守護法(3)【ツォンルー】

ツォンルー

 

―――そこにいたのは、薄汚い姿をした男。

年のころはルーファウスと然程変わらないような気がするが、若干年下だろうという具合。しかしその身なりときたらボロ切れのような服を一枚纏っただけで、髪もボサボサで顔も汚れ切っている。

それを見て呆然としているルーファウスに、男は笑ってこう言った。

「あれは調教が終わったばかりの者です。今から綺麗に整え、商品として部屋に入るのです」

男は、人間とは言わなかった。

あれはただの商品だとそう言い放ち、それどころかルーファウスに向かって「新品」だとさえ言う。

今迄そういったモラルの無い言葉に逐一嫌悪を示していたルーファウスだが、その時ばかりは嫌悪を表することは無かった。というよりも、男の言葉が上手く脳に入っていなかったのである。何故ならルーファウスの脳を占めていたのはその薄汚い男ただ一人だったから。

薄汚い男は、ルーファウスをじっと見ていた。

然程歳も変わらないであろうその男はルーファウスと同じように金の髪と蒼い目を持っており、愛想は無いもののどこか目立つ顔立ちをしている。勿論その顔は薄汚れていたものだから本当にそうかどうかは分からないが、それでもその造作からするに整えればそれなりの顔を持っているだろうことは容易に想像付くところだろう。

その薄汚い男は、蝶ネクタイをした店員らしき者に縄で縛られ連れられている。

そこに丁度、また別の会員がやってきた。

恰幅の良い白髪の男会員は、まだ小部屋にさえ入っていない薄汚い男を一瞥すると、まるで何も見なかったかのように通り過ぎ、壁に並べられている小部屋の一つ一つを覗き込み始める。どうやら誰かを“買おう”という気らしい。

薄汚い男は、すっと俯いた。

その顔にはどこか諦めのようなものが浮かんでいる。

「……」

その一部始終を見ていたルーファウスは、何だか妙に胸が苦しくなった。

きっとあの薄汚い男は、あの恰幅の良い白髪の男会員に何がしかの期待を一瞬でも持ったのだろう。しかしあの会員は何も無かったように通り過ぎ、更には他の人間を選び始めた。それが意味することなど一つである。

自分は、“必要とされなかった”――――ただ、それだけ。

「……いくら、かかるんだ」

ふとルーファウスは呟いた。

別段、興味を持ってそう聞いたわけではなく、口が勝手にそう言っていたのである。

しかし案内係の男にしてみればそれは、ルーファウスがこのサービスに興味を持ち、更には契約を結ぼうとしているというふうにしか取れないものだった。だから男は、数段優しい調子でルーファウスにこうアナウンスする。

「それでは小部屋をご覧になりますか?」

一通り契約方法を説明した男は、最後にそう口にした。

しかしルーファウスはそれに首を横に振ると、未だ小部屋に入らずにいる薄汚い男を指し示して、あの者が欲しい、とそう言った。

 

 

 

契約をして労働力を買う、それは仕事上では当然の方法だが、まさか一人の人間が一回ぎりの契約で一生手に入るだなどとは思ってもみないことだった。

結局あの薄汚い男をそのままの状態で“購入”したルーファウスは、世間からしてみればかなり破格とはいえ人間の値段に相当するとは思えない額を支払うに至った。

案内の男はそれを契約というふうに言ったが、実際にはこれは購入に他ならない。何しろ一回その額を支払えば未来永劫その“商品”を使う事ができるというのだから。如何様にも、というその言葉には、使うことも、そして捨てることすら含まれている。

契約とは購入者と商品との間に締結されるものらしく、購入の際、ルーファウスはあの薄汚い男と一つの契約を交した。しかしその契約は、商品にとっての契約に過ぎないものである。

【商品は購入者である主人に絶対服従であること】

【商品は購入者である主人の命令で無い限りは、主人だけに全てを注ぐこと】

その2点を契約したルーファウスは、まるで奴隷のようだと思いながらもその男を自宅に連れ帰った。いや、実際それは奴隷のようなものだったのだろう、何しろ何をしても構わない上に商品は主人に絶対服従なのである。それは最早、人権を全て否定されたも同然という事だ。

そんなあまりにも待遇の悪いその男は、ルーファウス宅に連れ帰られた後、ようやく本来の姿でルーファウスの前に立つこととなった。

シャワーを浴び、ルーファウスの服の一つを身に纏う。

そうしてみると、やはりその男はなかなか顔立ちが良く、表情も穏やかな様子である。まさか他の会員が望むような事を彼に強要しようという気もないルーファウスとしては、例えば何か簡単な用事を頼むのにはとても最適な人材のような気がした。

とはいえ、実際彼に頼む用事というものも思いつかない。そもそも彼と契約を交したことさえ曖昧な感情の上のものだったから、実際問題としては必要性がないのである。

しかし、連れてきてしまったからには仕方無い。

彼は此処にいるのだから。

「お前は名前を何と言うんだ?」

何だか落ち着かない、そんな気持ちを抱えながらもともかく飲み物を渡したルーファウスは、彼を知る上で重要な部分を問うた。

しかし、どうやら答えは望めないものだったらしい。

「名前はありません。DICTではナンバーで呼ばれていました」

「ナンバー?」

「俺は名前を持っていません。生まれた時から名前はありませんでした」

「……」

一体どういう出自なのだろうか、そう思ったルーファウスだが、生まれた時からというのだからもしかしたら孤児ということが言えるのかも知れない。なるほど孤児ならばあのように反人道的なサービスにうってつけというわけか。

忌々しげにそう思ったルーファウスは、ともかく名前が無ければ仕方がないだろうと、その男に名前を付けた。

ルーファウスが名づけたそのスティンという男は、初めて名前というものを貰って少し戸惑ったのか不可思議な表情をしている。しかしそれでも何度かその名前をうわ言のように呟くと、ようやく実感できたのだか少しだけ嬉しそうな顔をした。

それを見て、何となくルーファウスも微笑む。

「スティン」

「はい、何でしょうか。ご主人様」

「……。その“ご主人様”というのはどうにかならないのか?」

「DICTでは、ご主人様と呼ぶようにと教えられました。…あ、あの…ご主人様が嫌でしたら、そう呼ぶのはやめます」

萎縮したようにそう言うスティンに、ルーファウスは困惑の表情を浮かべた。何しろたったこれだけの事でスティンは萎縮してしまうのだ。

それは、DICTでの調教とやらが余程厳しいものだったからだろう。たった少しでも主人の気を殺ぐようなことがあれば、きっとDICTは厳しく彼に体罰を与えたに違いない。

それを思うと、何だか妙に気の毒になってくる。その身に染み付いたものが。

結局ルーファウスはそれについて「別にいい」と返すと、他の話題を振った。それはルーファウスが主人としてスティンに何を求めるかという、多分スティンにとっては一番問題の部分である。多分ほかの会員であれば此処で早速さまざまな要求が繰り出されるのだろうが、何せ何も要求のないルーファウスである、言うことも自然と決まってくるものだ。

「私はルーファウスといって、神羅カンパニーという会社の副社長をしている」

「はい」

「スティンには仕事を手伝ってもらうつもりもないし、その…夜がどうのというのも勿論頼むつもりなんて無い。だからスティンはただこの家にいるだけで良い」

「この家にいる…だけで、良いのですか…?」

スティンは不思議そうな顔つきをしている。本当にたったそれだけで良いのか?、という具合に。

ルーファウスは頷くと、プライバシーに触れない限りは家の中では自由に過ごしても良いと言った。日中ルーファウスがいないあいだは食事も普通に摂れば良いし、シャワーも自由に使えば良いと。ただ、外に出る時には一言告げてから出るようにと付け加える。

そんなルーファウスの言葉は、スティンにはあまりにも自由すぎるものだった。

自宅のように自由とまではいかずとも、一般よりも優雅であるルーファウスの自宅で自由にして良いと言うのだから当然だろう。外に出かける時には、などという言葉は最も驚くべき言葉で、まさか外出しても良いなどということがあるものかとすら思っていたほどである。

「ご主人様…あの、もし良ければ…き、聞きたいことがあります」

シドロモドロのスティンが、怯えたような表情で口を開く。

一体何だろうと耳を傾けると、それはこんな内容だった。

「な、何故…俺を買ってくださったんでしょうか」

「え…?」

その純粋な一言に、ルーファウスが閉口したのは言うまでもない。

しかし思えば、スティンにとってこれは大きな疑問だったに違いない。これほど自由な選択肢をくれるルーファウスからは、どう考えてもスティンのような存在の必要性など感じられないし、それならば何故買ったのかというのは当然疑問になってくるところだ。

そんなスティンには、ルーファウスの行動の理由など分かりはしないだろう。あの一瞬、恰幅の良い男会員に見放されたあの瞬間に、ルーファウスが感じた心の痛みなど。そしてその心の痛みが、あの時のルーファウスだからこそ感じられたものだということも。

いわば、これは同じ苦しさの共有である。

誰からも必要とされていないのではないか、そうだとしたら自分の行き場所はどこにあるのか―――その苦しさ。

それを見ていられなかった。

もしあの場面でスティンを見放していたら、それはまるで自分をその苦しさの奥底に突き落とすかのようで、ルーファウスには彼を無視することができなかったのである。

もしかしたらそれは、彼に自分を重ねた上での行動でしかなかったのかもしれない。誰からも必要とされていないような自分を、せめて慰めようとするような、そんな行動だったのかもしれない。

しかし、それをそのまま告げることなどできなかった。

「それは…良く分からない。―――ただ、誰かに傍にいて欲しかったのかもしれない」

結局ルーファウスは、そんな言葉を告げる。

スティンは主人のその言葉を、しっかりと耳に入れていた。

 

 

 

翌日、久々にツォンからの誘いを受けたルーファウスは、疑心暗鬼になりながらも約束を遂行した。

いつも通りどこかのレストランへと足を運び、どこかのホテルへとやってくる。それはまるで決められたスケジュールといった具合で変わりが無い。別段それに文句を言うつもりなどなかったが、あまりにもいつもと変わらないそれが妙にルーファウスをそわそわさせた。

綺麗なホテルに着くと、ツォンは上着を取り払って椅子に腰掛けた。ルーファウスはその様子を眼に留めてツォンの真正面の椅子に腰掛けたが、その空間は愛しいというよりも何か落ち着かないものを呼ぶ。だから、マトモにツォンの顔すら見られない。

「どうしました?」

ふと声をかけられ、ルーファウスはゆっくりと顔を上げる。そこには心配そうなツォンの顔があり、いかにも優しげな雰囲気が漂っていた。しかしその優しげな雰囲気も何故だか素直に受け入れられない心持である。

何故こんなふうに思ってしまうのか―――それはルーファウス自身も心苦しいことだったが、ここ数日のツォンへの疑念が膨らんでしまった証拠だった。

レノ達に見せる表情、それはルーファウスには齎されることがない表情。

しかしそれを言うならば、今此処にいるツォンの優しげな表情はルーファウスだけが知りえるものであり、レノ達は知らないものである。つまりそれは同じことでしかない。

単なる我侭かもしれない、そう思うが、それだけで終わることができないくらい恐ろしい疑念が膨らんでいる。

「いや…何でも無いんだ」

「何でもないなんて…そんな悲しそうな表情をして、何でもないはずがないでしょう。一体どうしたんですか?」

食事のときからずっと悲しそうな顔をしている、そうとまで指摘されて、ルーファウスは返す言葉に詰った。

今心にある疑念をツォン本人に告げる?――――出来るはずが無い。

その人の優しさは十二分に理解しているが、それでもそんな事を言ってしまっては単なる我侭だと呆れられてしまうことだろう。そうすることは恐い。

まるで不必要のように感じられる自身自身が、今度は本当に要らないのだと、そう言われてしまいそうで。

「ルーファウス様。私では力になれませんか?」

「……」

「私は、貴方の力になりたい」

「……」

真っ直ぐ瞳を見てそう言ってくるツォンに、ルーファウスは悲しそうな表情をさらに悪化させた。

あまりに色んなことが悲しすぎて、何を言葉にして良いか分からない。こんなふうに言ってくれるツォンに疑念を覚えている自分は嫌だったし、今何も口にできない自分も嫌だと思う。

かといって、何かを口に出して嫌われるようなことも恐いと思っている。まるですべての事に萎縮してしまった人間みたいだ。

そう思った時、ルーファウスの脳裏にふとスティンの姿が蘇った。

あの萎縮した姿、ビクビクとしながら話しかける姿―――今の自分は、あんなふうなのだろうか、と。

「ルーファウス様」

何度目かにそう名前を呼ばれた時、ルーファウスはそっと口を動かした。別に勇気が出たというわけではない、そうではなくてこれは単に自分に悔しくなった結果である。

「…ツォンは、本当に私のことを好きなのか?」

「え―――?」

シンとした部屋に響き渡ったその言葉に、ツォンは驚いたような顔をした。

その表情はルーファウスの眼の中にしっかりと納まり、何か得体の知れないものを運び込む。あの疑念に近い何かを。

しかしツォンはすぐに笑顔になると、当然でしょう、と口にする。それどころか、何故そんな当然のことを問うのかとまで言ってきた。

確かに今二人がこの場にいる時点でそれは愚問に近いものだし、ツォンの言うことは尤もである。しかし先ほどツォンが見せた一瞬の驚きが、何だか妙にルーファウスの心に引っかかっていた。

「何か…不安なことがおありですか?…だとしたら私は、まだまだ未熟ですね。貴方にそんなふうに思わせてしまうなんて」

「違う…違うんだ。これは私が悪いんだ…私はお前のことが…」

―――“信じられない”。

でも本当は……“信じていたい”。

「私は…」

 

 

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