レノは神妙な顔つきをしているルードから視線を外すと、じゃあ帰ろうなどと言って服をしゃんとさせた。そうして早々に退散しようと身を翻したものだが、どうも相棒は動く気配がない。
おかしいな、そんなふうに振り返ったレノの目に映ったのは、動かずに俯いたルードの姿だった。
その姿はどこか怒りに近いものを感じさせる。但しそれはルード独特の、静寂の中で鎮座するような静かな感情である。
「おい、帰るぞ」
そう声をかけたレノは、目に飛び込んできたある物体に「お」という顔をした。レノがそんなリアクションをしたのは、ルードの手にぶら下がった物体が目に入ったからである。
それは、ミネラルウォーター。
ルードは未だにずっしりとしたミネラルウォーターを手に下げており、その事実はレノに昼の記憶を呼び起こさせた。
昼、タークス本部宛にメールを送った。
それは謎かけのように遊んだ文章で、一見夕食の話をしているかのようなものだった。勿論それはワザとで、単にレノの遊び心である。
がしかし、その理由はそれだけではない。
ルードだけに分かるようにしなければならなかったから、そんなふうに言葉遊びをしたのだ。もし誰かにその文面を見られても、まさかこんな仕事らしきことをしているとは悟られないように。
そしてそれは、何よりレノの意志表示だった。
自分はあの案件に始末をつけます、という―――――ルードへの。
もちろんそれがルードの案件なのは知っていたけれど。
「なんだよ。ホントにピザ注文するか?」
そう笑ったレノは、そんだけ水があればたらふく食べれるかも、なんて笑う。しかしルードは未だ俯いたままだった。
そんなルードが口を開いたのは、見兼ねたレノがミネラルウォータをルードの手から外そうとした、その時で。
「…どうしてそんな事をする?」
「は?」
くいっと首を上げたレノが、不思議そうに声を出す。
「どうしてってそりゃ、親切にも持ってやろうかなと思って」
「それじゃない。―――どうしてお前があの案件に手を出す?」
「――――」
ふと、強い視線が重なる。
まるでもう少しで弾けてしまいそうな導火線のように。
「なぜお前があの案件のことを…知っているんだ?」
レノがどんなに仲の良い相棒であろうと、話す事と話さない事の差くらいはある。そのボーダーをルードは持っている。
どんなに親身な仲だろうと口に出せない事や口に出したくない事は存在しており、ルードにとってその案件はそういうものの一つだった。
特にレノを傷付けてしまったという事実は大きく、だからこそルードはこの案件についてレノに一切告げなかったのである。
だからレノは、タークスの一員として当時解決されたその案件の結果しか知らないはずだった。その解決とは、リーダーを撃った事で任務は完了した、という内容である。つまり、残党がいるという事実は知るはずがない。
残党のことを知るのは、実際にその案件に関わったルードと、報告を受けた上方だけである。
それなのに―――レノはその事実を知っているのだ。
ルードは今更ながらその疑問にぶち当たった。
レノからの暗号に気づいたとき、ルードは一瞬にしてあの残党のことを発想したものである。しかし、レノが知っているはずがない、という部分には頭がまわらなかった。
なぜ疑問に思わなかったのか、自分でもよくわからない。
絶対に仕留めたいと思った相手の動向を、絶対に知られたくないと思っていた相手から知らされるなんて、おかしなことだったのに。
「……何故だ」
ルードは瞳の中に映ったままのレノにそう問う。
その言葉には静かな怒りが含まれており、迂闊な言葉はかけられない雰囲気だった。しかしそれでもレノは、状況打破の為に言葉を放つ。
「…そりゃな、ルード」
意を決したように溜息混じりで放たれた言葉。
それは―――。
「何でもお見通しなんだよ、俺は」
ボトッ……
ふと、ルードの手からミネラルウォーターが落ちた。
それと同時に、レノから視線を外したルードが呟く。
「―――余計な真似はしないで欲しかった」
その言葉が余韻になる頃、ルードは身を翻しその場から去っていった。その後ろ姿はルードの体からは考えられないほどこじんまりとしており、辺りの暗闇により一層彼を小さく見せたものである。
その姿を視界いっぱいに映していたレノは、本来なら真っ先に出るだろう言葉を口にできないまま動きを止めていた。
ワザとじゃない、動かない。動けない。
しかしそうする間にもルードの姿は小さくなっていき、それはやがて暗い闇に完全に溶けていった。
残されたのは僅かな足音の響きだけで、それ以外は何もない。強いて言えば置土産のように地面に落ちたミネラルウォーターがあるというくらい。
しかしそれも今は、何だか虚しい。
「…なんだよ」
残された空間で金縛りにあったように動けずにいたレノは、ようやくそれが溶けた瞬間、そんなふうに呟く。
なんだ、これは?
手に残ったのは、ミネラルウォーター。
そして、腕の傷。
そして……まるで無かった事になってしまったかのような、さっきの言葉。
“何でもお見通しなんだよ、俺は”
――――何で、こんな虚しくならなきゃいけないんだ。
「…クソ。感謝されて当然だろうが、あのハゲ」
レノはそう愚痴ると、すっと足を踏み出した。それはこの場から去るための一歩だったが、やけに重苦しい。それも当然だろうか、何せ行き場を失った一歩なのだから。
ピザは暗号遊びだが、夕飯の話は強ち嘘じゃなかった。
今日もルードの家に邪魔しようと思っていたレノは、当然二人で帰宅する事を想定していた。だから昨日の荷物はルードの自宅に置きっ放しだし、自分の家には何も用意がない。
が、今のこの状況からしてみれば、まさかルードの家にあけすけと上がるわけにはいかないだろう。というより、レノ自身もそれは何だか嫌だと思う。
だって、理不尽だ。
確かに頼まれてないし、こんな行動はルードからしてみれば勝手な事なんだろうと分かっている。
しかし別にルードに感謝して貰いたくてこんな事をしたわけでもないし、手柄を横取りしたいわけでもない。ましてや自分の実力を見せ付けたいわけでもない。
ただ―――――。
「アホらし…」
やっとのことで二歩目を踏み出したレノは、そう呟きながらその先を歩みだした。手にしたミネラルウォータはやけに重くて、何だかそれが妙に淋しく感じられた。
翌日、新しい任務でミッドガル市外に飛んでいたレノは、一本の連絡によって本部へと帰還した。
連絡してきたのはツォンだったが、その声音は焦っているわけでもなく、それほど重要なこととは思えない。もし別の任務なら連絡時にそのまま言づければいいのだから、どうやら任務というわけではないらしい。
首を傾げながら帰還したレノは、帰ってきてようやくその理由を理解した。なぜわざわざ自分が呼び出されたのか、を。
「ルードを宥めてきてくれないか?」
ツォンの第一声はそれだった。
「実は、神羅の極秘データベースに不法アクセスが相次いで起こっていてな。ガードしていたものの、とうとう昨日侵入されたんだ。当初はハッカーだと睨んでいたのだが…回線が特定された」
「へえ?で?」
「要するにその回線が、その……」
ツォンはそこで口籠もると、レノの方をチラと見遣る。
それから少しして続きを口にしようとしたが、それはレノの一言にかき消された。
「―――で。俺が宥めるのは冤罪希望者かな、っと?」
結果を口にせずにそんなことを言うレノは、ルードの身に起こった事に対して微塵の驚きすら見せない。
ツォンはそんなレノを見遣って少しだけ笑うと、ゆっくり首を横に振ってこう言った。
「いや。処罰立候補者だ」
それを聞くなり、レノはその場を走り去った。
滅多に入ることのない社長室にいたルードは、神羅カンパニー社長のプレジデント神羅と対峙していた。部屋の中は静けさに包まれており、その中で低い声が響きわたる。
「なぜ会社の極秘データを見たりしたんだね?君には関係ないだろう。過去の任務のことなど何も」
「分かっています」
先程から同じ言葉ばかりを繰り返すルードは、未だ肝心なことを言わないままである。
今ルードが置かれている立場というのは、会社の極秘データベースに不法アクセスし、上手い具合にセキュリティを抜けて不正にデータ閲覧したという、会社にとっては頭の痛いものであった。
この件に関しては少し前からツォンが関わっていたのだが、今回こうしてルードがこの場に晒されたのは、アクセス元の回線が明らかになったためである。その回線を辿って行き着いた先がルードだったのだ。
神羅社員、しかもタークスとなれば、その疑いはきついものになるのも当然だろう。
この事実が明らかになったとき、ツォンは驚いて否定したものだが、何ということかルード自身が容認してしまい、結果的にルードは此処にいるという次第である。
だから事実としては認めているのだが、何故だかその理由を問われるとその答えはなかなか出てこなかった。
「理由を言えと言っている。どうしてこんな事をしたのか言いたまえ」
幾分イライラした調子でそう言ったプレジデントに、ルードはそれでも沈黙を守る。勿論その態度はプレジデントを更に苛立たせ、その場の雰囲気を悪くさせた。
が、それでもルードは頑ななまでに沈黙を守り、ただ、自分が悪いのだというようなことを口にする。
「困ったもんだな、タークスがそれでは。社の機密を守るのは君達に課せられた使命でもあるんだぞ。それを今回の失態…君は一体どう責任を取るつもりだね?」
「…どうとでも処分下さい」
「ほう。これでも、か?」
そう問いながらプレジデントは手で首を横切るようなジェスチャーをする。要するに、クビ、である。
「…如何様にも」
ルードはそれにすらそう頷いて、サングラスの中の目を細めた。
どうとでもなればいい―――どうせハナから自分のプライドなんて消えていた。
あの任務の時も、昨日も、プライドなんてすでに失ったのだから。今更どうということもない、クビなんて。
「では……」
ルードの態度に呆れ果てたように溜息をついたプレジデントは、とうとうそんな言葉を口にした。それは処罰の決断を告げる言葉である。
――――が、その時。
「失礼します!」
トントンとノックの音が響くと同時に声が聞こえ、プレジデントの言葉は途切れた。
ルードからすれば正に命拾いといったタイミングだったが、そのノックの後に見えた姿に驚き、それどころの話ではなくなってしまった。
そこにいたのは赤髪のタークス―――レノだった。
「社長、お話ししたいことがあります」
レノは珍しく真面目そのものの顔でそう言うと、つかつかとプレジデントの前に進み出た。そうして背後に位置することになったルードには目もくれずにこんなことを進言する。
「会話に水を差すようですが、あそこの男はそんな大層なコトできるタマじゃないです」
「レノ…!」
背後でそう叫ぶルードを無視したレノは、そのままの調子で言葉を続けた。
「その上パソコン操作なんてダメもダメで、とてもそんなハッキングみたいな真似できないです。今時マウスもマトモに扱えないし」
「なっ、お前…!」
あくまで口を挟むルードにレノはやはり無視を決め込んで、だから今回のことはコイツじゃありません、などと結論を出す。
その言葉にプレジデントは目を細めると、ほう、などと口を歪めた。そして、では一体誰があんなことをしたのかな?、とわざとらしく疑問をぶつける。
それは尤もな意見だろう、何しろ証拠たる回線があるのだから。
しかしレノは、笑いもせずにただこんな事を口にした。
「あれは、コイツの回線使って―――俺がやりました」
「レノ!?」
静寂の中で響き渡ったその声に、瞬時に反応したのは当然のことながらルードだった。但し、その声は驚きというより焦りに満ちている。
そんな二人の視線の先にあったプレジデントは暫く黙り込んでいたが、しばらくすると、では、と口を開けた。それはレノの言葉を拒否するでもなく何かを問いただすでもなく、ただ結果を導き出すために。
「だったら君が処分を受けたまえ」
その言葉が響く中で、レノはただ黙って声の主を見つめていた。