03:リスタートの口実
神羅カンパニーでの一日は、今やルーファウスにとっては意味のない一日だった。
取り敢えず与えられた仕事をこなしはするが、それ以上のことはする気にならない。
例えば副社長として自発的に何かを提案したり、過剰に部下への配慮をしたりということは、今までならまだしも現状ではまるで起こらない感情である。
かつての自分が見たら、今の自分など果てしなく駄目な人間だろう。
デスクの上の紙切れを指で弄りながらそんなことを思うルーファウスは、既に片付いてしまった仕事の為に暇を持て余している。かといって自発的に何かをする気にはなれないから、どうにもこうにも時間の進みが遅い。
少し前までは―――――そう思うと心がズキリと痛む。
少し前、だなんて、時間軸に当てはめて物を考えてしまうのは辛いことだ。何しろそれでは、時間の進みによって何かが変化したことを認識してしまうから。
それが明瞭になってしまえば、答えは自ずと見えてくる。
つまり、“以前”と“今”のあいだに、“何かがあった”という事――――。
そんなことは自分自身でも理解はしていたが、それでも今はその事実に目を背けたいと思ってしまう。
それを考えるくらいなら、あの甘ったるい匂いのする1022号室のことを考えていた方がマトモだとさえ思う。
しかし、なかなかそうもいかないのが現実で、いつも何かにつけ嫌な現実がルーファウスを襲ってくる。
例えばそれは、一つのノックと共にやってくるわけで。
トントン トントン
「…どうぞ」
ふと耳に入ったノックの音に、ルーファウスは顔を上げずに視線だけをなげた。
最近では訪問者すら煩わしいと思ってしまうせいか、誰かが来たからといって背を正す気にもなれない。
がしかし、その時の訪問者に関してだけは、そうもいかなかった。
「失礼します」
聞き覚えのある低い声が響き、ルーファウスははっ、とする。
顔を上げ、思わず背を正す。
しかし表情は副社長らしい厳格なものにはならず、どちらかというと唖然とした表情になっていた。
その表情が見据える先に居た人物は、タークス主任のツォンである。
ツォンは肩より長い黒髪をさらりと揺らしながらルーファウスの元にやってくると、大振りのデスクの上にはらりと数枚の紙を置いた。それは業務上の書類で、その紙面には神経質そうな整った字がびっしりと並べられている。
ツォンらしいその字の並びに目を落とすと、それはどうやらここ三日間の業務内容の報告だったらしく、誰がどういうルートでどう行動しただの、誰がどういう指示を出しただのと事細かに書かれていた。
ルーファウスはその紙を手に取り、ちらりとツォンを見やる。
「随分と細かく書いたな。社内LANを使えば良いのに」
「ええ。そう思いましたが、生憎調子が悪くて」
そう語るツォンの顔は、微笑んでいるように見える。
実際微笑んでいるかどうかは分からないが、少なくともルーファウスにとってそんなふうに見えたのは、もしかしたら単なる願望なのかもしれない。
確か…そう、以前もツォンはこうしてこの部屋にやってきていた。
報告不要の業務内容を、わざわざ足を運んでまで報告してきたツォンは、少し困ったような顔をしながら「会いたかったから、口実を作ったんです」と告白してくれたものである。
それを聞いたときルーファウスは、表情にこそ出さなかったものの酷く幸せだと思っていた。そんなふうに会いにきてくれるツォンが、心から好きだと思っていた。
―――――でも。
「…一部システムダウン、か。本当のことらしいな」
ルーファウスはデスクの引き出しに閉まってあった緊急連絡のメモの中にその文字を見つけると、少し沈んだようにそう呟く。
さすがにもう、あの頃のように口実など作ってはくれないらしい、この目前の男は。
「本当ですよ。別に嘘などつきません」
「…そうだな」
以前はそうしてまで会いにきたくせに。
嘘などつきません、ではなく、嘘をつくほどの気持ちなど無くなったというだけの話じゃないのか。
ルーファウスは思わずそんなふうに考えて、瞳を曇らせる。
「…じゃあ、この書類は預かる。用事はそれだけだろう。もう下がって良い」
「はい」
恭しく頭を下げて下がるツォンは、何故だか妙に他人行儀に見えた。
少し前まではあんなに近くに感じていたのに、何故今はこんなふうに遠く感じてしまうのだろうか。
それは自分があの甘ったるい匂いに酔っているからではない、ましてやあの1022号室の熱に酔っているからでもない。
そうではなく、それ以前に、思い出したくもない消してしまいたいような出来事が、“今”と“かつて”の間にあったからである。
もしそれを消し去ることが出来たなら、どんなに良いだろうか。
そう思うが、きっとそれは出来ないことなのだろうと思う。
だってそうだ、何も無かった事に出来るほどそれは、軽々しい出来事ではなかったのだから。もしそれくらい軽々しい出来事だったならば、最初からこんな溝など出来なかったのだろう。
今の自分と、今のツォンとの間にある、深い深い、溝。
「――――ルーファウス様」
ふと、去り際のツォンがそんなふうに呼びかけてくる。
それを受けてその方向に顔を向けたルーファウスは、何だ、と端的に返答した。
すると。
「もし…宜しければ、今夜、食事でもどうですか?」
「え…」
一瞬、ドキン、と心臓が跳ねた。
それを知らぬツォンの笑顔は、ルーファウスの心音をますます早まらせる。
「もうずっと会っていないじゃないですか。このままでは、私は貴方の恋人失格ですから。駄目ですか?」
「駄目…なわけないだろう」
「そうですか、良かった」
ふっと柔らかく微笑んだツォンの顔は、まるでかつてと変わらぬように感じられた。
甘い愛の言葉を囁き、熱い体を抱き合った、あの頃と。
まるで変わらないような―――――そんな気分が、した。
それはとても嬉しいことだったはずなのに、ルーファウスの心はその気持ちに深く傷ついていく。自分自身の気持ちに傷ついていく。
絶対に、何かは変わってしまったと分かっている。
それなのに、まるでかつてと変わらないと錯覚するほどまでに、今でもツォンへの気持ちが募っているという事実があまりにも痛い。
これでは現実を放棄して幻想を見ているだけではないか。幻想というオブラートで現実のツォンを包んでいるだけではないか。
あの微笑だって、本当は…偽者かもしれないのに。
「仕事…終わったら連絡してくれ。多分今日は、私の方が早く切り上げられる」
喜びと痛みが混ざり合う中、ルーファウスは取り敢えずそれだけを口にした。
「分かりました」
それに対してツォンはそう返答すると、それではまた、と言い残しその場を去っていく。
パタン、と音を立てて閉まったドア。
それが、妙にルーファウスを切なくさせた。