3rd [PASS]:06
ツォンが与えられたマンションの一室で、久方ぶりに身体を重ねあった。あの荒れた日以来の触れ合いだったと思う。あの時とは格段に違う優しい手つきの中で、二人は眠りについた。
しかし問題は今。正にこれからのことだった。
今までのしがらみが全て清算できたとしても、これからのことがある。
役職についてしまったツォンとルーファウスにとって、あの企業は望むものではない。ツォンが危惧していたこととルーファウスが危惧していたものはぴったりと一致し、結局二人はある結論に至った。
神羅の二の舞どころか、あれは神羅の冒涜だという考え方もある。
憎き場所であり、それでも神聖な場所でもあった神羅は、崩壊しても尚こんなふうに過去の過ちとして名を上げられる。
それはそれとして、あの新しい組織のやりたいことは、どうしても頷けるものではなかった。そもそも未だに不備が多くて、何をどうしていこうというのか。
夜中に目を覚ました二人は、静かにそれを語り合っていた。
「あそこに…残るつもりなのか、ツォン?」
珈琲を出されて、それを飲みながらルーファウスはそんなふうに聞く。ツォンどころかルーファウスの方が今まさに始まりという状態だったが、それでも身分の部分からいえばそちらのほうが重要だった。
「…いえ、元々そうやる気があるわけではなくて。ただ、少し関わってしまったからあんなことになっただけですよ」
「けど、今更お前の立場で引けるのか?それにまた逆戻りだぞ?」
今企業として立ち上がったあの組織の中にいれば、生活は十分保障される。ルーファウスはともかくとして、である。
しかしツォンは、そんなことはどうでもいいというように笑った。本当に、それは望むところではなかったから。
「私は何でも良い。貴方が一緒にいてくれるなら、それで良いんです」
それが分かったから今此処にいる。珈琲などを飲みながら。
それを聞いてルーファウスも安心したように笑った。
「…結論は一つだな。あんな忌々しいものとはお別れだ。そうだろ?」
「そうですね」
「でも最後に一つだけしたいことがある。俺にはできないけど、ツォンならできる」
「何でしょう?」
耳を貸すように手招かれ、ツォンはルーファウスの口元に耳を寄せた。そしてそこから囁かれた言葉に、ゆっくりと微笑む。
一つ頷いて了承すると、
「やりましょう」
そう答えた。
それを見て、ルーファウスも一つ頷く。
「でも…これでまた1からやり直しだ。仕事は探さなくちゃならないし…きっと大変だぞ?」
しかも今度は互いに職を失うことになる。
だがツォンは、そんなことを言ったルーファウスにこう返した。
「良いじゃないですか、本当に始まりだと思えば。5年前のあの日のように」
それは神羅が崩壊した年、共に職を失い、しかも前職を隠し、名を隠し、初めて違う世界に踏み出すことになった時のこと。
あの頃は、本当に全てが始まりで大変だった。
その頃とまったく同じ状況である。それでも今まだ安心できるのは、一つの山を乗り越えた後だからだろうか。
とにかく、神羅の影を引き摺って、それを必死に拭い去ろうとしていた頃とは違う。あれからそれなりの成長はしたのだろう、例えそれが目に見えないものだったとしても。
「いつだったか…ルーファウス様が言った、あの生活に戻りましょう」
「…ああ、そうだな」
今のままで良い、このままで良い―――そういった生活。
それは見失わない生活。時間がなくて疲れ果てている生活ではなくて、お互いが絶対である生活。
「…ツォン」
「はい?」
「今の…世界は綺麗かな?」
ふとそんなことを聞いたルーファウスに、ツォンは微笑み、答えを出した。
綺麗に決まってますよ、と。
その答えはもうずっと出ている。神羅の時代にも、後悔したつい最近にも。しかもそれは全て同じ答えである。
あのフィルにとって、それは意味の無い質問だったなということを思い返しながら、ツォンはルーファウスを直視した。
ルーファウスはその質問を躊躇いも無く口にする。他の誰かはそれを疑問にも思わず口にも出さない、そしてそんな言葉すら浮かばない。その違いは、きっと先ほど耳打ちされた言葉にあるのだろうと思っていた。
綺麗だと思うのは―――汚さを熟知しているから。
ツォンのいきつけの店の彼女もそんなことを言っていた。いつもと違うものを飲んでみると、いつもの味がどういうものかが分かる、と。
いつも綺麗なものに囲まれていると、それが綺麗かどうかなど気付きもしない。
汚い世界を知っていたから、今何をすれば綺麗といえる世界が見えるか分かる……だからルーファウスは先ほどの提案をしたのだ。
そして、ツォンもルーファウスも、あの企業を受け入れられなかったのだ。
「…ツォン」
「はい?」
「俺は最後の人なんだって、言ったな」
「ああ、言いました」
それがどうかしましたか、とツォンが質問すると、ルーファウスはふっと笑って、
「それは死ぬまで側にいることだ」
そんなふうに口にする。
そう言われてツォンは、それはそうだ、と頷く。
最後まで側にいて欲しい、最後に側にいてほしい。それは最期も同じことかもしれない。
「…寂しかった」
ふっとそう呟き、ルーファウスは俯いて目を閉じる。
「ツォンがいなかった時期、寂しいと思ったんだ。すれ違ったときも同じだった。結局、寂しさが…いつもあったんだ」
「…そう、ですね」
それはツォンも同じことだったが、ツォンは敢えて口にはしなかった。今、ルーファウスは何かを打ち明けようとしていて、それを曲げてはいけないと思うから。
「自分でも気付かなかった。いなくなって、それが初めて分かった気がする。ずっと…ずっと一緒にいたから、そんな世界は知らなかった。…あれだけのことを言ってきたのに、今更こんなふうに言うのは狡いかもしれないけど…な」
「…いいえ、そんなことは」
「神羅のことも―――今思うと頑張りすぎたのかもしれない。捨てようと努力して、それが絶対で…ツォンとの事にもそれを引っ張ってた。でもそういう事じゃなかったのかもしれない。本当なら自然に薄れるものだろう、過去は。それを自分から消そうとするのはきっと、俺の中で消せないことだと本当は知っていたからなんだろうな」
無理矢理にでも消し去らなければならなかった。新しい生活を送り、それになじむために。そして、自分自身が選んでもらえていることを証明するためにも。
けれどそれは、本当に少しの考え方の違いと言うだけで、実はいつでも守られてきたものだったのだ。
でも、それに気付くことはひどく難しかった。
だって…あまりにもあの華やかな世界は眩しかった。
汚い言葉にまみれても、それでもあの過去は本物だった。
今は世界のどこを探してもありはしないけれど、確かにそこに存在していた自分。
それを背負いながら生きていくことはきっと、この先も辛いことだろう。それは良く分かっている。
でも、その隣にいてくれる人がいる。辛い道でも、綺麗な世界を見せてくれる人がいる。
きっとこれからも寂しさは付き纏うだろうけれど、それをも超えていける自信を与えてくれる存在がある。
その人は言ってくれるから。
死ぬまで、側にいてくれるのだと。
「また…一緒に生きていこう」
そう小さく言って笑ったルーファウスを見ながら、ツォンはそっと手を差し伸べた。そして驚いたことにこんなことを言う。
「ええ、ずっと一緒に。けれどその前に、涙を溜めるのは身体に悪いですよ」
「…?」
目を見開いたルーファウスに、ツォンは優しく告げた。
すっと抱き寄せながら。
「涙を溜めると、悪いものが身体に溜まっていくんです。だからたまには思い切り泣くと良い。そうすれば全て悪いものは流れていくから。……涙を堪えてまで笑う必要は無いんです、私の前では」
「…そうだな」
そう言われて、ルーファウスは少し笑った。あまりにも鋭く見抜かれてしまって、それがとても嬉しかったから。
何だか妙な気分だった。
涙は流れるけれど、心はとても嬉しくて。
ああ……此処にも理屈では説明ないものが在ったと、そう思う。
過去は忘れ去られてしまうのだろうか、そう思って一人泣いたときがあったけれど、それも今となっては懐かしかった。
もう、あの日の痛みを思い出すことはできない。過去のどの時間の痛みも喜びも、記憶に残るだけでしっかりとした感情を伴っては思い出せない。
けれど、今感じるものだけははっきりと分かる。その連続が過去であって、今であって、そして未来となるのだろう。やがて過去になる未来が、思い出したときに華やかなものであるようにと思う。
その時も側には、愛する人がいることだろう。
どの時間を思い出してみても。
今また「さよなら」を言うべきだろうか。
流れる涙の中にある悪いもの、全てへ―――。
数日後、始動したはずのシステムは破損した。
それを修復するためにあたふたする人間が数人いたらしいが、そんな姿を見て誰しもがその期待のかかったシステムと、その責任を持つ人々に落胆の色を見せた。
きっと、誰も完璧な修復などできやしない。
何しろ、修復するにも、新しいシステムを作ろうとするのにさえ、その機械の群れはあるものを要請するのだ。
PASSWORD?
そこには、5年前の知られざるパスワードが敷かれている。
かつて守れなかったものを、今度こそ守るかのように。
世界を守るための秘密、透明な道標。
それは、世界で二人だけの秘密。
END