穏やかな笑顔が脳裏に焼きついている。
ああ…この心に残った表情がそんな優しい笑顔で、良かった。
悲しい顔ではなくて、曇った笑顔でもなくて、
本当の笑顔で、良かった――――。
その顔を思い出しながら、祈ることだろう。
どうか花が咲くようにと。
貴方が望んだ花が、咲き乱れるようにと。
ルーファウスと夜を共にした翌日、ツォンはある報告を受けた。
ルーファウスは朝早くに小さなキスを残して部屋を去っていき、それ以降は午後を回っても姿を現していない。
その報告は午後に届き、そしてツォンの眉をしかめさせた。
「移動…?」
その報告とは、こんなものだった。
神羅の状況や今現在の世情を考えると、ずっとこのまま此処に留まるのはあまり良くない。だから移動をするように―――そんな報告である。
移動する先は面倒を見るし、もう用意も整っているという。だからツォンはそのままその言葉に従えば、何の心配もなくこの先生活をしていけるという具合。
けれど、それはツォンにとって心苦しい報告に違いなかった。何しろ此処は神羅の中で、用意された場所は神羅とは離れた土地である。
地域的にもミッドガルと離れているから、それこそルーファウスと会えなくなる。こちらから出向くことはできないし、ルーファウスもそうそうそこまで足を運ぶことはしないだろう。その位、そこは遠いのである。
しかし、だからといってそれに拒否をすることなど、ツォンにはできなかった。
今此処にいることすら好意あってのものだと分かっている。だから、これ以上我侭を貫くわけにはいかないのだ。
「分かった」
そう端的な回答を述べると、報告をしにきた男は、
「どうか、お元気で」
そんなことを言って、ツォンの顔を歪めさせた。
男がそう言う裏にはきっと、ルーファウスの提案があるはずだ。
でも、何故―――?
同じ建物の中にいられるだけでもまだ良いというのに、ルーファウス自らそんな選択をしたとは到底思えない。昨日はあんなに近くに感じたのに、どうして昨日の今日でこんなふうになってしまうのか。
分からない―――とにかくツォンの頭の中には疑問が渦巻いた。
しかしそれを直接ルーファウスに聞こうにも、ツォンの身なりでは本社の中をうろつくわけにもいかない。レノやルードが来てくれればそれを頼めるのに、こういう時に限ってそういう人物の一人も現れない。
結局ツォンはその言葉に従うことにしたが、それでも釈然としないままだった。
ただ一つ良いと思ったのは、もっと広い場所で花を育てることができるというそれだけだった。
たった一人で見つめる二つの葉は、やがて小さな一輪の花になる。
それを見て、ツォンは微笑む。
きっとルーファウスは笑顔になってくれるだろう。
けれど、その花が咲いた本当の意味は、
そこが花の咲く土地だという事実だった。
ああ…此処は――――貴方から遥か遠い場所。
機能的なマンションとは全く違う、木造の家。
数々の場所に木目が見え、時折ほのかに木の香りが漂う。
部屋の数こそ少ないが一人でいるには不自由もなく、一つ我侭を言うなら交通手段をより良くして欲しいというだけ。
周囲には穏やかな草原が広がっているせいか、そこはとても静かで長閑だった。昼は風の音が耳に入り、夜になれば虫の鳴き声が響く。土地が広いせいか、庭も快適そのもので、家庭菜園などはお手のものといった具合。
ベランダを出てすぐのところに、一つ、小さめの花壇がある。
そこには幾輪かの花が咲いており、それはどれも同じ色と形をしていた。春だからとても綺麗に花びらが開いていて、見るだけで心が和む気がする。
赤い、花だった。
ツォンはそれに水を与えながら、照る日差しを腕でよけたりする。こんな天気の良い日は、体調も良くなった気がするのは単なる思い込みだろうか。
手をかけて育てているこの赤い花の名を、ツォンは未だ知らなかった。
自分が種を買おうと言い出し、こうして待ちに待った花まで咲いたのに、未だにそれすら知らないのは何だかオカシイ気もするが、誰も教えてはくれないし、近くには花屋もない。調べようにも、書物を置いてあるような場所もなかった。
この名も知らぬ花が初めて開いた時、ツォンは無性に嬉しくて、すぐさまこのことを報告しなくてはと思った。
しかし報告したい相手は遥か遠い場所にいて、しかも自分が出向くようなことはできない事情がある。何せ今この場所を手配してくれた当人なのだから。少し待てば仕事仲間だった人間が訪ねてくるかもしれないと思ったが、それまで待つことは到底できなかった。
だから、咲いた花を押し花にして、手紙を送った。
ミッドガルを離れてまだ数ヶ月しか経っていなかったが、それでももうずっと離れてしまったような気がして、まるで久々に会う友人かのような文句を書いた記憶がある。
お元気ですか?
お変わりはありませんか?
どうぞ無理はしないで下さい。
そして―――もし、もし少し余裕があれば、私の事を思い出して下さい。
多忙な人だと分かっているから、遠く離れてしまった自分の事を考えろなどという傲慢なことは言えないけれど、それでも少し欲張りな言葉を添えた。
しかし、その手紙に返事は無かった。
きっと忙しく時間も取れないのだろうと思っていた。だから仕方ない、と。一緒に見たいと願ってきた花が咲いたことで浮かれていられるのは自由な身である自分の我侭なのだろうとも思った。
それでもいつか必ず一緒にその花を見たいと思っていたから、花の種をとり、それをまた植える。そうしてまた同じように綺麗な花が咲く。きっとこの花を見たら、あの人は笑ってくれるに違いないし、かつて出来なかったこともできるに違いない。
―――そう思って、何度か花を咲かせてきた。
しかし音沙汰は無く、ツォンは時折訪れる仕事仲間の近況報告でしかその人の状況を知ることが叶わなかった。
そして……ある日の、近況報告。
“主任、重大なお知らせがあります”
未だに主任などと言われるのは変な感じだったが、ツォンは特に何も言わなかった。
しかし次の言葉で、ツォンは本当に言葉を失ってしまったのである。
“神羅が―――落ちました”
一瞬、呆気にとられた。
その次には、何かの嘘だろうと思った。
どうしても信じられなくて「何故?」「いつ?」と質問までした。
詳細を説明してもらっている間も、まるでそれが夢であるような気がしてならず、最後までどうしても信じることができない。しかしそれでもそれが真実だと語る口に、嘘だと言い張ることもできず、ツォンは取りあえず頷くだけはしておいた。
しかし―――問題は、あの人だ。
神羅が落ちたのは、栄光の崩落である。しかし、それはそれでしかない。
問題はそれではなく、あの人が今どうしているかということだった。それを思った瞬間に、ツォンは血相を変えて別の質問を浴びせた。
あの人は、あの人は生きているのか?
“大丈夫です。ちゃんと生きています”
その答えにツォンはホッと胸を撫で下ろした。生きているというなら、また会うことができる。何もかもなくなっても、まだ私がいますと、せめてもの慰めもできる。
少し傲慢かもしれないが、それを信じずには此処までこれなかったも同然なのだから、このくらいは許してもらえるだろう。
その後、今どこにいるのか詳細な住所を聞き、ツォンはやっと落ち着くことができたのだった。
―――その報告から、もうどれくらい過ぎただろうか。
あの人と、どれくらい離れてしまったのだろうか?
訪ねた場所には、その人の姿は無くて。
あの人が此処に現れることもなくて。
だけど、あの人と見ようと誓った花は咲いていて。
私の愛する人よ、お元気ですか?
貴方は今どこで、何をしているのですか?
今この穏やかな光の中で、私の目前には花が咲いています。
貴方も、
今、この穏やかな光を―――感じているのでしょうか……?
「花が綺麗ですよ…ルーファウス様」
“花が咲かないのは、つまらないな”
―――そうですね。けれど、花はちゃんと咲きましたよ。
「一緒に見ようと言ったのに…嘘つきですね」
“ついてない、嘘なんて”
―――そうですね。貴方がそう言うなら信じましょう。
「でもルーファウス様……貴方は此処に、いない」
“…もう行かなくちゃな”
―――そうですね。今度こそ、もう引き止められないから。
貴方がそう望むなら、いつでもこの視界には咲き乱れる花が見える。
だから私の目前には、咲き乱れる花が見える。
その中でも貴方の笑顔は劣ることなく輝いている。
寂しそうな顔は似合わないから、もっとずっと笑っていて欲しいと願っていた。
私は此処で、貴方の側に生きているから。
私が貴方に言った我侭で、貴方は私にこの種をくれた。この種を花に変えて、私は何度も何度も新しい花を愛でていくことだろう。
この赤い花は、私の想い。
この赤い花は、貴方の想い。
こうして繰り返す開花の中で、また私は貴方と出会い、また私は貴方を愛する。
この赤い花は、私達の想い。
想いの欠片だから――――。
風が吹いて、
種は広がり、
やがて花は群れをなす。
咲き乱れる花の群れは、想いの欠片の結晶。
もっともっと広がって、もっともっと広がって、この世界の中でずっと咲き続ければ良い。
貴方が此処にいて、私が此処にいて、想いが此処にあって、それが永遠に繰り返し、続いていくようにと。
目前には、咲き乱れる花が見える。
その中でも貴方の笑顔は劣ることなく輝いている。
私は此処で、貴方の側に生きている。
貴方は此処で、私の側に生きている。
穏やかな光の中、風に揺れる、赤い赤い花のように。
END