帰るな、そう言われてツォンが感じたのは、不謹慎だが嬉しいという気持ちだった。
とはいえ、眠らなくてはならないルーファウスの側にずっといることは、実際には辛いものがある。話すことはできないし、一人きりの時間を潰すような有り難いアイテムも無い。
だからツォンは、部屋の中でじっと過ごすことしかできなかった。
静かな部屋の中、一人きり。
聞こえるのはルーファウスの僅かな息遣いと、秒針の音である。
そんな中でツォンがふと考え始めたのはこんなことだった。
もしかするとこんな状況ではこうするのが普通なのかもしれない―――例えば恋人同士なら、心配だからと自ら付き添うこと。自らそれを買って出ること。
そういう事は先ほどのツォンの中には全くといって良いほど無かった。
しかしそれは勿論、心配していないということではない。心配はしているけれど、そこまで考えが及ばなかったのである。
実際こういう状況の場合に、必ずしも側にいなければならないという決まりは無い。ただ単に情がそうさせるだけであって、ツォンの選択しようとした行動は悪い事ではなかった。
しかし、ルーファウスはどう感じただろう。
こんな時に、自分を置いて帰ろうとしたツォンを、ルーファウスはどう思っただろうか。
そんな事を考え始めると、何だか段々と「悪いことをした」などという気分になってくる。あの場面で「では、私はこれで」なんて言葉は酷い発言だったかもしれない。
何しろ、「帰るな」と言われて嬉しいと思ったくらいなのだから、ルーファウスとて同じように思っていてもおかしくないだろう。
とはいえ、普段のルーファウスは、むしろそのくらいの淡々とした態度の方が似合うようなところがあった。
世間で言う恋人とは、違う。
何となくツォンは、自分たちの事を以前からそう思っていた。
会いたいと思うし、側にいたいとも思う。そういう感情は一般のそれと相違ないのだろうが、行動としては表れる事が無かった。
だから、会いたいからといってそれらしいムードを放つこともなければ、その為に仕事に支障がきたすこともなかったのである。
しかし世間ではどうやら違うらしい。
好きであれば、相手を想って眠れなかったり、そのことばかりが頭を占拠したり…そういうことがあるらしいのだ。
しかしツォンはそういう一般的な症状がなく、ルーファウスとの関係においてもそういったものは持っていなかった。
それでもツォンが問題なくルーファウスとの関係を続けていられたのは、ルーファウスもまた同じような人間だったからだろう。
ルーファウスはツォンほどではないにしても、やはりどちらかというと淡々としていた。何かをして欲しいと言って我侭を振るう時があっても、それは恋愛に直結しているものではない。仕事がどうとか私事でどうとか、そういう安易なものである。
だから―――今日のようなことは、珍しい。
帰るな、そう言ったこと。
そして何より…あの電話。
「…貴方も私と同じなのですね」
ツォンはそっとそう呟くと、眠るルーファウスの手をギュッと握った。
それに反応して、ルーファウスが寝返りを打つ。
「ん…ツォン…」
その途中、寝言のように呻いたその声がツォンの耳に入る。それは単純な名前、だけど今のツォンにとっては何だかとても重要な言葉のように感じられた。
ああ―――やはり同じなのだ、そう思う。
この人も自分と同じように、素直な、モノの表現の仕方を知らずに生きてきたのだろう。
翌日、目覚めた時にはベットに臥せっていた。
いつの間にか眠ってしまったのか、昨日考え事をしていた状態のままである。ベットにはまだ深い眠りの中にいるらしいルーファウスが寝息を立てており、ツォンはそのベット脇に身を置いていた。
「朝か…」
勿論、今日も出社である。
ふと見た腕時計は午前9時を差しており、今此処を出てもほぼ間に合わない時間だった。車を飛ばしてもこの時間帯のこと、おいそれと進むことはできないだろう。
そう思ったツォンは、即座に電話に手を伸ばした。それからメモリーされている神羅カンパニーを呼び出す。
そこで手短に休みを届け出ると、電話口の向こうからの嫌そうな声に苦笑しながら「すまない、急なことなんだ」と返した。
このような状況では、とてもルーファウスは出勤などできないだろう。
いつものルーファウスならば絶対に「行く」といって聞かないだろうが、幸いにも今は深い眠りの中である。今のうちに手配しておけば問題ない。
ツォンに関していえば、実際には遅刻覚悟の出社はできたのだが、それでも昨夜の考えが頭にあったため、今日は勝手ながら休もうと思っていた。
「…こういうのをズル休みというのだろうか」
ツォンは呟くと、そういうことをした自分がふと可笑しくなり、思わず笑んだ。
いくら恋人が心配だからといって、仕事を休むなど許されるはずもないことである。
もしこれが個人経営の店なら多少は融通もきくだろうが、ツォンの勤務先は天下の神羅カンパニーであり、その立場といえばタークスの主任なのだ。まさか許されるはずがない。
ツォンはまだ何もしていないというのに、ルーファウスの為にズル休みを決断したことが少しだけ嬉しく思えた。
自分にもそういう恋愛行動ができるということ…それが何だか嬉しかったのである。
とにもかくにも仕事を休んでしまった以上、ツォンとしては何かをしなければならなかった。
基本的には側にいればそれで良いのだろうが、ルーファウスといえば未だ深い眠りの中である。そこで一人ぼうっとするというのは昨夜と同じすぎて納得いかない。
だから、まずはルーファウスの頬に手を当ててみる。
「…少しは下がった、か」
体温計での検温もなしにそう推測したツォンは、じゃあ、と立ち上がる。そして、昨日初めて知ったばかりのその家を徘徊した。
それは主に、使われているかどうかも危ぶまれる綺麗なキッチンの中を。
ツォンがキッチンに篭って数十分が経った頃、ルーファウスはやっと深い眠りから目を覚ました。
「ん…」
ゆっくり開いた目の中に映ったのは、天井である。ソレを見て、ああ、自分は眠っていたのだ、と自覚したルーファウスは、その後すぐに枕元にある時計を見遣った。
その瞬間、ギョッとして飛び起きる。
「じゅ、10時…!?」
―――遅刻!!!
一気に焦りが込み上げ、ガバッとベットから飛び出したが、何ということか一瞬にしてダルさが蔓延した。だから思うように俊敏な動きが出来ない。これはルーファウスにとってどうにももどかしいことだった。
「っ…」
眩暈というほどではないが、どうにもぼんやりする。
明瞭だったのは飛び起きた一瞬だけで、数分経ってしまうと「そういえば風邪だった」なんてことを思い出し、更に重くなった。
そうしてぼんやり重くなってくると、何故か昨夜のことを思い出す。
昨日―――ツォンに電話をして、それから…。
「ツォン…そういえば」
ツォンは何処に行ったのだろうか。
確か昨日は「帰るな」と引き止めてそのままだったはずだから、昨晩はずっとついていてくれたはずである。とはいっても今朝方に帰ったのかもしれないし、もしかしたら出社した後かもしれない。
ルーファウスはそんなことを考えながら、まずはその部屋を出た。ツォンがもしこの家のどこかにいるなら、まずそこから始めなければならなかったから。
そうして部屋を出てみると、すぐにツォンの姿を見つけることができた。それはあまりにも呆気なくて、ルーファウスを拍子抜けさせたが、同時に妙な安堵感も連れてきたものである。
だって…そう、ツォンはいてくれたから。
此処に、この家に、自分の側に―――いてくれたのだから。
しかし此処にいるということは、つまり会社を休んだということになる。本来ルーファウスはツォンの上司であり副社長なのだから、このようなことで休むなど許してはならないことだった。
とはいえ、自分が昨夜口にした言葉や、今の気持ちを考えると、そんなことはまず出来ない。なにしろ本心は「嬉しい」の一言なのだから。
「ツォン」
多少よろよろしながらそう口にしたルーファウスは、ツォンの立つキッチンへと向かう。その声が聞こえたらしいツォンは、ルーファウスを振り返り、それから少し微笑んだ。
「おはようございます」
「うん、おはよう」
そんな当たり前の挨拶は、いつもと同じ言葉なのに何故だか全く別物のように感じられる。ルーファウス宅というこの場所が、それを特別なものにしているのかもしれない。
ツォンは近寄ってきたルーファウスの顔を覗き込むと、少し表情を厳しくさせ、
「下がったとはいえ、まだ熱がありますね」
そんな事を言う。
そのいかにもな口調と表情を見てルーファウスは密かに「医者みたいだ」なんて思っていたが、それは口に出さず、大丈夫だ、と口にした。しかしその言葉の信憑性の無さはすっかりツォンに伝わっているらしい。
ツォンは困ったように息をつくと、それでも笑ってこんなふうに言う。
「まだ横になっていた方が良い。もし朝食が摂れるようでしたら準備は出来ていますが」
「朝食?お前が作ったのか?」
「? はい、そうですが」
「ふうん…」
ルーファウスはそう答えながらも、何だか妙な気分になった。だってあのツォンが自分に朝食を作ってくれたというのだ、これは驚かずにはいられない。
ルーファウスがそう驚くのは尤もな話である。
これがもし普通の恋人だったらばまだしも、二人はやはりちょっと特殊な付き合いをしていたから、いわゆる家庭的な雰囲気と言うのを一切持っていなかった。
それは妻帯者でないからとかそういう問題ではなく、二人の間にあるものの大体は神羅という職場の於いてのものだったからである。
だから二人は食事一つするにもお茶一つするにも外食が当然だったし、家にいる時間よりも神羅にいる時間の方が多かったし、何しろとにかく家庭的な匂いなど一切まとっていなかった。勿論、会話の中にもそういうものは含まれていない。
だからルーファウスにとって「食事を作る」といういかにも家庭的な匂いのする事柄は、驚き以外の何物でもなかった。
その上、それが自分の為に作られたものだなんて。
「…食べたいな」
調子が良くて食べれる状態なら、という条件付の食事であったそれだが、ルーファウスにとってはそんな条件などどうでも良いほどその食事の存在は大きい。だから、そんなふうに口にしてみる。
「そうですか。では…」
ツォンはルーファウスの言葉を、食べられる状態だ、というふうに理解してそんなふうに言う。そして先ほどまで作っていたらしい食事をルーファウスの前に細かに並べ出した。
といってもそれは勿論、大仰なものではない。
風邪っぴき専用ともいえる「おかゆ」らしいそれは、ツォンのリメイクによって味付けがされているらしく、おかゆの割には何だかおいしそうな匂いを漂わせている。
「食べられますか?」
もう既に勝手知ったるという様子のツォンは、ルーファウスさえ忘れてしまったような場所からスプーンを取り出すと、それを差し出しながらそんなふうに聞いてきた。
ルーファウスは「ああ」と即答しそうになったのを抑えると、少し考えてから、こう答える。
「ダルいんだけど…な」
それは、ルーファウスにしては相当珍しい返答だった。
何しろ普段のルーファウスといえば、大丈夫だ、平気だ、の一点張りで、弱気な態度とは無縁である。しかしそれがどういう訳か、昨日の電話の時からこんな調子で、それはルーファウス自身も何だか妙な気がしていた。
けれど、今はその返答が一番素直な気持ちだったのだ。
いや、もっと具体的に言えば、その返答をした場合のツォンの気遣いこそが―――…一番欲しいものだったのである。
そしてその返答とは…。
「では―――その、私が…」
ツォンはそこまで言って、何だか言い難そうに口をもご付かせる。その口元をじっと見詰めていたルーファウスは、ツォンが言葉に詰まっているのにも関わらず助け舟の一つも出さずに黙っていた。
ツォンに言って欲しい。ツォンから、行動を起こして欲しい。
そんなふうに思っていたから。
そのルーファウスの気持ちは、どうやら伝わったらしかった。
数秒後、ルーファウスを見て少し気恥ずかしそうな顔をしたツォンが、こう言う。
「私が食べさせてあげれば…良いのでしょうね」
その言葉を聞いても「うん」とも「すん」とも言わないルーファウスに、ツォンはゆっくりとスプーンを構えた。そのスプーンでおかゆを一掬いすると、それをそのままルーファウスの口元に運ぶ。
ルーファウスはその動作を見遣りながら暫く口を噤んでいたが、ややすると、口元に運ばれたおかゆをそっと口に含んだ。
たった一口のおかゆ。たった一つの動作。
多分こんなのはありふれた風景なのだろうけれど、二人の中には今迄無いものに違いなかった。ただでさえ家庭的なものを共有していない二人がこんなふうにするのは、まるで今迄の関係の中でさえ消えなかった境界を消すかのようである。
ルーファウスはもぐもぐやりながら、目前でスプーン片手に固まっているツォンを凝視していた。その凝視したままの状態でごくりと飲み込むと、少しした後に「美味かった」と感想を述べる。
その簡潔な感想に、ツォンは何も言えなかった。
それは別に感想が簡潔だから何も言えないのではなくて、ルーファウスとの関係でこんなふうにしている事が何だか不思議で、だからそれを受け入れ飲み込んだルーファウスを見て、何も言えなかったという事である。
「美味かったぞ、ツォン」
ツォンが何も言わないものだからもう一度ルーファウスはその言葉を繰り返すと、それからおかゆを見遣った。
それが意味することを見抜いたツォンは、慌ててもう一度スプーンでそれを掬ったりする。
それは何だか―――二人にとって不思議な時間だった。