14:複雑な関係図
薄暗い店内で、お世辞にも綺麗とは言えない笑い声が響く。
CLUB ROSEではその日も常連客が楽しそうに笑いあっており、その声は店内を活気づけている。
本来なら艶かしい女性が武器になる店だが、CLUB ROSEの場合はオーナーもちょっとした目玉と化していた。何しろオーナーはオリジナルカクテルの名手だし、話も上手い。
男性客から指名されて「色気も何も無いけど良いんですか?」なんて笑ったオーナーは、そう言った割には上機嫌で客と酒を酌み交わしており、カウンターはもぬけの殻と化している。だからなのか、薄暗い店内の中でカウンターだけがやけに暗いように見えた。
そのカウンターで、マリアは男と向き合っている。
その男は、マリアにとって長い付き合いの男だった。
肩まで伸びた栗色の髪、すらりとした細い体躯、切れ長の眼はいかにも涼しそうで、一見、優男と映る。がしかし、残念ながら格好がそれを裏切っていた。
安物の合皮ジャンパーにダメージデニムという風貌では、あまりにもCLUB ROSEに似合わない。
「はいよ、お望みのコレ」
「ありがと」
男が差し出したある物体を手に取ると、マリアは礼を言いながらそれをまじまじと見つめた。
その物体は小さな薬瓶で、瓶の中には錠剤が詰まっている。
「すっかり依存症だな、マ・リ・ア・ちゃん?」
「そんな嫌な言い方しないで」
「はは!だあってそうだろ?最初は最悪~なんて俺を軽蔑してた癖に、今じゃお前の方がヘビーだ。哀れだよな、こんなに可愛いのにジャンキーってのも、なあ?」
「ジャンキーなんかじゃない。これは普通の薬よ」
マリアはそう言うと、薬瓶をすっと胸の谷間に忍ばせた。そうして飲みかけのアルコールグラスに手をやると、まだ大分残っている液体を一気に飲み干す。
カウンターには男が入れたボトルが置かれており、マリアは特に了承を得ることもなくそのボトルに手をつけた。薬みたいに苦い味がする酒、これは男の趣味である。
「おいおい、いくら兄貴だからってそんなに愛想悪くすんなよな。仮にもお前、此処じゃ一番人気なんだろ?泣くぜ、大好きな肩書きが」
親指と人差し指でもってグラスをカラカラと揺らした男は、やけにねばっこい調子でそんなふうに言う。
それが嫌味であることは間違いなかったが、マリアはその言葉に心から怒ることなどできなかった。それは彼が客だからという理由ではなく、もう慣れ切ってしまったからである。
そもそも彼は、ただの客ではない。
彼が入れたボトルも実のところがマリアが支払いをしているし、本来なら入店禁止になるような人間なのに、それでもこのカウンターにいられるのはマリアのおかげである。
どう考えても駄目な男。
それなのにマリアが彼を優遇せざるを得ないのは、彼が自分の“兄”だからだった。
とはいっても、血などは微塵も繋がっていない。もし本当に繋がっているとしたら心から嫌気が差しただろうとマリアは思う。
マリアが捨て去った家族という組織は、とても複雑な関係図を持っていた。
マリアの父親は無骨な肉体労働者で、お世辞にも良いとは言えない男である。女にモテた経験も無かった彼は、ある日バーの女性に一目惚れし、少ない給料の全てをつぎこんだ。
気の利いた話すらできなかった男は、情熱だけで惚れた女性にアプローチし、最後には頼み込むようにして彼女を口説いたものである。
その情熱が通じたのか、奇跡的に二人は結婚し、子供を一人もうけた。
それが、マリアだった。
母親似のマリアは可憐で、男は薄給ながらも我が子に尽くしたものである。
そこには確かに愛情があったのだろうが、それでも金銭的な生活苦はどうにもならず、結局母親はバー勤めを辞められなかった。
それは生活のために仕方ないことだったが、男にとってはプライドを傷つけられる行為であり、信頼が崩れる要因にもなったのである。
毎晩どこの誰とも知れぬ男と酒を酌み交わす美人の妻に、男は疑惑を向けざるをえなかった。それは自身の容貌や生活力に自信が無いせいだったが、それでもその事実は認めたくなくて、男は妻を詰問し続けた。
一体どんな男と喋ったんだ。
どんな話をしたんだ。
お前を寝取ろうとしている奴がいるんじゃないのか。
そんな疑惑の目と詰問に疲れていた彼女は、マリアに構うことができず、たまにマリアが甘えるときにも優しく応えられなくなっていた。それどころか、彼女の心には別の男の影が潜んでいたのである。
その別の男とは、結婚する以前に彼女が付き合っていた男だった。
夫とは違い高収入エリートだったその男は、許婚がいたにもかかわらず甘い言葉で彼女をベットに連れ込んだものである。
バーで働くほか無かった彼女にとってその男はあまりにも高い理想を実現している人間で、彼女はその男と共にいられることがどんなに不義の関係であっても誇らしく感じられていた。
しかし、やがて男は許婚と結婚し、一子をもうけた。
その報告を受けたのはセックス後のベットの中で、それを聞いたとき彼女の心中には何か言い知れない悲しみが走ったものである。
何度セックスしても、結局最後には選ばれない自分…その現実があまりにも痛い。
確かに、エリートの彼にしてみればバー勤めの自分などは汚点と変わらないかもしれない。セックスも甘い囁きも一時限りの遊びだから出来ることであって、結婚という体裁が問われる場面では絶対に選んだりはしない。
それは重々承知していたが、それでも彼女は耐え切れなかった。
どうせ割り切った関係なんだから続けようと、普通であれば憤慨するような言葉をかけられたときには正直嬉しかったが、それでも彼女は自分の惨めさに耐えられなくなったのである。
だから、自分を真っ直ぐ見つめてくれる男と結婚した。
本気で求めてくれない相手に縋って生きるより絶対に幸せだと思ったから、そういう人とであればずっと笑顔でいられると思ったから、だからそうしたのである。
でも――――現実は違っていた。
“もう駄目、耐えられないわ。私…貴方と別れたい”
夫からの重度の干渉と過去の甘い誘惑に負けた彼女は、ある日とうとうそれを切り出した。
しかし、恐ろしいほどの執着心を見せる夫にとって、それはタブー中のタブーだったのである。
“殺してやる!”
彼女が聞いた夫の最後の言葉は、そんな恐ろしいものだった。
近くにいれば本当に殺されてしまう、そう思った彼女はマリアを連れて遠くへ逃亡したものである。どんなところでもいい、とにかく夫に見つからない場所に行きたい。安全な場所に。
そうして逃亡した後、彼女は例の男と再会した。
まだ夢を見ていた頃に何度も愛を囁いてきた、エリートのあの男である。
再会したその男は、彼女の予想に反してさほど幸せそうではなかった。その理由は、事業の縮小化と離婚にあったことを、のちに彼女は知ったものである。
“妻がね、どこかの男の子供を孕んだんだよ”
離婚の主な理由はそれだった。
彼の妻は、夫が事業に手を焼いている間にどこかの男とセックスに明け暮れ、その果てに相手の子供を孕んだ。
しかし浮気相手の男はどこかに姿を晦ませてしまい、彼女は夫の子供として腹のなかの子供を産もうと考えたのである。
しかしその嘘は、精密検査の結果でバレてしまった。
離縁状を突きつけられた妻は、一人身で子供を育てることは出来ないと泣いて縋り、結果的に夫にその子供の養育を任せることで離婚に同意したという。
その妻が今どこで何をしているかは全く知らないのだとエリートの男は言った。いや、“元”エリートの男は。
それらの経緯を知ったマリアの母は、彼を慰め、そしてまた過去のように彼に堕ちていった。
今や大してエリートでもなくなったその男を、それでも愛していると思ったのはもしかしたら間違いだったかもしれない。
もしかするとそれは、過去に成就できなかったことを今に摩り替えて実現させようという、空しい心だったのかもしれない。