その不思議な時間を終えると、用済みの食器はシンクに置かれた。
食べ終えたらまた横になった方が良い、そう言ったツォンに従ってルーファウスはまた、ゆるゆると寝室に足を運ぶ。
ツォンはその隣で支えるようにして歩いていたが、そうしている間も何だか妙な気分になって仕方なかった。
ルーファウスの肩に回した自分の腕が、何故だかいつもより頑丈に見える。
勿論いつだってルーファウスを守る自信はあるし、それなりの技術だって要しているつもりだが、それはツォンの場合、銃という武器があるからこそのものと言える。
だからその武器たる銃が無い場合、自分はただの人に過ぎなくて、そういうただの人である自分とルーファウスが向き合っているというのは「ただそれだけのこと」のように思っていた。
勿論それは、ルーファウスに対して気持ちが無いというわけではない。
けれど今ルーファウスの肩を支える自分の腕は、最早「ただの人」ではないような気がした。その腕に武器たるものが無いとしても、何かしらの技術すらないとしても、それでも何故だかその腕はとても強い気がしたのである。
それは―――気持ちという、最も強い武器に違いなかったけれど。
「大丈夫ですか?」
ベットまで辿り着いて、そこにルーファウスを座らせると、ツォンはまずそう口にした。
「ああ、大丈夫だ」
「熱は?熱は測りましたか」
「熱?…ああ。いや、測ってないけど」
「じゃあ―――」
体温計を取ってきましょう、そう言って踵を返すツォンの背に、ルーファウスの一言が飛ぶ。
「無いぞ、体温計」
「―――はい?」
「いや、だから。無いんだって、体温計。そんなものは持ってない」
「……」
ツォンはその場で固まった。
いくら何でもそれくらいあるだろうと思って、疑問にも思わずそう口にした自分が馬鹿だったらしい。ルーファウスは体温計など無いというのがさも当然そうな顔をしている。
「まったく…」
ツォンは軽く溜息を吐くとルーファウスに近付き、その金髪にサラリと触れた。そして額にかかった髪を上に捲し上げる。
「じゃあ、私が測りましょう」
そう言った途端、ルーファウスの視界はツォンの顔いっぱいになった。
額に、ぴったりと何かが触れる。
それは間違いなく、ツォンの額だった。
「…まだ下がってないですね、熱」
「そう…だよな」
ルーファウスはあまりにも近すぎるツォンに向かってそう呟くと、マトモにその顔を見ていられなくてすっと視線を外した。
何だか―――ドキドキする。
ツォンの顔や息遣いにはとっくに慣れているものかと思っていたのに、何故だかその時それは、まるで初めて感じるものかのように思えた。
けれどもそれは、ちっとも嫌じゃない。
ドキドキするけれど、ちっとも嫌じゃないのだ。
それよりもむしろ、そうして触れ合っている額が嬉しかった。恥ずかしくて視線こそ外してしまったものの、その状況やらツォンの気遣いやらというのは、正におかゆの時に期待していたそれと同じだったから。
どうやら期待は、確実に叶えられているらしい。
「…ルーファウス様」
ふとそう呼ばれて、ルーファウスは視線をツォンに戻した。
すると、その視線の先には真っ直ぐに自分を見詰めるツォンがいる。
僅か5センチほど先の…瞳。
「…何だよ」
わざとぶっきらぼうに答えてみながらも、ルーファウスの手は無意識にツォンの腕を掴んでいた。それは別に何かを期待してのことではなかったから、その後にツォンの顔が視界の脇をすり抜けていってしまったのにも特には落胆しない。
ただ、もしかして…顔がぴたりと重なってしまうのではないかと、そんなふうに思っていたのは確かだったが。
結局ルーファウスの身体を包むように抱きしめたツォンの顔は、ルーファウスの首筋の横に位置していた。
そうして抱きしめ合いながら、お互い少し口を閉ざす。
そういう時間は勿論初めてではなかったが、いつもと違うこの状態では、その時間は何故かとても新鮮だった。何度も抱きしめあってきたのに、初めてそうするような感覚だったのである。
それはきっと、いつもの殺伐さが一切消えてしまったからだろう。
ツォンの中からはより強い想いが、ルーファウスの中からはより弱い本音が、見えてしまったからなのだろう。
二人でいることが「ただそれだけのこと」ではなくなった―――その証拠かもしれない。
「―――なあ、ツォン」
「…何でしょう」
「何だか…こういうのって不思議だな」
「こういうの?」
ルーファウスは、ああ、と頷きながらポツポツと話し出す。その声音は特に明るいわけでもなく、かといって暗いわけでもなく、とても落ち着いていた。
「私は昔から、こうして寝込んだりするとすぐに医者がやってきてテキパキと処置していくだけで…その、他のことなんてして貰った覚えがない」
「…ああ」
「だからかな、こうしてツォンが側にいてくれることが何だか…すごく…」
嬉しいんだ、そう言いたかったのに、何だか言葉が詰ってしまった。別にその時は恥ずかしいわけでもなかったし、それを言うのを躊躇ったわけでもなかったはずなのに。
それでも詰ってしまった言葉は、つっかえたままでなかなか口をついてくれない。
そんなふうにルーファウスが自分自身に歯痒さを感じている隙に、ツォンの方が口を開いた。
「それは多分、私も同じことですよ」
「…そうか…?」
はい、と肯定した後、ツォンもポツポツとこう口にし出す。
「誰かが寝込んだとしても、こんなふうにしたのは始めてですから」
“こんなふう”というのは、おかゆを食べさせたり、額をくっ付けて熱を測ってみたり、そもそもこうして側にいたりということ全てである。しかもツォンにとっては、会社をズル休みするのも初めての事だった。
今迄どんなに大切な人がいても一切やったことが無かったから、ツォンにしてみればこの家にやってくる前から…多分ルーファウスの電話を受けたときから、初めてのことだらけだったのである。
そういう選択をしたことは、ツォン自身をも驚かせていた。
そしてそのツォンの選んだ行動によってルーファウスもまた同じように沢山の“初めて”に出会い、そしてその出会いに驚きを隠せなかったのである。
そういう選択を出来たのは、ほかでも無くそこに想いがあったから。
多分、理由なんてその一言で済んでしまうのだろう。
「…そうか」
ツォンの言葉にそう答えたルーファウスは、ツォンに見えないところでそっと笑った。
それから、こんな事を言う。
「なあ。病気になると人恋しくなるものなのかな。弱くなるものなのかな。…昨日、何で電話なんかしたんだろう。何で帰るななんて…言ったんだろう、な。―――でも、何だかそうせずにはいられなかった」
「きっとそういうものですよ」
「じゃあお前が病気になったら、お前は私を呼ぶか?」
「そっ…それは…どうでしょう」
思わず咳き込みながらそう答えたツォンに、ルーファウスは異議を唱えるように「何でだよ」と呟く。
しかしツォンは、それに答えはしなかった。というよりも、答えたくなかった。
まさか自分が病気にでもなって人恋しくなったからといってルーファウスを呼び出すだなんてあまりにも大それている。
勿論側にいて欲しいと思うけれど、ルーファウスの場合は立場が立場だし、それに何だか自分の弱さを見せるのは勇気がいる。甘えられるのならまだしも自分が甘えるというのはツォンにとってかなり想像し難い…というか、想像したくなかった。
それに今は、気づいたばかりだから反対のことなど考えられなかった。
銃を持たない自分の腕にも強さがあって、それは目前の人への想い故に強く在れるということに気づいたばかりだから。
結局ツォンは、
「そういう事は、そうなった時に考えることにします」
そう答えたのだった。
ツォンはそれらの出来事を思い出しながら、ただただ笑むばかりだった。
そんな経緯でうつってしまった風邪だから、何だか微笑ましく思えてしまう。もしその事が無かったら、多分こうしてうつってしまった風邪でさえ、自分の体調管理が悪いからだとか言って溜息をついていたことだろう。
「しかし…本当にこんな日が来てしまうとは…」
そういえばルーファウスは言っていた。
“じゃあお前が病気になったら、お前は私を呼ぶか?”、と。
それを思い出しながらツォンは、思わず背筋を伸ばした。まさか此処でルーファウスに見つかって風邪をひいたことがバレてしまったら、今度こそその質問に答えを出さねばならなくなってしまう。
ルーファウスほど弱っていないにしても、すこし何かをされれば理性など壊れてしまうだろうあたりが不健康の恐いところである。
もし今日帰って寝込んでしまったとしたら―――…その時は。
「―――呼べるわけが無いでしょう…貴方を」
ちょっとばかり、ルーファウスを呼び出すことを考えて想像してみたツォンだったが、結局はそう呟いてその想像をかき消す。
まさかそんなことは出来ない。したくない。
まだもう少し―――強いままで、いたい。
そう思うツォンにはまだ見えていない。それは想い故の強さであり、ルーファウスの見せた想い故の弱さと全く同じ種のものだということに。
しかしやがてそれを知る時が、いつかは来るのだろう。
その人を守る強さと共にその人の肩に寄りかかる弱さを知る時が、いつかは。
その“いつか”がやって来るのは、そう遠い未来の話ではなかった。
だって―――、そう。
ガラリと開いたドアの向こう。
そこには、心配そうに自分を見詰める顔があったから。
大丈夫か、そう問われた事に関してツォンは、ただ苦笑するしかなかった。
それを見て自分が心底ホッとした事や、とても嬉しいと感じたことに、苦笑するしかなかったのである。
何故ならそれはもう、強さの中に弱さを含んだ証拠だったから。
“ただそれだけのこと”、
けれどそれは今、
“ただそれだけではないこと”。
END