、圧力ではなく自然のものと解釈される。

「…い、要らないと言われたら…最後には死ぬしかありません。俺達は一人の人にしか仕えてはいけないから…生きてる間はご主人様をずっと、信じます…」

「―――本当にそれで…良いのか?」

「え…?」

呆気を取られたように口をぽかんと開けたスティンは、ルーファウスが何故そんなことを言うのか分からない様子だった。

スティンのなかには、主人という身分の人間は大概そういった忠誠に満足するものだ、という意識がある。だから、そこに疑問を持てとでもいうようなルーファウスの言葉は、まるで未知のものでしかなかった。

ルーファウスはスティンから眼を離すと、手にしたカップの中に視線を落としながらも苦々しい様子で声を押し出す。

「何で…何でそこまで信じられるんだ。自分の事などどうでも良いと思っているかもしれない、そういう相手をどうしてそこまで信じられるんだ。安心感なんてどこにも無いのに、どうして―――…」

安心感などなくて、渦巻くのは疑念だけで。

もしかしたら誰の心のなかにも自分はいないかもしれない、そんな状況の中でさえそこまで信じることができたなら…それはどんなに幸せなことだろうか。例えそこに証拠がなくても、単なる慰めでしかなくても、そこまで信じることができたなら。

「―――私には…無理だ。たった少しの事で疑念が沸く。その疑念が沸けば、自分すら信じられなくなる」

吐き出された言葉の数々は、最早スティンに向けられたものではなかった。

先ほど身体を重ね合わせたあの人…あの人に向けられたもの。

しかしそんなルーファウスの心の内など知らぬスティンは、それらの言葉の群れに己を重ねていた。だから、慌てたようにこう言葉を返す。

「ご、ご主人様!俺は…ご主人様を信じてます!どんな時にも、絶対、信じます!お、俺はご主人様以外の人の所にはいかないし、ずっとご主人様の傍にいます!俺、俺にはご主人様が必要だから…っ」

「…必要?」

その言葉に反応したルーファウスは、チラ、とスティンの方を見遣る。するとそこには、「はい」と嬉しそうにするスティンの顔があった。

しかしその顔は段々と見知った顔に変化していき、やがてルーファウスに一つの言葉を思い出させる。それは、先ほどホテルでツォンが言った言葉だった。

“―――ルーファウス様、私には貴方が必要です。私が、貴方の力になります”

「…必要…」

繰り返しそう呟いたルーファウスは、スティンの顔をじっと見詰めたままにツォンの事を思い返していた。

あの時の優しい手つき、優しい瞳、優しい言葉―――どれも本物としか思えないそれを。

「ご、ご主人様…」

ぼうっと考えに耽っていたルーファウスの視線を受けていたスティンは、そうして長らく視線を送られたことに何か違う事を思ったらしく、急にそわそわとし出す。

手に持っていたカップをふるふると震えさせると、少しした後にそれを脇のテーブルに置き、今度は自分の襟元をギュッと掴んだ。

そうしたスティンの行動がルーファウスの眼を通して意識に入ってきたのは数秒後の事で、その行動が何を意味しているのかを知ったルーファウスは驚いたように顔を歪める。

「…お前、何をしてる?」

そう指摘した時、スティンは既に服を取り払った後だった。

ルーファウスとさして変わらぬ体格の彼は、それをすっかりとルーファウスの前に曝け出すと、小刻みに震えながらも今度はズボンを外しにかかっている。

それを見て、ルーファウスの脳裏には急激な怒りが生まれた。

「…何をやってる!ふざけるな!!」

ガバッと立ち上がると、スティンの腕を掴み上げ、それをドサリとソファの上に投げる。それから脱ぎ去られた服をその上に投げると、

「私はそんな事はしないと言ったはずだ!」

そう怒鳴った。

その突然の言動に怯えたスティンは、投げられた身体を直ぐに戻すと、床に這いつくばって土下座をする。頭を床に打ち付けるくらいに何度も下げると、涙交じりの声でルーファウスに訴えた。

「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい…っ!」

その姿はあまりにも必死で、怒りを覚えたはずのルーファウスに今度は急激な罪悪感を運んでくる。

彼はDICTで調教を受けてきたのだからこんなふうに考えてもおかしくはないのだと、冷静にそう考えられるまでになると、ルーファウスはその場にしゃがみこんでスティンの肩に手を添えた。

「わ…悪かった。どうかしていたんだ。もう謝らなくて良い…」

湧き上がった罪悪感に悲壮な顔を浮かべたルーファウスはスティンの事を慰めたが、彼の謝罪は一向にやむ気配がない。

何度も頭を打ちつけ土下座をしながら、彼はルーファウスに許しをこう。

ごめんなさい、ごめんなさい、許してください……

「……」

繰り返されるそれらの言葉達は、ルーファウスの心にズキリと何かを与えた。

だって彼は、これほどまでに恐れているのだ。信じていると言いながらも隠せずに。

―――…“不必要になること”を。

 

 

 

仕事は至って順調だった。

新しい会議には出席することができ、これといって嫌なシーンに遭遇することもない。ツォンとの約束は普通に守られており、それはやはりいつも通りのコースでしかなかったが、特別疑念が生まれるようなことはなかった。

それも当然だろう、何せ嫌なシーンに遭遇していないということは、優しいツォンとのギャップが生まれていないということなのだから。

そうした平穏な日々が過ぎると、少し前に感じたあの疑念が嘘のように感じられた。

書類の一つでも提出されれば、それが自分の必要性になる。会議で発言をすればそれはそれで満足できる。

ツォンと過ごす時間に於いては俄然変わらぬ優しさを見ることができたから、自然それが必要とされていることのような気がした。

 

 

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