「え…社長、いないんですか?」
二日ほど過ぎてまた尋ねてきたイリーナは、ルーファウスがいないと聞いて驚いた顔をした。
ルーファウスに住まいを貸している、かつての取引先の男は、そうなんですよ、と少し心配そうな顔をする。
「気付いたらもういなくなってましてね」
「そんな…だっていつも篭りきりだったのに」
神羅が崩壊して以降ルーファウスと話す機会が増えていたイリーナは、そんなことは絶対無いと思っていた。
昔はそれこそ少し憤慨する点もあったルーファウスだが、最近はそんなこともなく落ち着いた雰囲気の人間になっていたし、話の感じからしてもそんなふうに活発に動こうという姿勢は見られなかった。
きっとショックが大きかったんだろう、最初はそう思っていたが、どうやら違うらしく、全く人が変わってしまったのだ。
世の中には神羅の再建を企む人間もいる。
ルーファウスはそういう人間たちから最後の“神羅”として言い寄られていたが、そういうとき必ず嫌そうな顔をした。
イリーナも当初は神羅再建を望んでいたが、ルーファウスのそんな表情を見るうちにすっかりその気が失せてしまったものである。
だから今は違う仕事に就くべく活動しており、今日はやっと決まった次の仕事の話でもしようかと思っていた。
きっと今のルーファウスは、それを聞いたら「良かったな」と言って笑ってくれるだろう。
そうしたら、「社長も頑張りましょうよ」とでも言ってみようと思っていたのだ。ずっとこのままでいるわけにはいかないのだから。
しかし、どうやらその希望も絶たれたらしい。
「変なの…どこに行ったんだろう?」
首を傾げるイリーナは、ルーファウスの部屋に入ってその中を見回す。そして、ある事に気付く。
「…?」
見ると、ベット脇に設置された棚の上が乱れている。おかしいなと思いながらそこを探ると、あるものを発見してイリーナは「あ」と声を上げた。
「懐かしい」
そこにあったのは、神羅の社章だった。
それは、プレジデント神羅時代の社旗そのままのデザインの社章で、最近といえば最近まで見ていたはずのものなのに、何だかとても懐かしく感じる。
自分達にスーツを脱げといっておきながら、何だかんだと持っているのか。そう思って思わずイリーナは笑みをこぼした。
折角の神羅の社章だったのに、ルーファウスがあんなふうに言うものだから泣く泣く捨てたというのに。
何だ―――――取っておけば良かった。
そう思ってから、ふと何かが視界に入る。ベット脇に白いものが落ちているのだ。
何だろうと思ってそれを持ち上げると、それは長い包帯だった。
「…どうして?」
はっ、とする。
ルーファウスの顔に巻かれていた包帯。
それは、いつもは絶対に外したりはしないものである。
取り替えるときは別だったけれど、それでもそういう場合は誰かが必ず側についていた。だから、ここに包帯だけが落ちていることはありえなかった。
「嫌だ…まさか」
ある予感に辿り着き、イリーナはそれを手放す。包帯はふわりと宙を舞って床に落ち、イリーナはそれを見ながら目を見開いた。
脳裏を駆け巡ったのは、この前の会話。
忘れられない―――――あの言葉。
もしもルーファウスもそれと同じだとしたら。いや、同じでないはずがないだろう、だってその人はかつて神羅を牛耳っていた本人なのだから。だから、思い出すのは勿論それでしなかい。
目に浮かぶのは、ただ一つ。
―――――ミッドガル。
けれど今そこにあるのは廃墟であり、得られるものなどありはしなかった。思い出に耽るには、そこはあまりにも悲しすぎる。
「社長―――――」
イリーナは、そう呟いて、目を閉じた。
歩き続けた足は、幾度と無くルーファウスの体勢をよろめかせた。それでも止まることなく、歩き続ける。
かつてはこうして長時間歩くことも無かった。全てにおいて他人という足があったし、そうする意味も無かった。そういう立場だった。
けれど今は違う。自分の足で歩かねばならないのだ。
誰も必要としなくなったその土地を巡るには。誰も必要としなくなった自分には。
そうする中で、ルーファウスはまた思考の果てをさ迷っていた。
声が聞こえる。それは優しく、時として戒めるように強く。
“ちゃんと、立っていてくれましたか?”
ああ、立っていた。ちゃんと立っていた。
“貴方は裏切ったりなどしない。そうでしょう?”
そうだ、だから立ち続けた。何もかもを押し殺して、私は立っていた。
あの司令室から、規則的な機械の音を耳にして、ずっと眺めていたんだ。
あの頃、私は何を思ってあの空を見つめていたんだろう。…今ではもう分からない。
“貴方が、神羅なのだから”
ツォン、さすがにその言葉は聞き飽きたな。
分かってる―――――お前が思っていたことは。
お前も分かっていたんだろう?
だから私はその欠片を拾い集めるんだ。あの時、自分として置き忘れてきたものを。
そうしたらツォンにまた会えるような気がするんだ。
“私は、いつでも貴方の側にいます”
分かってる…分かってるけど、もう許してくれ。
優しい言葉だけではもう、未来は見えないんだ。
あの時、お前は言っていたな。まだ余地はある、と。
だが今はもうその余地すらない。
だから私は、お前の残した言葉を切り離して、自分で決断しようと思うんだ。だけどそれはツォンがいたからできる決断かもしれない。
“私が生きている意味がちゃんとあって良かった”
ああ、そうだ。今でもお前は生き続けてる。
この心の中で、ずっと―――――。
今までだって…きっと、これからも。
“証明してくれる人が貴方で―――――本当に、良かった”
私は忘れたりなんかしない。
他の誰がお前を忘れ去ろうと、私だけは覚えてる。…絶対に。
だけど、ツォン――――もう私の事すら、誰しもが忘れようとしているんだ。
この世界は変わってしまったんだ。いや、これが正しいのかもしれない。
望んだ場所に辿り着けるなら、此処が本当の世界かもしれない。
でも―――――……。
なあ、ツォン―――――お前は最大のミスを犯したんだ。
部下失格だ。
もつれる足で辿り着いたのは、神羅ビルだった。
そこはもう既にかつての形状を留めてはおらず、なにがあったかすら分からないほどの荒みようである。
かろうじて少しひびが入った程度の看板を目にして、ルーファウスはそっとそれに触れた。
神羅の文字が書かれたそれは、文字を分断するようにヒビが入っており、まるで今の世界を象徴しているかのように思える。
目を閉じればそこにはまだあの頃の情景があり、求めればすぐさま心は過去に帰れるだろう。
しかしそれはしてはいけないような気がして、きっちりと目を開ける。
その荒廃した土地の中央で、ルーファウスはふっと崩れ落ちた。
ところどころ機械の破片が飛び出る地面にそのまま座り込むと、そっと呟く。
「そうだ、お前はミスを犯した」
とても優秀だったその人も、ミスを犯してしまったのだ。
「馬鹿だな…」
ふっと笑うと、それから―――――目を、瞑る。
そうして瞼の裏に巡った全ては、過去の栄光。過去の名誉。
煌びやかなネオンと、世界を牛耳るほどの権力。
誰かが下卑た笑いを見せ、それに同じ笑いで応えていた自分。
冷徹な目、感情を見せない言葉。
誰しもが憎み、憧れ、依存したその力。
時間の余裕も無く口に放ったビタミン剤。
それを止める心も無く、ただひたすらに破壊に手を染めて。
それで―――――そうして時間が過ぎて、残ったこの身体。
誰も知りはしなかった。
そうして生き延びたこの身体には確かに血が巡り鼓動もあったが、それでも体温は下がりきったままだということに。
ある時からこの体温は、下降するばかりで上昇などできなくなった。
その体温を上昇させる術は、この世界のどこにもありはしない。
誰も知りはしなかった。
温度の意味など。
誰かが望んだこの世界は、あまりにも美しくて、自然で、だけど足りないのだ。
「私自身を守れ…そう言っていたな」
その方法は知っている。けれどきっと、あの人は怒るだろう。そんなことは望んでいない、またそう言われてしまうのだろうか。
だが、それでも構わない。
側にいると言ったその言葉は本当だったし、確かに心の中に大切な人は生き続けた。その人が残した言葉で、多分自分はあの後を保てたのだろう。それも事実である。
けれど、これから先もそうしてその言葉を糧に進むことはできないのだ。もうその言葉は必要の無いものだったし、もう決断は自分の意思ですると決めたのだから。
けれど、自分が神羅だと言ったその人の心だけは尊重したいと思う。
だから―――――此処で。
神羅として生き、その人を想ったこの土地で、過去に閉じ込めたままのその想いを一つづつ拾い上げて―――――決断、を。
「こんな大きなミス……どうしてお前は気付かなかったんだ…」
言葉で縛るには、限界があることを。
この美しい世界という結果の末には、足りないものがあることを。
「そうだ、足りない。足りないんだ、ツォン」
たった一つ。
それだけで良かった。
それだけで良かったのに―――――。
ルーファウスの焼け爛れた肌を、風がなでる。
その中で、そっと、微笑む。
行くな、逝くな、そんな言葉をかけたがった私を、お前は笑うだろうか……?
それでも足りない。
それは最大のミスだった。
神羅としての自分の、そしてツォンの、最大のミス。
たった一つだけ―――――。
「―――――お前の体温だけが……この世界に足りない」
その体温があれば、本当はそれだけで良かった。
数日後、誰も足を踏み入れないミッドガルが、何故か焼け野原になっていた。
誰かが火をまいたのだ、そう人々は口にした。
それは神羅への憎悪の念かもしれないし、真意は分からないとされた。
しかしそれはミッドガル近隣でしか噂にならず、遠方には届くことのない話だった。
もう誰も、そんな事を世界全てに広めようとは思わなかったのである。
誰も知りはしない。
その焼け野原に一体の死骸が増えたことも、ボロボロの社員証が落ちていることなど。
例えそれを目にしたとて、人は忘れてしまうのだ。
そこにあった一つの想いも知りもせず、憎悪という大きな渦で覆い隠し、全てを過去の過ちとして忘却の彼方においやってしまうのだ。
やがて人々は忘れ去り、全ては過去になる。
―――――その、美しい世界の中で。
END
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