68:ピリオド
今、銃を発砲したら―――――ルーファウスは微塵も抵抗しないだろう。
何しろ自ら撃ち抜けと令する人なのだ、それは当然だろう。
そしてもしルーファウスごとあの男を撃ち抜けば、きっとあの男が広げていた悪事もぷつりと断じることができるのに違いない。
実際その男がどのくらいの悪事を働いているかツォンは知らなかったが、それでもマリアの口ぶりだと随分と手広くやっているようだった。
まるであの日と同じような光景に、眩暈すら感じる。
「…できません、そんな事は。例え貴方の命令だとしても」
結局ツォンはそんなふうに答えると、細かく首を左右に振った。
出来ない、そんな事は。
「ツォン、私はお前を責めるつもりはない。あの日、私は告げるつもりだったんだ。私が神羅の血を継いでいないことを。―――でも、今日ツォンの口から本当の事を聞けて良かった。私はそれだけで満足なんだ」
「……」
「だからもう良い。良いから、早く…――――これ以上の犠牲を出さないように」
ルーファウスはそう言うと、そのまますっと目を閉じた。
ブレていた視界がすっと消え去り、何も見えない暗闇が広がる。もういつこの命が果てても、きっとこの暗闇は変わりは無いだろうと、そう思う。
準備は、できている。
そんな覚悟のルーファウスの背後で、男がぐっと腕に力を込めた。
「うっ…!」
つい顔を歪めてしまったその瞬間、黙り込んでいた男の声が劈くように耳に入り込む。
どうやらこの状況の中で自我を開放させたらしい男は、既に先ほどまでのエリート然とした物言いを捨て去っていた。
「勝手に覚悟決めてもらっちゃ困るんだよ!誓約書を書け!お前が死ぬのはそれからだ!」
「くっ、やめ…っ!」
「止めろ!!」
ツォンの叫びにも構わず、男はルーファウスの手をグイと持ち上げると、それを誓約書の前まで強引に押しやる。
床にはらりと落ちていた誓約書と万年筆まではあと僅か数センチだったが、その僅かな距離がなかなか埋まらない。
それに痺れを切らしたらしい男は、舌打ちをして一瞬だけルーファウスの手を離し、自らの手でそれを拾い上げた。
その瞬間、一瞬だけルーファウスと男との体が離れる。
―――――今だ…!!
瞬間、ツォンは引き金に力を込めた。
パアアアアン…!
銃声が、響き渡る。
その音に思わず身を逸らしたルーファウスは、既に男の腕からは開放されていた。
突然のことで目を瞑り頭を覆ったのをゆるゆると剥がすと、恐る恐る開けた目の中に横たわる男の姿が映る。
男は、無残な体勢で床に倒れこんでいた。
その周辺には、血が飛び散っている。
「あ…あ…」
生々しいその情景に思わず呻いたルーファウスには、事の真相など理解できていなかった。恐らくその場で状況を理解していたのはツォンだけだったろう。
暗い部屋の中で、一人の男が死んだ。
それを呆然と見遣るルーファウス。
正面に佇むツォン。
そして…。
「い、いやああぁ…あ、ああ…っつ、うっ、ううっ」
そして―――――恐れおののきながら泣きじゃくるマリア。
この奇妙な構図を、どうしてすぐに理解できるだろう。
この構図の中で、男が一人死んだとすればそれは当然ツォンの手で下されたものとしか思えない。
がしかし、真実は違っていた。
そう、真実は…、
―――――マリアの手の中にある猟銃が、物語っている。
「マ、リ…ア…」
部屋の隅で蹲るようにして泣きじゃくるマリアを、ツォンは呆然と見詰めていた。
今までツォンは、この暗い部屋の中に彼女の存在があることに全く気づいていなかった。
銃声がして、やっとそこに彼女がいることに気づいたのだ。
何故此処に彼女がいるのか、そして何故彼女が自分よりも早く発砲したのか、その全ては疑問に満ちている。
しかしそれでも、男を撃ちぬいた銃弾がマリアの手にしていた猟銃から放たれたものであることだけは理解していた。
だってそうだろう、ツォンはまだ発砲していなかったのだから。
そんなツォンの正面で同じようにマリアを呆然と見詰めることになったルーファウスは、彼女のその行動に目を見張るしかなかった。
彼女の手にしていた猟銃は、先ほどルーファウスが持ち出したものである。男に蹴られて飛び去ってしまっていたのを、いつの間にか彼女が手にしていたらしい。
いや、それ以前に彼女の身は縄で拘束されていた。
彼女が猟銃を手にできたのは、いつのまにかその拘束を解き、そしてそれを隠していたからということになる。
つまり彼女は―――――チャンスを狙っていたということか。
「何故だ…どうして、お前が…?」
あらゆる意味を込めて放たれたツォンのその言葉に、マリアは何も答えなかった。
ただ、泣きじゃくる声だけがその暗い部屋には響いていた。
その日、空は憎憎しいほどに晴れ渡っていた。
そんな空の下にいるというのに、心はどうも晴れやかではない。どこか悶々としていて、まるで靄でもかかっているかのようである。
数日前、神羅邸ではあるパーティが開催された。
しかしそのパーティは、結果的に大惨事となって終了したものである。
商談という下心を含んだそのパーティが大惨事に見舞われたことは、プレジデント神羅にとっては頭の痛い事だったに違いない。
実際プレジデントはその後のフォローの為に数日間奔走することを余儀なくされたし、今まで良好な関係であった取引先でさえ雲行きが怪しくなったといって嘆いていたほどである。それに、破壊された神羅邸の修繕も必要だった。
それでもプレジデント神羅は、驚くような言葉をルーファウスにかけてきた。
それは今まで感じたことのない…いや、もしかすると感じる心が麻痺していただけかもしれないが、ともかくルーファウスの心を解きほぐすような言葉だったのである。
“しかし何しろお前が無事でよかった。それだけがホッとできる事だ”
今までであれば、神羅の跡取りとして必要だからこそそのような言葉を口にするのだろうと勘ぐっていたところだろうが、その時には何故かそんなふうには思わなかった。
素直に、その言葉に愛情を感じられたのは、ルーファウスにとって不思議なことだった。
しかし、とかく問題は山積みである。
パーティ会場で派手なパフォーマンスに付き合う羽目になってしまったレノは、ある意味ではその日一番の被害者だったろうか。
会場内で叫んだり物を破壊したりしたのをプレジデント神羅本人に目撃されていたこともあり、呼び出しの上で数日の謹慎処分を食らったという話を聞いているが、ルーファウスは未だレノと顔を合わせてはいない。
“つまり、回答求む、ってコト”
“今日が終わったらちょっと考えて欲しいんだ”
“今迄考えたことも無かったような未来もどうなのかって”
―――――回答期限はとっくに来ているのに。
ルーファウスは自室でうっつらとそんなことを考えている。
プレジデント神羅をフォローして処理した件を書類として纏め上げた後は、通常の仕事があるにも拘らずまだ手をつけていない。
すぐさまフォローしなければならないことは仕方無いとしても、基本的にはまだ仕事に戻れるような心持ではないのだ。
とはいえ、そんな事がそうそう罷り通るものでもないのだが。
「回答…か」
ふいにレノの顔が浮かんで、ルーファウスは小さく息を吐いた。
回答が欲しいといったレノに、なんと答えを出して良いか、ルーファウスは未だに決めかねている。
レノの欲しい回答は間違いなく共に歩む未来だろうが、それを回答とするには今の自分はあまりにも純粋とかけ離れていた。
元々レノとの関係は不義から始まったものである、だからそこに純粋などという言葉を使おうとは思わない。
しかし、ツォンという存在から離れざるを得なくなり、レノを頼ることしかできなくなっていたあの時分の己の姿は、レノの立場からすればまだ純粋と似ていたのだろうと思う。
でも、今はもう違う。
こうして数日の間に変動してしまうこんな気持ちは、最低だと思う。
こういうものが人を傷つけていくのだと、それも重々承知している。
しかし、今更ながらに知ってしまった多くの事実を前にして、ルーファウスの気持ちは変動しないわけにはいかなかったのだ。
誰にも認められないようなものだとしても、それは嘘ではないから。
「……」
ルーファウスは引き出しから二枚の書類を取り出すと、それをデスクの上に並べて見詰めた。
一つの書類には誓約書という文字が書かれており、一つの書類にはデータ検索結果という文字が書かれている。
誓約書とは、パーティの日に例の男が差し出してきたあの誓約書だった。いい加減捨ててしまえば良いと思うのだが、何となく捨てられないままに引き出しに仕舞い込んでいる。
そしてもう一つのデータ検索結果とは、神羅が有している住民データの検索結果をプリントアウトしたものだった。
検索したのは、あの男の家庭。いや、あの男というよりマリアのといった方が正しいだろうか。
検索結果のデータによると、そこにはあの男の名前はなく、マリアとマリアの母親のものらしき名前があるだけだった。入籍していない証拠である。
過去には籍を入れていた形跡があり、その相手のデータも見てみたが、相手の男性は既に死亡という表記で終わっていた。
あの男の家庭のデータも取ってみたが、それはプリントアウトせずにおいたものである。
あの男の家庭は父親と彼とで構成されていることになっているが、以前籍を入れていた母親がいることが明確に記されており、その母親を検索してみるとそちらには息子が一人いることになっていた。
恐らくあの金髪の悪童がそれなのだろう、彼の籍は母方に入っているのである。
そんなふうにデータを見ているとふと自分のことが思い浮かび、ルーファウスは思わず自身のデータを探ってしまったが、その結果は思った通りだった。
ルーファウスの籍はプレジデントと共に存在しており、かつて誰かと縁があったようには明記されていない。
つまり本当の父親のことは全く消去されているのである。
それを見て、ルーファウスは何とも言い難い感覚に陥った。
きっぱりと切り離すことで安全を確保してくれたのかもしれない本当の父親。
データの中には、本当のことなど書かれない。悲しいほどに。
それらのデータを閲覧したものの、実際ルーファウスが欲しいデータはそのような血縁関係のものでは決して無かった。
ルーファウスが見たかったのはマリアの連絡先であり、ただそれだけが目的だったのである。
結果的に、彼女のおかげで命拾いをした。
それは実に皮肉な事実だったが、そのことに関して彼女には礼を言わなければいけないと思っていたのである。
しかし肝心の彼女の連絡先が分からない。だからそれが欲しかったのだ。
ツォンに聞けば分かるかもしれない、そう思ったものの、それはすぐさま玉砕した。
本来ならツォンとそんな会話はしたくなかったが、彼は自らマリアが去ったことを告げてきたのである。それは、今までマリアが居住していた場所にも既に姿が無いことを物語っていた。
レノも現れない。
マリアも行方知れず。
―――――物を言いたい人は、姿が見えないままである。
ただ、そんな中でツォンだけは姿を現していた。
ツォンはパーティ翌日から今まで通りに出勤してくると、まず最初にルーファウスの元を訪れ、マリアのことを報告してきた。そして、すみませんという謝罪の言葉を投げたのである。
パーティを滅茶苦茶にしてしまったこと。
そして、一命を取り留めたものの、ルーファウスの身に危害を加えてしまったこと。
それらの事について頭を下げたツォンは、レノのことについてもタークスの長として謝罪などをする。
レノの身辺警護はあくまでルーファウスが頼んだことなのだから、ツォンがそれに関して謝りを入れるのはほとほと筋違いなのだが、恐らくツォンにとってそれは大きな後悔になっているのだろう。
確かにレノの行動は突飛だった。
しかしそれでも必死だった。
結果的に黒幕が見えにくいところに隠れていたために、レノは囮である金髪の男に踊らされて機会を逃してしまったわけだが、それでもそれは無駄なことではないとルーファウスは思っている。
レノやツォンがどう思っているかは分からないが、それでもあの金髪の男を止めることは必要だったし、それが無ければ恐らく黒幕の存在になど気づけなかっただろう。
だからそれは、必要なことだったのだ。
後悔したりするようなことでは、決してないのである。
そういった心持をレノ本人にも伝えたかったが、それは未だ叶わぬままだから、ルーファウスは自身の胸にその気持ちをひっそりと留めていた。
「―――――手紙…でも出してみるか」
ルーファウスはデスクの上の書類に目を遣りながら、ぽつりとそう漏らす。
手紙など出しても、もしかしたら届かないかもしれない。
しかしそれでも、気持ちを伝えようとするそこに、意味は存在していた。